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6、 太陽と月 (その1)



6、太陽と月



 ビラコチャの側仕えと護衛を残して、クシは東の谷の貴族や兵士を引き連れてクスコに戻った。

 東の谷での出来事はクシの心に暗い影を落としていたが、それを憂いていることはできない。クスコの行く末はいまやクシひとりの手に委ねられたのだ。古い慣習も伝統も崩れ去り、一から新しい国家を築いていく出発点に立ったのだ。


 今まで多くの犠牲を出して降り続けた雨は、ようやく収まりつつあった。黒い雲が立ちこめる空から数日振りに光が差してきた。

 住まいを失って郊外の丘やそのまた向こうへと移住を余儀なくされていた人々は、これまでの緊張を強いられる生活からようやく解放された。久しぶりに見た陽の光に、仮住まいの粗末な小屋からぞろぞろと這い出て、皆嬉しそうに天に向かって手を広げた。


 クスコの街は、一段高い場所にあるビラコチャ帝の宮殿や神殿、一部の貴族の屋敷以外はほとんど浸水の被害を受けていた。

 それらを修復するのは、都をまるごと造り替えねばならないほどの大事業だ。クシはその様子を眺めながらある決意をした。


「この機会にクスコの都を改造するのだ。川の流れをもっと地下深くに通し、氾濫しないように蓋をする。都の中心広場から東西南北に伸びる道路を敷き、主要道を繋ぐ通りに沿って秩序正しく住居を配置する。北にある鷹の祭壇を頭として、上部にハナンの区、下部にウリンの区を設け、貴族と彼らの管理する住人たちを住まわせるのだ。

 この都はいずれすべての大地の拠点となっていく。そのために、災害で壊されることのない強靭な街に造り替えるのだ。そしてこの都が大地という巨大な身体の(クスコ)となる」


 クシの命令によって、まだ都に残っていた住人たちも郊外へと移動させられた。その彼らも、そして避難していた人々も、周囲の住人たちの協力を得て、不自由な生活を送ることのないように配慮されたのだ。クシが以前ひとつひとつ農村を巡って住人たちとの信頼関係を築いていたお蔭で、誰もが快く都の住人を受け入れてくれたのだった。


 住民たちの移住がすべて済むと、クシと技術者と主だった貴族たちは、この大工事のためにいくつもの石に設計図を描いて話し合った。何日にも渡る話し合いの末、ようやく都の壮大な未来予想図が完成したのだった。


 工事の準備は整ったが、それに着手する前に、クシはマスカパイチャを戴冠しなければならなかった。重大な事を行う前に、クシが唯一の皇帝として神に認めてもらわなければ再び災いを招くことに成りかねないと大神官は警告した。

 しかし戴冠式を行うに当たって重大な欠陥があることを、大神官はクシに告げた。


「陛下、最も大切なことをお忘れになっております。陛下にお后がおらねば、戴冠することは適いません。そろそろお心をお決めになっていただかねば。

 皇妃とは一族の者すべての母にございます。それゆえ、陛下のお后といえど、われわれとはまったく無関係とはいえません。僭越ながら、われわれ神殿の者は、是非アナワルキさまをお后にお迎えしていただきたいと望んでいます。アナワルキさまなら、これまで神殿の修行も積んでこられ、さらにご自身で戦地に赴かれた。多くのご経験をお持ちのあの方ならば、民の心も汲んでくださいましょう。どうか」


 キヌアを失ってからそれほど時が経たず、未だその哀しみが薄れることはない。クシにとって新たな誰かを后を迎えなくてはいけないことは何よりも辛いことだ。しかしこの期に及んでそのような我を通し続けることなどできない。敢えて誰かをといわれれば、アナワルキしかいないのだが、彼女もクシと同じ想いを抱えていることを彼は知っている。余計に辛い決断だった。


「あと少しだけ時間がほしい。わたしたちにはもう少し話し合うことが必要だ」


 その言葉を大神官は、クシがアナワルキを后にすることを前向きに考えていると受け取った。


「ええ、もちろん。時間は必要でしょう。しかしどうぞわれわれや民の望みもお聞き入れくださいますようにお願い申し上げます」


 そう言って満足げに胸に手を当てて頭を下げた。




 クスコ市の改造とクシの戴冠の準備で宮殿やその周辺が慌ただしいなか、あるときクシにワイナが面会を申し出てきた。側近として常に傍にいるワイナがわざわざ面会の場を設けてほしいというのをクシは不思議に思ったが、実際にその場にやってきたのはワイナだけではなかったのだ。

 クシの待つ広間に入ってきたワイナの後ろを遠慮がちに付いてきたのはティッカだった。ふたりはクシの正面にやってくると、あらたまった様子でその場に跪いて頭を床に擦り付けるように恭しく礼をした。その姿勢のまま、ワイナはクシに面会の目的を告げた。


「本日は陛下のご了解をいただきに参りました。このティッカをわたくしの妻とすることをお許しいただきたいのです

 ティッカは先代ビラコチャ皇帝の侍女、ゆえに今は陛下に仕える身でございます。どうか彼女をわたくしにお譲りくださいますようお願い申し上げます」


 ワイナが死の原からティッカを救い出し都に連れ帰ったあと、すべての記憶を失い頼る先もない彼女を、宮殿の者たちはキリスカチェに帰してやったほうがいいと口を揃えたのだが、ワイナはそのままクスコで体力を回復させたほうがいいと言って反対した。そして自分の親族の館に預けていたのだ。

 ワイナが留守の間に彼女はすっかり元気を取り戻したのだが、記憶だけは戻っていなかった。そろそろキリスカチェに帰す準備をしてやらなくてはと考えていた矢先の出来事で、クシは驚きを隠せない。


「ワイナ、そなたは彼女を救い出したことに責任を感じているのではないか。もしもそうだとしたら、同情だけでは彼女を幸せにすることはできぬ。ようやく体力も戻ってきたのだ。知らない者ばかりのこの都に留め置くよりも、永く暮らしていた故郷に戻してやったほうが彼女のためなのではないのか」


 ワイナはその責任感の強さからティッカとの結婚を考えることも十分有り得ると、クシは思った。記憶を失くし、不安の中で過ごしているティッカには、それが自分にとって良いことなのか判断することはできないだろう。それではふたりとも幸せになれるはずはない。


「私は彼女に対する責任や同情で結婚を考えたのではありません。彼女のことを心から大切に想っているのです」


 そう言って顔を上げ、ワイナはクシを見据えて話し出した。


「実はあの戦の野営地で、ティッカの方から私に想いがあることを打ち明けてくれたのです。しかしこれから戦に臨む緊張感と高揚で、私は彼女の真摯な想いに応えることはできませんでした。死の原で彼女が行方不明になったと聞いたとき、私はひどい後悔と哀しみを覚えました。そのとき初めて、私のほうにも彼女への想いがあったことに気付いたのです。

 死の原で彼女を見つけ、まだ息があることを知ったとき、何としてでも彼女を救い、あの夜に彼女が打ち明けてくれた気持ちにいつか応えようと思いました。ティッカの記憶が戻らないのは、陛下の切実な願いを知りながらワコどのを見つけることができなかった私への罰なのだと思います。

 彼女は一生あのときのことを思い出してくれないかもしれません。でも、あの夜の彼女の言葉がその心の底にある気持ちなのだと信じて、ずっと彼女を愛し支えていこうと思っているのです」


 強く語るワイナの横で、ティッカは相変わらず頭を下げたままじっと身動きせずにいる。

 ふたりの姿を見てクシは思った。ティッカの失った記憶がたとえ一生戻ってこないとしても、ワイナの想いは必ずティッカに伝わり、彼女を絶望の淵から救い出してくれるだろうと。

 そんなふたりの姿を見るのは、キヌアという存在を失ってしまったクシには辛くないといえば嘘になる。しかし同時に、これまでのことがすべて無になっても一から築き上げていこうとするワイナの強さが、クシの中にも小さな希望の光を灯したのだった。






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