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5、 コンドルの行方



5、コンドルの行方



 ぞろぞろと宮殿の方へ向かってくるクシの一軍とウルコの近衛兵たちの姿を見て、東の谷の宮殿内は騒然となった。

 ウルコが近衛兵を率いてクシを追いかけたあと、宮殿の貴族たちは不穏な空気を感じ取っていたのだ。特に何かを話し合うわけではないが、誰もが自然と大広間に集まってきていた。


 クシと一行が大広間に入っていくと、その中央にはウリンの貴族たちが肩を寄せ合うようにして集まっていた。そして正面に並んだ玉座の右端の席には、ウルコの母コルケ妃が座っていた。中央の玉座の右横の席は、彼女のために設けられたものなのだろう。最近では滅多に人前に姿を現すことのなかった妃がそこに座り、中央の玉座が空席であるというのは、異様な光景だった。

 ウルコの近衛兵たちがクシの軍に率いられて広間に入ってきたのを見て、ウリンの貴族たちの中から一斉に息を呑む音が響いてきた。

 コルケ妃は、近衛兵が運んできたウルコの亡骸を見るやいなや、飛び上がるように席を立ち、息子の亡骸にすがり付いた。そして狂ったように泣き叫んだ。

 近衛隊の隊長は、ウルコの身体を抱えて泣き続けるコルケ妃の後ろに跪くと、そのいきさつを事細かに説明した。

 話を聞き終わり凄まじい形相で振り返ったコルケ妃は、胸元に差していたピンを抜き取り隊長に襲い掛かった。

 反射的に身体を庇ってかざした隊長の腕をコルケ妃のピンが深く突き刺した。腕を抱えてうずくまる隊長の首筋目がけて、コルケ妃はもう一本のピンを取り出して襲い掛かる。

 慌ててクシはコルケ妃の身体を抱え込んだ。

 コルケ妃は自分の身体を抱え込むクシの腕に噛み付いた。思わず緩んだクシの腕からすり抜け、今度はクシに襲い掛かった。

 周囲の兵士が駆け寄って妃からピンを取り上げ、身体を押さえ込んだ。彼女はそれに抗いながら金切り声を上げた。


「おのれー! こ奴は次期皇帝を殺して権力を奪い取った反逆者じゃ。誰かこの罪人を捕らえるのじゃ!」


 しかし、その場にいたウリンの貴族たちは、もはやウルコの時代は終わったと感じていたのだ。ウルコの統治はウリンにとって好都合だったが、どこかで破綻が訪れることは誰もが感じていたのだ。ここでウルコの(かたき)を討ったとしても、自分たちには何の利も無いことを分かっていたため、妃の言葉に従う者はいなかった。

 コルケ妃は兵士に両腕を掴まれながら、それでも「誰か! 誰か!」と叫び続けていた。

 クシは兵士たちに彼女を離すように言った。解放されるやいなやコルケ妃はクシに飛び掛り、その首に手をかけて力を込めた。そして血走った目で睨みつけてクシに呪詛を唱えるように言った。


「クスコの祖はウリンの皇帝じゃ! いつの頃からかハナンの独裁を赦し、ウリンは虐げられた。しかもビラコチャ帝は後継者となる息子たちをすべてハナン系の母に生ませ、ますますその権威を強めようとした。そして一方でウリンを弾圧した。

 ウルコ帝はそのウリンにも慈悲を与えたのじゃ! それを再びハナンの独裁に戻そうとは! お前にも神罰が下ろうぞ!」


「……お前にも(・・)とはどういうことだ」

 

 クシの表情と声音が急に強張った。それはコルケ妃に首を絞められているからではない。クシはひどく冷徹な表情になってコルケ妃を睨み付けると、自分の首に掛かる妃の腕を掴んだ。


「お前の母と同じようにということじゃ! ビラコチャ帝は皇帝の座を永久にハナンの血族で固めようとした。だから最もハナンの血の濃いロント妃を正妃に選んだのじゃ。力を独占しようとしたことに太陽神がお怒りになり、ロント妃は命を落としたのじゃ。ウルコ帝の慈悲によって、ようやくウリンもハナンと同じ権威を取り戻そうとしていたところだった。お前が皇帝の座を奪い取ったことで、太陽神は再びお怒りになるであろう!」


 話を聞くうち、クシの顔は怒りでみるみる歪んでいった。それは、これまでクシの傍にいた者たちも目にしたことのないような憎悪をむき出しにした形相だった。


「……母上を殺したのはそなたか?」


 奥歯をきりきりといわせながら、コルケ妃の手首を掴んだ手に力を込める。


「馬鹿な。今言ったではないか、天罰だと。私はふたつの派閥が和解し、クスコに安寧が訪れることを願っていたまでよ。神はわが願いを聞き入れてくださったのじゃ」


 コルケ妃の目は血走って狂気を帯びていた。そう言い放つと天井を向いて甲高い声で笑った。クシは妃の手を折らんとばかりに捻りあげる。


「神に……だと? 呪術師を使って呪いをかけていたのだろう。あるいは密かに毒を盛ったのだ! 父親の敵を討つために! かつてウリンの独裁を望んで反逆を企てたシンチ・ルナの娘よ!」


 コルケ妃はまだクスクスと嗤いながら、クシの顔を覗きこみ嘲るように言った。


「クシ。お前も天罰を受けろ!」


 そう言ってクシの目に唾を吐き掛けた。そしてクシの手が僅かに緩んだ隙にするりと抜け出して、近くにいた兵士の背中から斧を抜き、クシに斬りかかった。

 瞬間早く、クシの斧がコルケ妃の身体を斬りつけていた。不敵な笑みを浮かべたままコルケ妃はクシの足元に転がり、そのまま息絶えた。


 母亡き後、コルケ妃は幼いクシの母親代わりになった時期もあった。

 彼女は特に冷酷でもなければ、彼をかわいがるわけでもなかった。自分の息子以外の子どもなど気に留めることすら煩わしい。幼いながらもクシは彼女の態度にそんな心のうちを感じ取っていた。

 多くの側妃のうちで最も父が信頼を置いている妃であったため、何かあれば彼女を頼るように言われていたのだが、クシにはどんな些細なことでさえ、彼女に頼ることははばかられた。

 今にして思えば、目障りな正妃の忘れ形見であるクシなど、早々に手に掛けて亡き者にしてしまいたかっただろう。しかし復讐を完璧に成し遂げるためには、その些細な衝動は抑えなくてはならなかったのだ。


 復讐という最も崇高(・・)な目的のために人生のすべてを捧げた女の亡骸を前にして、クシは虚しさを覚えずにはいられなかった。


「私は…………」


 コルケ妃の身体を見下ろしたまま、クシの顔は怒りの表情から徐々に悲痛な表情へと変わっていった。


「私は、もう、たくさんだ……」


 そして悲哀を帯びた顔を上げると、居合わせる貴族や兵士たちをゆっくりと見回して、続けた。


「同じ一族の中で争うのは、もう、たくさんだ。

 (ハナン)(ウリン)も同じひとつの世界に存在するものではないか。どちらかが、どちらかを従えるなどということはあってはならない。古くはふたつの存在が同じ力をもって補い合うものであった。


 かつて、ハナンであるわが父ビラコチャが勢いを増していくことで、ウリンが排除されることを恐れたウリンの貴族シンチ・ルナは反逆を企てた。それは失敗し、彼の一家は抹殺されたが、娘だけが生き残った。それがコルケ・カーニャ妃だ。

 素性を隠して宮殿の内部に入り込むことに成功したコルケ妃は、皇族をその内部から崩壊させようと企んだ。そしてわが母を殺し、父上の気を狂わせ操ったのだ。

 ウリンとハナンを同じ地位に戻すことを目指すとしながらも、復讐心から始まったコルケ妃の思惑は、今度はハナンの者の反感を招いた。

 それでは永遠に嫉妬と憎悪が繰り返されることになる。すべては、ふたつの系統が反目し競い合っていることが元凶なのだ。


 ふたつの勢力があることで災いを招くのなら、ひとりの王が天の家系も地の家系も率いていけばよいのだ。

 私はクスコに戻ってこれまでの世界を変えることを太陽神に誓う。唯一の王はハナンの家系を抜けて、どちらにも属さない存在となる。そしてウリンとハナン双方の家系を等しく従えることとする。皇帝は天と地を繋ぐ役割を担うのだ」


 その決意は、クシが大きな哀しみと怒りと困惑を乗り越えて辿り着いたものだ。彼が利己的な理由から権力を独占しようとしているわけでないことは、誰の目にも明らかだ。その証拠にクシは未だやりきれない想いを抱えているように、苦悶の表情をしていたからだ。


 その場にいた者たちは、かつてウルコの側近であったウリンの貴族たちもみな、クシの宣言に大きく頷き、クシに向かってひれ伏した。




 大広間での騒動のあと、隊長の案内で、クシはビラコチャの寝室を訪れた。父王には西の最果てへと追われたあの日以来会っていない。

 ウルコの話とは全く違い、ビラコチャは寝込んではおらず、部屋の中をゆっくりと歩き回っていた。クシが入ってきてもまったく意に介さない様子だ。そしてふと立ち止まると窓辺に近寄って外を見つめていた。

 クシはビラコチャの後ろに近づいて声を掛けた。


「父上、お元気そうで何よりです」


 しかし、ビラコチャは振り返りもせずに、相変わらず黙って外を眺めている。


「父上?」


 突然、ビラコチャがくるりと振り返ると、クシに向かって笑いかけた。その顔を見てクシは愕然とした。

 げっそりと痩せ、骨と皮だけになってしまったような顔の中で、瞳だけがやけに美しく輝いている。そして歯の抜けた口を開けてにやりと笑ったその顔は、かつての精悍な父の面影はどこにもなかった。


「そなたは、新しい側仕えの者か?

 今飛んでいったクントゥル(コンドル)は今まで見たこともないほど大きかったぞ。あれに乗って空を飛んでみたいものよのう」


 呆然としているクシの様子を見て、ビラコチャの世話をする侍女が傍らに跪いて告げた。


「驚かれるのも無理はありません。ビラコチャさまは東の谷に移ってこられてから、日に日に幼い頃へと意識が遡っておられるのです。おそらくクスコにいらした頃より少しずつ予兆が現れていたのでしょうが、その頃はご体調が優れず、床に臥せっておいでのことが多かったので、気付かなかったのです」


 クシは侍女の話を聞いてもなお、目の前の父の姿が信じられずにいた。


「のう、あのクントゥルは、またやってくるかのう?」


 ビラコチャが目を輝かせてクシに訊く。クシは何とか笑顔を繕って優しくそれに答えた。


「ええ、また戻ってきますよ」


 クシの言葉に、ビラコチャは歯の無い口をさらに大きく開けて笑った。そしてまた窓の方を向いて思いきり腕を伸ばすと、幼い子がそうするように空に向かって大きく手を振った。


 クシはそんなビラコチャの背後に跪き、最大の敬意を払うように頭を深く深く垂れた。








クシの母親とコルケ妃の陰謀については、こちらに書いてあります。

→ http://ncode.syosetu.com/n5493w/38/


難解なこの辺りの背景。

ハナンとウリンという王の系譜はアンデスのほかの部族にも存在し、多くの部族がふたり、または偶数の『長』によって率いられていました。

クロニカには、このふたつの家系がしのぎを削り、ときに衝突する様子が書かれていますが、これはスペイン式の捉え方であったのかもしれません。

ふたつ、または偶数で成り立つ世界というのは彼らにとって絶対的な摂理だったのかもしれません。

ただ、ケチュア族が常に後継者争いでもめていたことは確かなようです。


ここではクシがウルコから権力を奪い取る大義名分として、このふたつの派閥の争いを絡めて創作しました。


ある説では、クシはクーデターを起こしてそれまでの皇位継承の方法を大きく変えたとあります。この説を都合よく解釈して、この物語では、クシの代で、皇帝とはハナンもウリンも従える絶対的権力となったとしました。



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