3、 東の谷の宮殿
3、東の谷の宮殿
その後、何日もクスコは悪天候に見舞われていた。雨季が近づいているので、雨が続くのは不思議ではないが、その降り方は尋常ではない。
大雨によって都を挟むように流れる二つの川が氾濫し、街中を水浸しにしてしまった。住むところを無くした住人たちは丘の上に避難したが、その丘もときどき土砂崩れを起こし何人もの犠牲を出した。
神官たちは神の怒りを鎮めようと神殿に集まって祈りを捧げていたが、激しい雨が止む気配はなかった。
大神官がクシに進言した。
「陛下、これは東の谷のビラコチャ皇帝とクスコのクシ皇帝が権力を二分している事に対して神が怒っておいでなのです。
いまやクスコの民にとっての皇帝といえばクシさまですが、この国の伝統では真の皇帝はマスカパイチャを受け継いだ者に限られるのです。国民の認める皇帝と神の認める皇帝が別々に存在し、お互いを認めずにしのぎを削っている。
神の怒りを鎮めるためには、陛下がビラコチャ皇帝からマスカパイチャを譲り受け、正統な跡継ぎとして戴冠なさる必要があります。
しかしビラコチャ帝の代理であるウルコ皇子がマスカパイチャをすんなり渡すとは思えません。
苦しんでいるクスコの民のためにも、一刻も早く兵を挙げ、ウルコ皇子からマスカパイチャを奪い返すのです」
「奪い返す……。それは穏やかではないな。それでは同族で争うことになる。それこそ、神は望んではいらっしゃらないのではないか」
「東の谷でビラコチャ帝とウルコ皇子に仕える兵などそうたくさんは残っておりません。クスコの大軍を率いて脅せば、ウルコ皇子も抵抗できないことを察し降伏するでしょう。実際にはそれほど犠牲を出さずに奪還できるかもしれません」
後日、大神官と同じことをハナンの貴族たちもクシに進言した。
ウルコがビラコチャ皇帝の認めた唯一の後継者である以上、皇帝自らの手でクシにマスカパイチャを授けることは考えられない。しかもいまや東の谷では、老いた皇帝に代わってウルコが一切の権限を握っている。そのウルコが、クシにマスカパイチャが渡ることを黙って見ているとは考えられない。
「チャンカ族を倒したクスコ軍が攻め込むと知れば、ウルコ皇子も観念するでしょう」
「どうぞ、クスコを救うために挙兵を!」
ハナンの貴族たちは皆、武力で脅して奪い取るしか方法はないと口を揃えた。
そんな折、機会を見計らったかのように、東の谷から使者がやってきた。使者はウルコの言葉をクシに伝えた。
「クシさまにウルコ皇太子のお言葉を持ってまいりました。
クシさまは、強国チャンカを制し、クスコの街の平和を護り通された。皇太子さまはこのたびのクシさまのご活躍に大変感心なさっておいでです。
つきましては今後クシさまとの共治をお考えなのです。市民がマスカパイチャを戴くのに相応しいのがクシさまだと言うのであれば、マスカパイチャをクシさまに譲り渡すこともお考えです。
どうぞこのことを話し合うために、東の谷にお越しくださいますように。
老齢のビラコチャ皇帝をクスコまでお連れするのは難儀ですので、クシさまにお越しいただきたいのでございます」
これを聞いて、ウリン派の貴族たちは、「これで分裂した権力が穏やかに和解し合うことができる。ふたりの王が力を合わせて国を治めればクスコは安泰だ」と言って喜んだ。
しかし、ハナン派の貴族たちはその言葉を素直に信じることができなかった。
「これは罠だ。陛下を信用させて東の谷に呼び出し、陛下を討ち取ろうと考えているに違いない。この申し出は無視してすぐに挙兵を」
そう忠告した。
クシもウルコの言葉は信用できなかったが、それを無視して挙兵すればウリンの貴族たちの不信を買うだろう。ふたつの系統はまた反目し合い、クスコはふたたび混乱に陥ることが予測できた。
そこでクシは少数の軍を連れ東の谷に赴くことにした。しかし少数ではあるが精鋭の戦士ばかりを揃え、例えウルコの兵が襲ってきても十分に太刀打ちできるようにした。そして彼らを率いる指揮官には、クシにとって最も信頼の厚いワイナを据えた。
ウリンの貴族たちはふたりの王の和解に期待を寄せ、ハナンの貴族はクシの身を案じながら、皇帝を送り出した。
クスコからまっすぐ東へ向かうと、険しい渓谷に出る。そこから、くねくねと続く深い渓谷に沿って北上していくと、視界が急に開け、緩やかな山に囲まれた美しい谷が現れる。
クスコの街は雨続きだが、東の谷は穏やかに晴れていた。萌黄色の山々の間に広がる新緑の大地に、石と泥レンガでできた小さな家々がぽつんぽつんと建ち、そのずっと奥にビラコチャとウルコの宮殿と思われる石造りの堅固な建物が見えた。
クシの一行が進んでいくと、東の谷の住人たちは驚き、慌てて道の左右に寄り、ひれ伏した。
しかし、ビラコチャ帝とウルコの膝元でとりあえずは穏やかに暮らしている東の谷の住人にとっては、クシは招かざる客だ。住人たちはクシに敬意を払いながらも、よからぬことが起こるのではないかと怯えているようだった。
ウルコの宮殿に向かう途中で、東の谷の地形を念入りに観察していたワイナがクシに近づいて耳打ちした。
「陛下、皇太子は陛下のお命を狙ったことがある。決して油断してはなりません。
もしも皇太子が陛下のお命を狙うとすれば、宮殿の中か、帰りにこの集落から狭い谷へと入っていくあの道です。宮殿の中にはわれわれの軍がすべて入るわけにはいきません。そこでわれわれは宮殿の周りに潜んで待機します。陛下に同行する侍従に骨笛を渡しておきました。いざというときはその合図で中に踏み込みます。
陛下が無事に宮殿から出てこられたのを確認したら、今度は谷に先回りして、陰に潜んで奇襲を警戒しております」
クシは大きく頷いた。
「分かった。ワイナ頼んだぞ」
ワイナは深く頷くと後ろに下がり、宮殿に近づく前に隊を率いて別の方向から宮殿の裏手へと回っていった。
クシは五人の侍従たちとまっすぐに宮殿に向かい、正面の門へ入っていった。
宮殿の護衛の兵士たちはクシたちを見ると一度うやうやしくひれ伏したが、すぐにクシたちを取り囲み、中へと案内した。案内というよりもクシたちが怪しい動きをしないかと監視しているようだ。
兵士たちに連行されるような格好でクシたちは、クスコの宮殿のそれにも劣らない立派な大広間へと案内された。
大広間の正面には黄金製の大きな太陽神のレリーフが掲げられ、その下の玉座にウルコが頬杖を突いて座っていた。
ウルコはクシの姿を見ると勢いよく立ち上がり、白々しいほどの喜びの声を上げて近づいてきた。
「おお、これは、これは。われわれの代わりにクスコを護ってくださった英雄どの!」
そう言いながら、大きく腕を広げてクシの肩を抱いた。
「ああ、すまなかった。私には、あのときチャンカに打ち勝つ方法がまったく見つからなかったのだ。それならば都を捨ててでも民を守るのが王の役目であろう。民さえいればどこにでも都は築けるのだからな。
そなたがいればチャンカを相手に戦うともできることは分かっていたが、私はてっきり、いや、あのときクスコにいた誰もが、そなたがいち早くクスコの危機に気付いて逃げ出したものだと思っていたのだよ。まさかクスコを出奔したクシが助けに来てくれるとは思わなかった。
やはりそなたはクスコを見捨てたわけではなかったのだな」
クシの肩に手を置いて上機嫌で話し続けるウルコにクシは穏やかに頷くと、玉座に手を差し延べてウルコに席に戻るように促した。
ウルコはあれやこれやとクシに言葉を掛けながら玉座に戻り、ゆっくりと腰を下ろしたが、まだ上機嫌でクシを褒めちぎる言葉を並べ続けていた。
ウルコが玉座に腰を下ろしたのを見届けて、クシと側近たちは跪いて深く頭を垂れ、敬意を示した。
「殿下、私はこれからどうやってクスコ、いやこれまでになく広範囲となった国の領土を治めるべきかを話し合うため、ここに参上いたしました」
「おお、そうであった、そうであった。
しかし先ずは、誰があれを付けるのに相応しいのかということだが……」
ウルコはようやく目的を思い出したというように大げさに声を上げると、傍らの召使いに何やら耳打ちした。
召使いはいったん大広間の外に姿を消すと、今度は頭の上にうやうやしく金の盆を捧げ持って入ってきた。ウルコはその金の盆の上に載せられた朱色の房飾りを無造作に掴んで前に突き出した。
「実はこの東の谷に着いてすぐ、私は父上からこれを譲り受けていたのだ。つまりすでに新皇帝の座を受け継いでおったのだ。しかしあの混乱の中で公に戴冠式を行うことができずに今日まで来てしまった。
そなたがクスコで勝手に即位したと聞いたときには驚いたが、今はそれが正しかったと思っておる。そのお陰でクスコの民も周辺の民族もひとつにまとまり、強大なチャンカに打ち勝つことができたのだからな。
本来なら前皇帝から直にマスカパイチャを受け継いだ私にだけ許された皇帝の座だが、そなたが皇帝に相応しいと思っている民も多い。
そこで大昔のケチュア族のように、ふたりの皇帝が同時に統治する国にしても良いのではないかと考えた。
私は地に家系を移し、その代表として神事を司る。そなたは天の代表として国家の運営と外交を司る。そうすれば互いの力を合わせてさらに強大な国家を築くことができるではないか。
多くの民がそなたを皇帝として認めているなら、そなたがマスカパイチャを戴くと良い。
どうだろう。今までは互いに気に入らぬところもあったが、より強大な国家を築くために、昔のことは水に流して手を取り合っていこうではないか」
クシはウルコの身勝手な申し出に、頭を垂れながら唇を噛み締めていた。
ここでワイナに合図を送り、力ずくでマスカパイチャを奪い取ることもできなくもないが、東の谷の住人やクスコにいるウリンの貴族のことを考えればそうもいかない。ここではウルコの案を呑んだように見せかけ、ウリンの貴族たちの理解を得ておくのが得策だ。
ウルコに実力がないことが分かれば自然に民の心も離れていく。そのときこそクシが、すべての民の認める皇帝となれるであろう。
「殿下、それも一案ですが、ビラコチャ帝のご意向も伺わず、われわれだけで決めるべきではありません。まずはビラコチャ帝にお目通りを。わたしは殿下との話し合いもさることながら、前皇帝との謁見を望んでわざわざこちらへ足を運んだのです」
「その願いを聞き入れてやりたいが、あいにく父上は昨晩から体調を崩しておいでなのだ。ちょうど先ほどお休みになられたところだ。父上はご高齢でお体がだいぶ弱っていらっしゃる。いま無理をなさっては取り返しのつかないことになってしまうのでな。
日を改めて必ず前皇帝との謁見を設定しよう。
いまビラコチャ帝の名代はこの私だ。この私からマスカパイチャをそなたに授ける。これを持って今日のところはクスコに戻られよ」
ウルコがマスカパイチャを金の盆に戻すと、召使いはクシの前にやってきて跪き、頭を垂れて金の盆を頭上に掲げた。
クシはそのマスカパイチャを受け取って頭の上に捧げ持ち、正面の太陽神の像に赦しを請うように深く一礼すると、脇に下げた袋に丁寧に収めて立ち上がった。
そして無言でウルコに軽く会釈すると、侍従とともに大広間を後にした。
マスカパイチャは受け取った。
ウルコは意外にもマスカパイチャをあっさりと手放したが、彼の望みはクスコに戻って皇位に就くことなのだ。
ハナンとウリン、ふたつの王が同時に治めるという形でも、とりあえずウルコの希望は果たせるのだが……。
「ウルコさまがクスコに戻られて皇位に就いたとしても、多くの民の心はクシさまだけに向けられるでしょう。皇帝というのは名ばかりで、ウルコさまは肩身の狭い思いをなさるはず。あのウルコさまがそのような窮屈な地位に満足されるわけがありません。
ウルコさまもその状況を察しているはず。
となれば、表向きはマスカパイチャを譲り、クシさまの権威を認めたと見せかけて、クシさまを亡き者にする。クシさま亡き後は、皇位は必然的にウルコさまの手に……」
侍従がクシの横について歩きながら小声で告げた。クシは前を見据えたまま険しい表情で頷いた。
「その通りだ」
突然クシは歩みを止め、上を仰ぎ見た。
そこは東の谷の出入り口。道は険しい断崖の間を通る薄暗い渓谷へと入っていく。
クシは天まで届きそうな断崖の上の方に目をやった。往きに何気なく通ってきたこの道が、今は魔物の巣窟のように不気味な様相を呈している。
「おそらく、この先には私の命を狙うものが潜んでいるだろう。皆十分に警戒して進むのだ。念のためワイナの軍がこの中に待機している。しかし決して油断してはならない」
侍従たちがクシにぴったりと寄り添った。
クシと侍従たちは、これまで以上に慎重に辺りを見回しながら、狭い渓谷へと足を踏み入れていった。