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2、 嘆く夜空



2、嘆く夜空



 キリスカチェ軍が戻ってきたのは、皇帝軍が帰還してから五日後だった。

 キリスカチェ軍は、大陣営戦の勝利を聞いてもしばらくは本拠地にとどまり、戦地から離脱して逃げ帰ってくるチャンカ兵からその本拠地を守っていた。逃げ帰ってきたチャンカ兵たちを捕虜として捕らえ、彼らを引き連れてようやくクスコへと凱旋したのだ。


 天の女王と地の女王が揃ってクシの前に跪き、ワコが託したチャンカの守護神像を差し出した。そして本拠地での戦いを詳しく報告した。

 クシと女王たちの間に入って通訳をするのはティッカではなく、キリスカチェの若い戦士だが、あまりクスコの言葉に慣れていないらしく、なかなか要領を得ない。クシははやる気持ちを抑えて少し苛立ちながら、戦士の訳する女王たちの報告を聞いていた。


 ひととおり報告が終わると、クシはキリスカチェの女王や戦士たちの功績を称え、感謝を伝えた。


「クスコの勝利はキリスカチェ族の力に拠るところが大きい。今後も良き同志として助け合っていきたい」


 女王たちはそれを聞いて満足そうに深く頷くと、立ち上がって広間を後にしようとした。

 クシは慌てて女王たちを呼び止め、ワコは一緒ではないかと訊いた。

 女王たちは顔を見合わせ、難しい表情になった。天の女王が告げる。戦士がまた、たどたどしく通訳した。


「ワコ指揮官は……第三軍の応援のため……クスコ兵たちを率いて……大陣営に向かい……指揮官とその補佐ティッカは……本拠地に……戻ってきませんでした」


 クシは、『戻ってこない』という言葉を聞いて愕然とした。

 キリスカチェ軍に戻っていないのであれば、ワコとティッカはまだ石の原に居るのだろう。残された望みはワイナが彼女たちを見つけて連れ帰ってくれることだけだ。


 ふたりの女王が広間を出ていったあと、クシの不安はどうしようもなく大きくなっていた。何とか心を落ち着けようとして、目を閉じゆっくりと溜め息を吐き出した。そうしてしばらく玉座に深く埋もれた姿勢のまま動くことができなかった。


 やがて宮殿の外側から、キリスカチェ軍の凱旋を喜ぶ市民たちの騒ぎが響いてきたが、クシの耳にそれらは虫の羽音のように意味無く響いているだけだった。



 それからさらに数日を経て、ワイナがクスコに帰還した。

 ワイナと彼の率いる兵士たちは、何とティッカを伴って戻ってきたのだ。


 宮殿の広間に通されたワイナとティッカの姿を見てクシは喜んだ。


「ワイナ、ご苦労であった! ティッカ、無事で何よりだ!」


 思わず玉座を下りて駆け寄り、ティッカの肩を掴む。しかし彼女の瞳を覗きこんだとき、クシの顔から一気に喜びの色が失せた。

 クシが呼びかけてもティッカは何も答えず、その表情は硬く冷たく、まるで石像のようだった。


「陛下、ティッカは陛下のことを覚えておりません。陛下だけでなく、私たちのことも、自分が誰なのかさえも分からないようなのです」


「……いったい、どうしたというのだ」


 そろそろとティッカの肩から手を離すと、クシは難しい顔をワイナに向けた。


「私たちは石の原の奥地にまで入って捜索しました。しかし、石の原の奥には深い霧が立ちこめていて視界が悪く、そのうえ異様な匂いが漂っていました。その匂いを嗅いだ者が次々と具合を悪くしたので、そこに長居するのは危険だと引き返そうとしていたのです。

 ちょうどそのとき強い風が吹いてきて、少しの間だけ霧が晴れたのです。すると我々の少し先にティッカが倒れているのを発見しました。彼女は意識を失っていたので、我々は彼女を抱きかかえ、なんとか安全な場所まで担ぎ出しました。ティッカを助け出したあと、すぐにまたその辺りは霧に覆われてしまいました。

 石の原からティッカを連れ出し、出来る限りの介抱をして、ようやく彼女は目を覚ましました。しかし一言も口を聞かず、われわれを見てもまったく何の表情も示さないのです。

 石の原に立ちこめていたのはおそらく強力な毒気です。ティッカは命だけは助かったものの、毒気によって頭を侵され、これまでの記憶を失くしてしまったのでしょう。

 ワコ殿があの奥へと入り込んだのだとすれば、おそらく…………」


 ワイナは言葉を切って、俯いた。

 ワイナの話を聞いたクシは、目の前に跪いてまったく視線を動かそうとしないティッカの姿を悲しげな目で見つめた。彼女の前にそっと跪いて床に置かれた手に自分の手を重ねてみたが、彼女は矢張り何もそれに反応することはない。石壁のように冷たく強張ったティッカの手を温めるように、その手を優しく握った。ティッカの手を握ったままクシは深くうなだれ、長い溜め息を吐いた。




 ワイナの帰還ですべての軍がクスコに帰還した。

 クシは、クスコの市民に戦いの終結と勝利を宣言するため、またこの戦いで犠牲になった者たちの復活を祈るために、盛大な祭を催した。

 クスコの勝利を聞きつけて、クスコの市民だけでなく近隣からも続々と他の部族が祝勝にやってきた。

 クシは即位式で身につけたものにも劣らない立派な衣装を身につけて、大きな羽冠を頭に戴き、光輝く黄金の杓杖を手に、広場に集う民衆の前に姿を現した。

 広場にはクスコの市民だけでなく、同盟を組んでこの戦いに協力した多くの部族の民も集まっている。

 さらに殉死した戦士たちを偲ぶ物や、木乃伊(ミイラ)になるのを待つその遺骸さえも広場にかり出された。

 クシがそこに集うすべての民の前で、戦いの勝利を報告し、彼らの未来の平和を約束したとき、群集の興奮は最高潮に達した。

 クスコを攻めてきたチャンカをクシが追い払ったとき、彼らはまだ再び攻めてくるかもしれない敵に怯えていなくてはいけなかった。

 しかしようやく怯えて暮らす必要は無くなったのだ。今こそ彼らの英雄は本当の意味でクスコを救ったのだ。クスコだけでなく、東の地一帯の部族にも真の平和が訪れた瞬間だ。


 大歓声を上げる無数の民に向かって、クシは両手を大きく広げた。

 戦いを終えたあとは、そこに集っているすべての民の生活を請け負う仕事が待っている。彼はその重い責務をしっかりと受け止めようとするように、民衆に大きく腕と掌を広げ、何度も頷いてみせた。


 ひととおりの儀式や祭礼が終わり夜になっても、クスコの街にはあちこちにたいまつが灯されて、騒ぎが収まる気配はなかった。

 それから人々はほとんど眠りもしないで三日三晩の間騒ぎ続けた。



 チャンカを倒したことで、西の地に新しい広大な領土を手に入れ、近隣の同盟者と敵陣の捕虜を大勢抱えたクスコの国は、今までのような小国の制度では成り立たず、一大国家として新しく立て直す必要があった。そこで新皇帝にはやらなければいけないことが山ほど待っていた。

 しかしクシは聖なる谷で誓ったように、新しい国家を作ることには大きな希望を抱いていた。

 民衆はケチュア族のみならず同盟部族の民までもが、みなクシを信じ、クシの築こうとする新しい国家に希望を託している。クシの理想を実現させるにはこれ以上望ましい機会はなかった。


 それからのクシは、常に新しい国の設計図を頭の中に思い描き、その建設の準備を整えるために忙しい日々を送っていた。



 しかしそんな多忙な日々でさえ、クシの心の奥にある深い悲しみを忘れさせることはできなかった。

 夜、部屋に戻ってひとりになると必ずワコ、いやキヌアのことを思い出した。すると大きな悲しみで全身が切り裂かれるような痛みが走る。

 毎夜、まるで小さく憐れな子どものように自分の身体を抱え込み、高窓の向こうの星空を見上げて、せめてキヌアの亡骸だけでも自分の許に返してほしいと繰り返し祈り続けた。


 ある夜、とうとうクシは部屋を抜け出して、キヌアとともに星空を眺めたあの丘に上った。満天の星空に向かって手を広げ、あの夜のように願いを託した。


「幾千、幾万の動物たちの魂よ。どうかわが願いを聞き入れてくれ! 最愛の人をもう一度私の許に連れてきてほしい!」


 何度かそう叫んだとき、俄かに雲が立ち込めて星空をすっかり覆ってしまった。暗い夜空から雨粒が落ちてきてクシの身体を濡らしていった。今クシが願ったことは到底叶えられないと嘆いているかのように。

 強くなってくる雨に打たれて、クシは絶望的な気持ちを抱いた。そして激しい雨音と遠雷の音に紛れて大声で泣き叫んだ。

 ひとしきり泣いたあと、クシは空を見上げ、落ちてくる雨粒を受けながら言った。


「私の代わりに嘆く空よ。もう私は己の願いばかりを託すのは止めよう。これ以上キヌアに逢うことを願いはしない。だが彼女の亡骸に復活の祈りを捧げてやれないのなら、せめて、彼女の魂をこの大地にとどめておいてほしい。そして彼女がやすらかに過ごせるように見守っていてほしい……」




 次の日もクスコの街は雨に煙っていた。

 クシは宮殿の広間に、宮殿とその近隣に住まう主だった貴族たちを集めさせた。

 ユタの世話をする老女タキリャとビカラキオ将軍の夫妻がクシの正面にひれ伏し、その傍らに置かれた籠にはユタが小さな寝息を立てていた。クシはそこに集っている者たちに向かって話し出した。


「残念なことに、ワコが戻ってくる可能性はほとんどない。

 ワコは、万一のときはと私に遺言を託していたのだ。彼女の心残りは幼い皇子を残していくことだった。そこで今後ユタに関わるであろうすべての者たちにその遺言を守ってほしい。ワコの最期の願いを聞き入れてほしいのだ」


 そう切り出して、クシはワコが託した言葉をそこに集う者たちに告げた。つまりユタが成人するまでワコに関することを聞かせてはならないということだ。みな静かに頷いたが、タキリャだけは顔を伏せたまま強い口調で抗議した。


「母の存在を知ってはならないとは、ユタさまが不憫でなりません」


「ワコはそれを乗り越えて、ユタに逞しく育ってほしいと願っていたのだ」


「しかしそれでは、ユタさまが成長するにつれ、母上がご自分をお捨てになったのではとお思いになるかもしれません」


 顔を伏せたまま、タキリャは頭の前に何かを差し出した。それはクシの母の形見であり、キヌアに譲ったあの青銅のピンだった。


「これは、ワコさまが出陣するときにユタさまのおくるみに付けて残していかれたものです。ワコさまはこれ以外の服や装飾品や身の回りの物をすべて、出陣の前に燃やしてしまわれたのです。おそらく死を覚悟されていたのでしょう。

 ワコさまのご遺志を尊重して、ユタさまにはワコさまのことを詳しくお話することはいたしません。しかしせめて、ユタさまを大切に想っていらしたお母さまがいらしたことだけはお話させてください。

 そしてこのピンが、ユタさまとお母さまをつないでいるのだと」


 クシは少し考えたのち、タキリャに告げた。


「そなたはティッカの次にワコの近くにいた侍女だ。ワコの想いもユタのことも誰よりも分かっておろう。そなたの判断に任せる。ユタの成長をいちばんに考えて接してほしい」


 タキリャはむせび泣きながらも「はい」と力強く返事をした。

 クシは、前にかしずく三人を見回して言った。


「タキリャ、ビカラキオ将軍、リュスカ、ユタのことをよろしく頼む。もちろん私も弟の成長を見守る。彼を、ワコが望んだ強い心を持つ立派な戦士に育てたいと思う」


「かしこまりました」


 三人はさらに深く頭を下げた。

 籠の中の小さな皇子はそんなことなど知らずに眠っている。そしてときどき幸せそうに微笑むのだった。










※インカ、及びアンデスの人々の間では、人は死んでもその魂はミイラとなった身体に生き続けると信じられていました。

彼らにとって『死』が別れではなく、ミイラとなった同胞は生きている同胞を見守り続けてくれる存在でした。

日本でいえば『仏』のような存在でしょうが、それよりももっと近しいものだったのだと思います。


インカ最後の皇帝が処刑されるさい、皇帝は、火あぶりの刑を絞首刑にしてもらうためにキリスト教への改宗を受け入れました。

火あぶりになって身体を失い、復活できなくなることをいちばん怖れていたのです。


リマ近郊で発見されたインカ人とスペイン人の戦いの跡地では、戦いに敗れて撤収したインカ側がふたたび戻ってきて同胞の遺体を運んだあとが残っているそうです。


インカでは、死のあとその遺骸を適切に処理し、復活を願うことが最大の供養でした。そしてそれが遺された者たちの心の拠り所でもありました。



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