1、 残された想い
1、残された想い
皇帝軍がイチュパンパの戦地から帰還したとき、クスコの街はお祭り騒ぎだった。
郊外の丘の上から、その麓に広がる街の姿が徐々に現れてくると、街のそこかしこに、七色の幟がいくつも風にはためき、人々は皆通りに繰り出して大騒ぎをしているのが見えた。周囲の山々に、彼らの歌う声と太鼓や笛の賑やかな音楽、時折上がる歓声が、こだまになって響いていた。
クシも皇帝軍の兵士たちもそれを見て、すでに第一軍と第二軍が勝利して帰還していることを知り、チャンカとの決戦がすべて勝利に終わったことを実感した。
すでに盛り上がっていた街の人々は、皇帝軍が大勢の捕虜を従えて丘から下ってくるのを目にし、さらに狂喜乱舞した。
クシたちが街へ降り立つと、市民たちが一斉に押し寄せて皇帝軍を取り囲み、悲鳴のような声を上げた。彼らは嬉しさのあまり叫んでいるのだろうが、その騒ぎ方があまりにも狂気じみていて、まるで飢えた者たちが兵士たちに取り付いて物乞いをしているかのようだ。
兵士たちは群集を押し退けて皇帝を庇いながら、やっとのことで宮殿まで辿り着いた。
宮殿の広間は表の喧騒とはうらはらにしんと鎮まり返っていた。
大勢の貴族が広間の中央に集っているのだが、その中で口をきこうとするものはいなかった。
クシと皇帝軍に従っていた貴族兵たちが広間に入っていくと、集っていた貴族たちは一斉に両端に下がり、跪いてクシに頭を下げた。
貴族たちが空けた通路の先には、上座に向かって立っているリョケの背中と、その先に置かれた台に群がる女たちの姿が見えた。
気配に気付いたリョケがクシを振り返り、駆け寄ってきた。そしてクシの肩をきつく抱いた。クシもリョケの肩を抱き返した。
「われわれは勝利した。もうチャンカに怯えて暮らすことはない」
クシを抱きしめたまま、リョケは言った。しかしその声に喜びの色はない。むしろ、まるで泣いているかのように微かに震えていた。
「しかし……」
そう言いながら、リョケはクシの肩をそっと押し離し、上座の方を振り返った。
玉座の前に置かれた台の上にはアマルが横たわっていた。その周囲をアマルの妻や側室、彼の子どもたちが取り囲み、横たわるアマルの身体に縋り付いて泣いている。
彼女たちは皇帝が帰還したことにも気付かずに泣き続けていた。
「兄上!」
クシは台に走り寄り、アマルの身体に飛びついた。アマルの身体は冷たく硬かった。
台の横で妻たちはまだすすり泣きを止めずに、弱々しい声で「お傍に行きます」と繰り返していた。
彼女たちは、第一軍が帰還してから今日まで、ずっと遺骸にすがり付いて泣いていたのだろう。皆げっそりと痩せて虚ろな目をしていた。
クシの後ろからリョケが声を掛けてきた。
「第三軍の勝利を告げる伝令がやってきてから後のことだった。
敗北を悟ったチャンカ軍が暴走を始めたのだ。
そのときは、もうすでにふたりの首領を倒して、われわれも勝利を確信していたのだ。
しかし伝令が大首領の首飾りを敵にかざし、彼らの完敗を宣言したあと、チャンカは降参する振りをして逃走を図り、戦地の近隣の村を襲い始めた。後がないと悟った敵は、奪えるだけの物を奪ってどこかへ逃げ延びようと考えたのだ。
四散してあちこちで略奪を始めた敵を、われわれも分かれて追いかけた。残念なことに家や土地を荒らされてしまった村もあったが、何とか村の民に危害が及ぶことは避けられた。
しかし、兄上の軍が追っていった敵は、最後の首領が率いていた手強い相手だったのだ。しかもその首領は戦いが始まってすぐに、兄上の腕の骨を砕いた男だった。
兄上が深い傷を負っていることを知っていたその首領は、混戦の中で兄上の命を執拗に狙ってきたらしい。そしてとうとう兄上に致命傷を与えたのだ。
すぐさま兵士が首領を討ち取ったが、そのときはすでに兄上も虫の息だった。
残った僅かなチャンカ兵はそのまま何処かへ逃走してしまったのだ。しかし、あの少人数ではかろうじて生き延びることはできても、部族を再興することなどできない。
彼らにとっても実りのない戦いだったのだ。そのために兄上は命を落としてしまった。
われわれはクスコの市民に知られないように、兄上の亡骸を輿に括りつけ布で隠して帰還した。そして何事もなかった風を装って、勝利を伝えたのだ」
リョケの話を聞きながら、クシはアマルの亡骸を見つめていた。
帰還した直後は、埃にまみれあちこちに傷を負っていたであろう身体はすっかり綺麗になっていた。宮殿にいた頃の立派な衣装を身につけて、ただ穏やかに眠っているようにしか見えない。
彼の妻たちは、血の気が失せ、硬くこわばったアマルの顔を見つめながら「すぐにお傍に参りますから」と何度も呼びかけていた。
「ならぬ!」
クシは突然、アマルの妻たちの方を見て叫んだ。
「命を捧げてはならぬ。兄上はクスコを護り通して、一度地の世界にいかれた。
しかし兄上の身体は木乃伊となって再び地上に蘇り、クスコの守り神となるのだ。兄上の魂は歴代の皇帝とともに永遠に生き続ける。そなたたちは今と変わらずに兄上に仕えるのだ」
クシの言葉にアマルの妻たちは泣くのを止め、やがてクシに向かって跪き、深々と頭を下げた。
クシは冷たいアマルの頬を両手で包んでしばらくの間見つめていたが、決心したように手を離し、すっと立ち上がった。
そして宮殿に集う者たちのほうに向かい、声をかけた。
「この戦いは、大勢の仲間の命と引き換えに勝利することができたのだ。彼らの魂は神の祝福を受けて再び蘇り、永遠にクスコの守り神となるであろう。命を捧げた仲間のためにも、いつまでも嘆いていてはいけない。
全軍が帰還したあと、われらの勝利を祝い、犠牲者の復活を祈る祭りを行うことにする」
広間に集う者たちは、クシの前に跪き、その言葉にさらに深くひれ伏した。
もうアマルの死を嘆いて泣き続ける者はいなかった。
クシは大神官に命じた。
「兄上を一番美しい姿にして差し上げるのだ」
神官たちがアマルの身体を丁重に抱え、神殿の安置室へと運んでいった。
アマルの身体は神官たちの手によって、永遠に朽ちることのない木乃伊へと生まれ変わる。
運ばれていくアマルの亡骸が見えなくなるまでクシは跪いて敬意を示していた。
戦闘服を着替え、身体の汚れを落としたあと、クシはひとり太陽神殿へと向かった。
そして神像の前に跪いてクスコの勝利を報告した。
「太陽神よ。どうかこの戦いで命を落した者の魂を蘇らせたまえ。
そして未だ行方の知れない者たちをクスコへと導きたまえ」
祈りながらクシは、ワコがキリスカチェとともにクスコへと凱旋してくる姿を思い浮かべてようとした。
しかし、どうやってもクシの頭の中に無事に帰還してくるワコの姿が思い浮かばないのだ。
何度も何度もその姿を思い描こうと試みたあと、クシは苦痛の表情を浮かべて激しく頭を振り、拳で思い切り石の床を叩いた。
祈りを終え、クシが神殿を出ようとしたとき、入り口に立ち尽くしている人影に気付いた。
それはアナワルキだった。彼女は生気を失ったように弱々しくそこに立っていた。
アマルを想い、アマルのために軍に志願した彼女は、すべての希望を失くしてしまったのだろう。
クシはアナワルキの方へ寄っていき、黙ってその手を取った。そして神殿の中庭へと導いていった。アナワルキも何も言わず、クシに引かれるままに付いていった。
暖かい日で、中庭には色とりどりの花が咲き乱れ、小さなハチドリたちがその蜜を吸いに集まってきていた。しかし、その鮮やかな色や楽しげな羽音にも、彼女は心を動かすことはできないようで、ただぼんやりとその風景を眺めているだけだった。
彼女の秘めた恋心を知るのはクシしかいない。だからこそクシには、彼女が抱える喪失感の大きさが誰よりも分かるつもりだ。
クシもただ黙って同じ風景を眺めていた。
やがて口を開いたのはアナワルキの方だった。
「わたくしはアマル兄さまのお傍に最後まで居る事ができたわ。傷を負って運ばれてきたアマル兄さまを介抱したのはわたくし。兄さまはわたくしが見守る中で息を引き取ったの。それだけでも十分想いは果たせたはずだったのに……。
戦いを終えたらこの身は一生神に捧げると決心していたわ。それなのにこの先、心から神に仕えることなどできそうにないの。どうしたらいいのかしら」
アナワルキは抑揚なく淡々と話す。おそらく彼女はすでに嘆きを通り越して、どこか他人事のように自分の心を見つめているのだ。それほど彼女の中のアマルの存在は大きかったということなのだろう。
クシは嘆くこともできずにいる頑なな妹の心をほぐそうと、そっと彼女を抱き寄せた。そしてその背中に静かに語りかけた。
「かけがえのない存在を見失ったとき、誰でもこの先どうしていいのか分からなくなるものだ。心の大部分を占めていた存在が抜け落ちてしまったとき、その穴をどう埋めていいのか分からない。その穴を抱えたまま生きていくのは辛いことだが、それは長い時をかけて少しずつ埋めていくしかないのだ」
クシのその言葉は、アナワルキを慰めようとして言っただけではなく、クシが自分自身にも言い聞かせているように、アナワルキには感じられた。
クシには自分と同じ心の穴があるというのだろうか。
その瞬間、アナワルキは自分のことを忘れてクシのことを心配していた。
しかしクシにそれを訊くことは躊躇われた。彼はあくまでアナワルキの心を慰めようとしてくれているのだ。今はただその思いやりを素直に受け取るべきだろう。
クシの腕の中で、しばらく思いを巡らせていたアナワルキは、やがてその腕からそっと身を引き、微笑んだ。
「分かったわ。今はその抜け落ちてしまった部分を無理に埋めようとはしないわ。じっくりと時を掛けて埋めていくしかない。哀しみを抱えながらも前に進んでいくしかないのね。それが残されたわたくしたちの役目なんですもの」
アナワルキは『わたくしたち』という言葉に力を込め、彼女の言った言葉がクシにも向けられていることを強調した。自分と同じ重いものをクシも抱えていると感じたことが、逆に彼女に力を与えたのだった。