1、 呪われた部族
1、呪われた部族
冷たい石壁と湿った石の階段は暗い地の底へと続いていく。先は漆黒の闇でどんなに目を凝らしても何も見えない。少年は肩に担いだ大きな麻袋の口を片手で握り締め、もう片手で石壁の肌を伝いながら闇の中へと下りていった。足に伝わる感覚だけを頼りに階段の終わりを確かめて、下り立った地下通路をさらに奥へと進んでいく。通路の遥か先に仄かに明かりが見え、ようやく自分の目指す方向に見当をつけることができた。
果たして明かりの灯ったその場所には壁を大きく抉って作られた空洞があり、通路とその空洞を仕切るように何本もの木の杭が立てられて、杭の隙間には鋭い棘を持つ蔦が張り巡らされていた。手前の壁に掲げられているたいまつの明かりも絡み合った蔦に邪魔されて空洞の奥にまで届いていない。木の杭の向こう側は真っ暗でその中に何が潜んでいるのかまったく分からない。
少年は空洞の前に麻袋を置くと中から蝋の塊のようなものを取り出した。そして松明の炎の下にそれをきつく縛り付けた。その塊は動物の脂身を乾燥させたもので、そうしておくことでやがて括りつけた燃料に火は燃え移っていき、松明は絶えることなく燃え続けるのだ。
それが済むと少年は、空洞のほうに向き直って声を張り上げた。
「おばばさま、変わりはないか?」
ややあって、空洞の闇の中から微かにしわがれた声が響いてきた。
「ああ、哀しいことに、何の変わりもない」
続けて自嘲するような嗤い声が聞こえてきた。
「今日はご馳走だ。干し芋に干し肉もあるぞ」
麻袋を探りながら少年が得意げに声を張り上げる。
「また首領の館から盗んできたのか」
「人聞きの悪いことを言うでないよ。首領さまは遠征に出ていなさるので処分に困った食料を片付けてやったのさ」
そう言いながら少年は、立てられた杭の上の方に僅かに開いた隙間めがけ、大きな木の葉で包んだ食料を次々と放り込んだ。食料が投げ入れられるやいなやそれを開こうとするガザガザという音が響いてきた。
しばらく包みを開いてはムシャムシャと頬張る音が響いていたが、やがてそれが止むと再び空洞の中の声が少年に語りかけてきた。
「いつも済まない。情けないことにこんなことになっても腹は減るものだ」
「当たり前だ。おばばさまは神でも何でもない。人間なんだから」
「そう言ってくれるのはそなただけじゃ。ほかの者たちは私のことを飲まず食わずでも生きていける特別な存在だと信じておる。私は未来を見通すことができるだけじゃ。それなのにいつのまにやら、私が予言することで事が起こるのだと思い込むようになった。良いことなら喜んで信じるが、悪いことを忠告すれば私が悪いことを引き起こすのだとして疎まれる。その結果がこれじゃ!」
暗闇の中から響く老婆の声が怒気を孕んだ。
「首領たちに何を言ったの? おばばさま」
「何も……。見えたことを伝えたまでのこと! しかしそれには救いの手段も付け添えたはずじゃ!
今の凶行を続けておれば、やがてわれらを滅ぼす者が現れるであろうと……。われらは昔のようにこの地で必要な獲物を仕留めて暮らしていくのが道理なのだと。われらほどの大部族が周りと争わずして繁栄していくのは少々無理な話であろうが、せめて罪もない民を捕らえてきて生贄に捧げることは止めなくてはならないとな。そうでなければ必ずわれらは滅ぼされる。
……いや、子どもに向かってする話ではなかったな」
「子どもじゃないやい。おいらは今度、大首領さまの軍に付いて戦に出るのだからな。ああ、もちろんちゃんとした戦だ。小さな村を襲って人をさらってくるのではないよ」
「はて、今はもうこの大国と戦おうという度胸のある部族など、この辺りには存在しないはずじゃが……」
「日の昇る未知の大地に向かうのだ。日の昇る地の果てには大変な富を湛えた国があるという噂だ。その過程に陣を作るため、道中に存在する部族を征する戦なのだ」
「ほうか…。それで得心がいった。新たな戦いの武運を祈るために盛んに生贄が集められていたのじゃな。日の昇る大地……首領たちの目当ては東の征服か」
「おいらが戦いに出る前におばばさまを出してやらねば、おばばさまは飢え死にしちまう」
「ああ、心配はいらない。そなた以外にもときどき世話役の少年がやってくる。油粕のようにふやけた雑穀を持ってな……。首領たちも私が死んでは困るのだ。それに万が一のために今までお前が持ってきてくれた食料を少しずつ蓄えておいたのだよ」
「しかし、首領たちが新たな戦争に出ていってしまったら、おばばさまのことなど忘れられてしまうよ」
「私を誰だと思っておるのじゃ。長年この部族の命運を占い、ここまで導いてきた呪術師キータであるぞ。愚かな首領たちよりもこの国のことを知っている。そして未来の姿も。私にはこの場所から出て、新たな世界へと旅立つときがやってくる。しかしな、それはわれら一族が滅びるのと時を同じくすると天は告げた。もしも私の先読みが誤っているのであればそれは幸運なことだ。私は喜んでこの命を捧げようぞ」
「何と恐ろしい予見だ。だから首領たちは聞き入れたくなかったのだよ。おばばさま」
「恐ろしいのは自分たちの力を過信してこの大地に恐怖を撒き散らしている首領たちの奢り高ぶった心じゃ。分相応に生きねばわれらは神さえも敵に回すことになる。やがて神々を味方につけた大きな敵が現れることであろう……」
「神々を味方に付けた大きな敵……。それはどこの部族だ?」
「さあ、そこまでは知り得ない。われらが無用な戦いを挑んでいけばやがてその敵と対峙するときがくるであろう。
……東の地か。どうもその辺りに不穏な空気を感じるがな。
それにしても、少年。お前はなかなか聡明な子じゃな。こんな年寄りの戯言によく耳を貸してくれることよ。この罪人にただ食事を運ぶだけの役目であったのであろうに」
「おばばさまの話は戯言などではない。おいらの親父さまはおばばさまの予言は正しいと言っている。それを聞かないいまの首領たちがおかしいのだと。
どうかおばばさま、おいらが戦から戻るまで生きのびておくれよ」
蔦の向こうの暗闇から石壁を震わせるような高らかな笑い声が響いてきた。
「なんと頼もしい若者じゃ。ばば、ばばと呼ぶがな、私はそれほど耄碌してはおらん。大首領に従えている大呪術師よりはずっと若いのじゃ。まだまだ何年でも生き延びていくぞよ。
ところで、そなた名は何と言ったかのう」
「アンコワリョだ」
「ほうか……。そなたとは何やら深い縁を感じるぞよ。お前こそ戦地より必ず生きて戻るのだぞ」
少年は「必ず」と力強い声で返事をすると、空になった麻袋を掴んで地上へと戻っていった。
彼は年若いが、がっしりとした体格と逞しい手足の持ち主であることを、このときの老婆は知り得なかったが、やがて彼が自分を救う存在になるであろうことは確信していたのだ。
「われらは呪われた運命から抜け出すことができるであろうか……」
深い闇の中で感覚だけを頼りにめぼしい小石を集めて、それを一筋に並べると、小声で何かを唱えながら、老婆は己と己の一族の運命を占い続けるのであった。