17、 大地の覇者 (その2)
大地が震え、人々はその威力の前に為す術を知らない。
戦いに明け暮れていたチャンカとクスコの戦士たちは揺れが治まったあとも、地にへたり込んで呆然としていた。
ところどころに地の裂け目が出来、不幸にもそこへ落ち込んだ者が何人もいた。
崩壊した陣営の天幕の下敷きになった者もいる。自力で這い出ることができるほど軽症だった者もいれば、二度と這い出て来れない者もいた。
誰もがその自然の猛威を目の当たりにして、すぐに戦いを再開しようとする気力は湧かなかった。
しばらくの間、大勢の戦士たちはその場に座り込み、あるいは寝転がって、まったくいつもどおりの静けさに戻った大地や紺碧の空を眺めていた。
クシは気付くと瓦礫の山に囲まれていた。
天まで聳えるように高く周囲を取り囲んでいた岩壁は跡形もなく、崩れた岩盤は大小様々な無数の欠片となってクシの周囲を取り囲んでいる。咄嗟に皇帝を守ろうとしたのか、大首領との決戦を見守っていた兵士たちがクシに寄り添うように倒れていた。
兵士たちを順々に揺り起こすと、彼らは無事に目を覚ました。クシと兵士たちはかすり傷を負う程度でほかに怪我はなかった。この膨大な瓦礫が彼らの上に一斉に降ってきて軽症で済んだことは奇跡だ。
瓦礫の山はクシと兵士たちの周囲にうずたかく積みあがっている。
そのとき傍らに積みあがっていた瓦礫ががらがらと崩れ、大首領が這い出てきた。
崩れ落ちた岩盤の下敷きになったのであろうか、片足は血だらけで思うように動かせないようだ。うまく動かない足を引き摺りながらも、クシに近づき斧を突き出して言った。
(なるほど。一本草は大地の母までも味方に付けていたのか。
いや、おそらく母なる大地はこの世の行く末をすべてご存知なのだ。われわれがどんなに抗おうとも、その定めを変えることは難しいのであろう。だからこそ、有能な先読みたちはその流れに従うようにと忠告していたのだ。
しかし、わしは諦めない。たとえ大地が見込んだ男であっても最後まで挑み続ける。その気概こそが我ら一族の誇りだ)
そう言って自由になる方の足を踏み込み、クシに襲い掛かってきた。片足でうまくバランスを取りながら、怪我をする前と同じく鋭い動きでクシを攻撃する。
大首領の怪我に気を取られていたクシは、不意打ちを喰らってよろめいた。すぐに体勢を立て直し、決戦の続きに臨む。
瓦礫に囲まれ、さらに狭くなった空間ではお互いに十分な間を取ることが出来ず、いかに素早い返しで攻めていけるかが勝敗を決める。
大首領は動かない足のことなどまったく意に介さないように、いや片足が不自由であることなど嘘のように素早く動いて猛烈な攻撃を仕掛けてきた。
いったん戦いを忘れていた両軍の兵士たちは、大地が元に落ち着いたことを確認して、またぞくぞくと立ち上がった。崩れた岩山の瓦礫の中で大首領が再び戦い始めたのと同時に、その外ではまた戦乱が始まっていた。
すでに多くの犠牲を出して、どちらともその勢力を欠いていたが、それでも最後のひとりになるまで勝敗は分からない。犠牲になった者の分まで戦い続けようと誰もがますます闘志を燃やした。
荒れ果てた大地は、ただ歩くだけでも危険である。戦うことに気を取られて、深い裂け目に落ち込む者も少なくなかった。
果たしてどちらが優位に立っているのか。最早、戦いの最中の戦士たちにはまったく分からない。向かってきた敵をひとりでも多く倒すことだけが、彼らの当座の目的だった。
そしてときどき、先ほどよりは小さな揺れが来ることがあった。その度に大地の裂け目はさらに大きく広がった。それはまるで、戦い続ける愚かな人間をその中に飲み込んでしまおうと大地が少しずつ口を開いていくようだった。
クシは攻撃をかわしながら敵の動きを注意深く観察していた。
大首領は怪我をする前と変わらない動きではあるが、微妙に隙が出来る。それは動かない足に重心をかけまいとして身を庇っている証拠だ。あまりにも素早い動きであるため、どこに隙が出来るか普通なら分からないだろう。
しかし、クシは受身を取りながらその間合いを計っていた。
大地が揺れるたび、周囲の瓦礫が戦うふたりと見守る兵士に降りかかってくる。それに耐えてまた戦う。
その状況で、クシは下手な攻撃を仕掛けることはせず、もっぱら受身の体勢を取って機会を窺っていた。
「どうした、一本草よ! わしの身体が不自由だと思って見くびったな!」
そう言って大首領はクシの頭に真っ直ぐ斧を振り下ろそうとした。
寸分早く、大首領の腹を切り裂いたのはクシの斧だった。
大首領は腹を切られたことなど知らないようにそのままの勢いでクシの頭に斧を振り下ろす。
瞬時にクシは大首領の隙が出来る側に身を翻して斧を避け、今度はその首筋に斧の柄を打ち付けた。
勢い良く地面に斧を振り下ろした大首領はそのままドッと倒れこんだ。
本来なら、それでもまだ立ち上がって攻撃を仕掛けてくるはずの豪傑は、すでに虫の息で立ち上がる力さえ残っていなかった。その上、腹から流れ出る血がみるみるうちに体力を奪っていく。おそらくこれがアストゥワラカでなければとっくに命は尽きていたであろう。
敵にもう立ち上がる気配のないことを悟って、クシは大首領の傍らに寄っていき、その顔を覗きこんだ。大首領は僅かに顔を上げてクシを見、掠れた声で呟いた。
(……大地の母はこの先の運命を一本草クシに託したのか。そうであれば、われらは新たな大地の覇者に従うよりほかはない。しかし、雷の一族の血と誇りは決して滅びることはない……)
話し終えると、血にまみれた腕をそろそろと上げ、その首に巻きつけていた石の首飾りを引きちぎった。そしてそれをクシの方へ差し出した。それは岩山の奥に安置されていた石を小さく削って首飾りにした物だ。大首領は戦いの前に、神体を首飾りに仕立てて身に付けていたのだ。
大首領がそれを手渡すということは、敵に完全に降伏することを意味していた。
言葉は理解できなくても、クシには大首領の言わんとすることが伝わっていた。
クシは黙って大首領の手からその石を受け取った。
大首領はクシの顔を見つめて頷くと、大きく息を吸い込み、最後の力を振り絞って動物の遠吠えのような声を上げた。
よくとおる甲高い声が戦地一帯に響き渡った。
荒れた戦地で戦い続けていたチャンカの戦士たちは、その声を聞いて一斉に動きを止めた。
その声音は一族が撤退するときの合図だ。しかし、この大陣営から彼らはどこへ撤退すればいいというのか。誰がそれを率いるというのか。
もちろんチャンカの戦士の誰もがその意味を汲み取っていた。それは大首領が敵への完全降伏を決意したということなのだ。
戦いは終わった。
少なくともその時点では、チャンカ兵たちにそれは伝わった。
戦いを諦めたチャンカ兵たちは敵から離れると、呆然と空を見上げる者、悔しさに涙を流す者、愕然として地面に転がる者、様々に一族の終焉を受け止めた。
一斉に戦いを止めたチャンカ兵たちに、クスコ兵はそれ以上攻撃を仕掛けることはしなかった。
叫ぶのを止めたアストゥワラカは、苦しそうに呻き声を上げた。
そして自分の首に垂直に手を当てて見せた。早くその首を落とせということだ。いくら屈強な大首領であっても、切られた腹の痛みに耐え続けるのは酷なことだった。
今まで憎み合って戦っていた敵であろうとも、苦しむ人間をそのまま放っておくことはできない。
クシは彼の最後の願いを聞き入れ、その苦痛を一刻も早く終わらせるため、彼の首に一気に斧を振り下ろした。
崩れ去った岩山のすぐ傍で、アンコワリョは戦っていた。
彼は大首領の雄たけびを耳にして、一族の敗北を知った。そしてすぐさま戦いを止め、岩山の瓦礫の陰に身を潜め、震えていた。
アンコワリョが大首領の命を受けたとき、いやそれよりずっと以前にキータの予言を聞いたとき、その未来を想像するのはあまりにも恐ろしいことだった。
しかし今、とうとう恐れていたその未来がやってきてしまったのだ。
彼はぶるぶると身を震わせて、しばらくそこから動くことができずにいた。
しかし大首領が託した命を実行するときがやってきたのだ。滅びる運命の一族の血を細々と守っていく。大首領から受け継いだその重要な任務をどんなことがあっても果たさなくてはならない。それが出来るのはいま、自分しかいないのだ。
少年はその重責に潰されないように、自らを奮い立たせて立ち上がった。
瓦礫の影に身を潜めながら大陣営を抜け出すと、一目散に本国へと走っていった。
崩れ去った岩山の大量の瓦礫は、低く広い丘を形作っていた。大首領の最期を見届けると、クシと兵士たちは瓦礫の上に這い上がり、その頂上へと立った。
そこから見渡す光景は、さっきまで土ぼこりを舞い上げて激しい戦いを繰り広げていた戦場とは思えないものだった。
大陣営を形作っていた無数の天幕はことごとくなぎ倒され、踏み潰され、土と同化していた。
戦地を切り裂くように大地に入った大きな亀裂が、遥か地平に霞む辺りまで長く伸びていた。
激しく戦っていた大勢の戦士たちは誰もが力なく地面にへたり込んでいた。
瓦礫の丘からクシが姿を見せたとき、呆然と宙を向いていたクスコの兵士たちは、一瞬疑わしい表情を向け、徐々に喜びを滲ませた。
チャンカが敗北を悟ったのと同時に、自分たちも、崩れ落ちた岩山もろとも皇帝を失ってしまったのかと絶望を抱いていたのだ。それなら柱を失ったどちらの部族にも未来はない。
しかし彼らの皇帝は生きていた。
そして奇跡の生還を果たしたその皇帝が、大首領から託された首飾りを高く掲げ、勝利を宣言した。
クスコ兵たちは一斉に立ち上がり、狂喜乱舞した。
すでに敗北を報らされていたチャンカ兵たちは、ほとんど身動きしなかった。
彼らはあの大地の揺れによって滅びる運命を決定付けられてしまったのだ。いや、あの揺れが起こる前からチャンカの戦士の誰もが薄々感じていたのだ。この戦いに勝ち目がないということを。
大地の女神の采配が振るわれるときまでその不安を無理やり押さえ込んで戦い続けていたのだ。
神の決断に、誰も異議を唱えることはできない。いやむしろ、敗北の予感を抱えながら戦い続ける苦しさから解放されて、楽になったといえるのかもしれない。
そんなチャンカ兵の中からひとり、立ち上がってクシの方に近づいて行く者があった。
首領トゥマイワラカだ。
トゥマイワラカはざくざくと瓦礫の丘を上っていき、おかまいなしにクシに近づいていった。クシの周囲にいたクスコ兵たちが身構え、麓の兵士たちは投石ベルトを構えた。
しかし、トゥマイはクシの目の前までやってきて、突然後ろを振り返った。そして瓦礫の丘の麓にいるチャンカ兵たちに向かって大声で呼びかけた。
(誇り高き雷の一族よ! 我らの時代は終わった。しかし太陽の一族に従うことになっても、かつてこの大地に君臨し畏れられた勇猛な一族の血が流れていることを忘れるな! 我らの血は永遠に不滅だ!)
言い終えて、トゥマイワラカはクシの方を振り返り、一瞬不敵な笑いを浮かべたかと思うと、自らの首に斧の刃を向けて斬りつけた。トゥマイワラカはクシの目の前で最後まで屈してなるものかという主張をするように命を絶ったのだ。
それを見て、トゥマイワラカの後を追うチャンカ兵が何人も出た。残ったチャンカ兵たちは、それ以上抵抗することはなく、捕虜となる道を選んだ。
人間たちにその運命を知らしめ、大地はその後、まったく何事もなかったかのように静まり返っていた。
戦いが終結し、伝令たちはそれを伝えるため、早足、各軍へと向かった。つまり前線で戦っている第一軍と第二軍、そしてチャンカ本国に居るであろう第四軍である。
皇帝軍が決着を付けるまで戦い続けなければならないそれらの軍に、一刻も早く勝利の一報を持っていかねばならない。
しかし第四軍へ向かった伝令と入れ替えに、ワコに率いられていた兵士たちがやってきた。彼らは途中で伝令と遭遇し勝利の吉報を聞いたのだ。
皇帝の前に通されたワコ軍の隊長は、恐縮しながら今までの経緯を報告した。
「われわれがチャンカの都に入城したときには、そこを護っていたチャンカ軍がすでに大陣営へと援軍に出発した後でした。指揮官のワコさまはキリスカチェ軍を本拠地に残し、クスコ軍を召集してチャンカを追いました。そのとき地下に住むティグリ族の協力を得て、われわれは本拠地の軍が大陣営に合流する前に先回りすることができたのです。
決戦が始まると、敵はワコさまを皇帝陛下と勘違いしたらしく、ワコさまひとりに狙いを定めて襲い掛かりました。ワコさまは敵の目を欺くため石が乱立する野原に引き入れて戦うようにと指示されました。見通しの悪い石の原の戦いで敵を迎え撃ち、われわれは優位に立ちました。そのうちチャンカ軍を壊滅させたと思ったわれわれは、指揮官とその補佐ティッカの姿も見えないことに気付きました。チャンカ軍の首領と半数の兵士を引き連れ、ワコさまは姿を消してしまったのです。
チャンカ軍が大陣営に合流することは避けられたものの、指揮官の安否は未だ分かりません。我々とは別にチャンカから逃げ延びてキリスカチェ軍の元に戻り、ご無事でいらっしゃるかもしれません。そうあってほしいと願っております」
隊長の話を聞くうち、クシの心臓が早鐘を打ち始めた。
今すぐにでも石の原に行きワコの捜索をしたいが、軍と捕虜を率いてクスコに帰還することが先決だ。戦い疲れた兵士たちをこの場に残して勝手な行動を取るわけにはいかなかった。
「報告ご苦労。第四軍の隊長よ。チャンカに新たな援軍が加わっていれば、戦いの流れは大きく変わっていたであろう。大変な手柄であった。指揮官はキリスカチェに合流しているかもしれぬ。クスコに戻ってキリスカチェ軍の帰還を待つこととしよう」
できるだけ平静を装って、クシは報告した兵士に告げた。
しかし心の中には嵐が吹き荒れていた。石の原を探すことができないのなら、キリスカチェ軍とともにワコが帰還してくることを願うしかない。
クシの動揺を察したワイナは、自らが隊を率いて石の原の捜索に向かうことを申し出た。クシはワイナに全ての希望を託した。
ワイナと捜索隊を残し、皇帝軍は大平原を後にした。