17、 大地の覇者 (その1)
17、 大地の覇者
土煙は岩山の頂上にまで達するかと思うほど高く舞い上がり、大陣営の周囲にも大きく広がっていった。激しい戦いが終結する目処は立たない。
強靭な肉体と腕力を持つチャンカ人たちは、素手で組み合えば小柄なクスコ人など簡単に倒すことができるが、クスコ人は身の軽さと素早い身のこなしを身上とし、知略にかけてはチャンカ人に圧倒的に勝っている。ただ力任せに攻撃してくるチャンカ人の攻撃をかわすなど容易なことだ。
あるチャンカ兵はその豪腕で簡単にクスコ兵をねじ伏せ、あるクスコ兵はただがむしゃらに向かってくるチャンカ兵をするするとかわし、敵の急所を見極めて一撃で倒す。
体格も戦い方もまったく異なるふたつの民族は、もてる力の限りを尽くして戦いに臨んだ。
発端は、強大な勢力を誇りながらも、徐々に生き抜く場所を失いつつあったチャンカ族がケチュア族の都クスコを奪い取ろうと画策したことであった。
一方、豊かな土地に暮らしながらも他の列強にくらべればまだまだ小国であり、さらに自らの中に内乱の危機を孕んで崩壊寸前であったケチュア族は、そのチャンカ族の侵攻を奇跡的に食い止めたことで、彼らが人智の及ばない大きな加護を受けている一族であるのだと錯覚した。
崩壊寸前の部族から豊かな土地を奪い取って一族を繁栄させようと試みたチャンカの思惑は、皮肉にもその弱った獲物に生きる気力を与え、さらに彼らが天に選ばれた一族であるという迷信まで生み出す結果となった。
狂信的なその一族は、その精神的支柱である『一本草クシ』のもとに団結し、さらに多くの他部族をその懐に引き込んで今度はチャンカの心臓部へと飛び込んできたのだ。
チャンカの首領たちは、はじめ、臆病な『鼠ども』が凶暴な獣の攻撃を受けたことにより精神のタガが外れ、妄想を抱いてしまったのだろうと思った。
鼠どもを率いる長がいかに有能であろうと、鼠は所詮鼠でしかない。己の分際もわきまえることのできなくなった気狂い集団など、古い時代から多くの戦いを経験し優秀な戦士を育ててきたチャンカ族に到底敵うはずはない。そう信じていた。
クシに率いられたケチュア族と東の部族の連合が、血迷った気弱な小動物ではないことに気付いたのは、大陣営で最後の決戦が始まったあとだ。
しかし時はすでに遅かった。
どのような巨人が攻めてこようとも決して破ることはできないと、チャンカの首領も戦士も確信していた大陣営の防衛線は、いとも容易く破られ、決戦場はまさに陣の中央部となっている。
チャンカの戦士たちに残された使命は、岩山の守護神と大首領を護ることだけだった。
多くの犠牲を払い、時間を費やし、決死の覚悟でこの戦いに臨んだケチュア族。
これまでの長い時代、多くの大勢力に脅かされながらも戦い続けて生き抜き、大国へと発展してきたチャンカ族。
どちらにとっても決して負けることのできない戦いだ。
大首領アストゥワラカは、戦いながら少しずつ自らの居城の岩山へとクシをいざなっていった。
岩山の中にするすると逃げ込んでいく大首領をクシは警戒しながら追いかけた。
クシの後を数人の護衛の兵が続く。敵の懐には何が待ち受けるか分からないが、それでも大首領を見逃すわけにはいかない。
非常に暗く、細い通路がくねくねと曲がりくねって奥へと続いていく。
人ひとりがようやく通れるほどの幅の通路では、両脇から襲われる危険はないが、その先から出会い頭に敵が襲ってくることがある。
狭い通路へと入る前に、ふたりの兵士がクシの先に立ち、大首領の影を追った。
通路には、ところどころに掘られた窪みに置かれた固形燃料に灯りがともされ、進路を指し示すように照らしていた。分かれ道は無く、狭い一本道は岩山の中心へと繋がっていた。
通路を抜けた先に待ち受けていたのは、遥か上が空へ突きぬけている高い天井と、数十人が一同に会せるほどの広さを持った空間だった。正面に一段高くなった場所があり、意匠を凝らした装飾の立派な玉座が置かれている。
その壇上に首領が待ち構えていた。
広間に辿り着くまでも、この広間の内部にも、チャンカの兵士はひとりもいなかった。この岩山の中には大首領とそれを追ってきたクシ、そしてクシに付き従ってきた数人のクスコ兵がいるのみだ。
大首領は邪魔を入れずにクシと対戦するため、ここへクシを導いてきたのだ。よほど自信があり、この勝負を愉しむ気なのだろう。
一対一の勝負を挑んできた相手を数人で襲うなどと卑怯なことはできない。
クシは兵士たちに、その場に待機して勝負を見守るように指示した。そして再び大首領に戦いを挑んだ。
もう退く場所はない。十分な広さはあるが周囲を高い岩壁に囲まれた限られた空間である。ここを出るにはどちらかが相手を倒してその首を捕ることしかないのだ。
クシは斧を構えると同時に、壇上の大首領に向かって走りこんでいった。
大首領はからかうように両手を大きく広げて見せた。そしてクシの斧がそのわき腹を狙って振られた刹那、その柄を掴んで思い切り引いた。
勢い、前のめりに倒れそうになったクシだが、なんとか持ち堪えて斧を奪い返す。
大首領は間髪を入れず、自分の大振りの斧をクシの脳天に向けて振り下ろした。素早く脇に身体を逸らしたものの、僅かにかわしそびれた腕を大首領の斧が掠める。
そのままもんどりうって床を転がったクシを、大首領の斧が狂ったように何度も襲う。硬い地面がひび割れ、大きな穴がいくつも開いた。
大首領の猛攻に、クシは立ち上がる暇さえない。
そのまま転がり逃げ、岩壁まで追い詰められたところで、クシは今度は身を屈めて大首領の脚の下に潜り込んだ。そして大首領の股の間を抜けて背後に回るとすかさずその背中に斧を振り下ろす。
大首領はすぐさま振り返ってその斧を自分の斧で受け止める。
クシは斧を返すと今度はわき腹を攻撃した。
手を貸してはならないと命令されるまでもなく、クスコ兵たちがこの緊迫した戦いに加わる隙などまったく無かった。息を呑む皇帝と大首領の勝負をただ呆然と見守ることしかできない。
深い穴の底のような岩山の空洞に、斧のかち合う音と、時折どちらかが発する低い呻きが響き渡る。
見た目にはクシよりひと回り以上大柄の大首領が圧倒的に勝っているように思えるが、その凄まじい威力を難なくかわし、相手の動きをほとんど読み尽くしているクシの動きにもまったく無駄は無い。
大男の力に押され気味に見えても、クシにはまだ十分余裕があった。大首領に一瞬でも隙ができれば、そこを狙って一撃で倒すことも不可能ではない。
見守る兵士たちは、自分たちが皇帝を警護してここまでやってきたことをすっかり忘れて勝負に見入っていた。
岩山の外の戦地では、視界を遮る土ぼこりの中で、ひたすら激しい戦いが続いていた。
彼らの長は岩山の奥で、まさに生き残りを掛けた戦いに挑んでいた。
クスコに近い前線の陣営でも、相変わらず長い長い戦いが行われている。
そこではどちらかが最後のひとりとなろうとも、皇帝軍、あるいは大陣営の勝利が報らされるまで終結させることはできない。
それは終わりの見えない戦いだった。
広大な大平原の中でふたつの部族は、生きる権利を守り抜く戦いにすべてを掛けて臨んでいた。
敗れた側はもはや、その大地で生き抜くことはできないのだ。
しかし戦いが進むに連れて、チャンカの戦士たちの誰もが、この戦いはこれまでとはまったく違う方向に向かっているような不安を抱いていった。
百戦錬磨の戦士たちが、これまで相手にしたことのない得体の知れない敵。
小柄な東の地の戦士たちの粘り強さと何かに突き動かされているような自信に満ちた表情は、終始変わることがなかったからだ。
―― ……大地が……動く ――
その『声』は突然降ってきた。
その声を戦い続ける戦士たちの誰もが聞いた。いや、大地に響き渡ったわけではなく、戦士たちそれぞれの脳裏にふと浮かんできたという方が正しいだろう。
思わず敵から離れてその声に意識を向けた者もいれば、錯覚だと思って気にも留めない者もいた。
しかし、そのメッセージは確かに誰の頭にも浮かんできたのだ。
クシと大首領は、何か異変を感じ取りながらも、戦いを止めることはしなかった。
手を止めれば一瞬で命を奪われる。その言葉の意味を考えるよりも、目前の敵から己を守り、敵を倒すことが最も優先される使命なのだから。
続いて降ってきたのは「ふふっ」という柔らかな乙女の笑い声だった。
戦地から離れ、手を止めていた者が思わず呟いた。
「大地の女神だ……」
ケチュアの民の間でも、チャンカの民の間でも、大地を司る神といえば女性だ。
どちらの部族にも共通して、彼女は美しく慈愛に満ちて多くの命を育むおおいなる存在。生きとし生けるものすべての『母』である。
しかし、彼女はときに冷酷で気まぐれだった。その手の中で多くの命を弄ぶこともある。彼女が与えた運命に、大地に生きる物はただ黙って従うしかない。
彼女が癇癪を起こさないよう、最大限の敬意を払い、与えてくれる恵みに感謝の意を表すのだ。人がその『母』の上で暮らしていく以上、決して欠かすことのできない礼儀である。
しかしそれでも彼女はときに『彼女の子どもたち』に過酷な運命を強いることがあった。
突然、大きく大地が隆起したように感じた。
大陣営の戦地でも、前線でも、そしてチャンカ本国でも、その異変は同じように起こった。
せり上がった大地は、左右に激しく震えだした。
人々は、鍋の上で炒られる干しとうもろこしのように大地の上を転がった。誰も自分の意志で身体を動かすことはかなわない。ただ大きくうねる大地の上を転げ回ることしかできなかった。
大地に小さな亀裂がいくつも走った。
天高く聳えていた大陣営の岩山が、クシと大首領を中に残したまま、がらがらと崩れ去っていった。
それはほんの一瞬の出来事だったが、人々には永遠にも思える長さに感じられた。
女神は、その身体に無数の傷跡を付けて、その上で転げる無数の人々を残したまま、やがて気まぐれに動きを止めた。
「ふふ」というたおやかな笑いがまた、人々の頭に降ってきた。