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16、 狭霧の中の幻影



16、狭霧(さぎり)の中の幻影




 トゥマイワラカとその部下のチャンカ兵たちを大勢従えて、ワイナは大陣営へと向かった。

 大陣営ではすでに二つの軍が激しい戦いを繰り広げていて、戦士たちの舞い上げる薄茶色の砂塵が陣全体を覆っていた。

 土ぼこりに霞む低層を遥かに突き抜けて、大陣営の象徴である岩山は、堂々と天に向かって聳える頭を覗かせていた。


 ワイナは大陣営の決戦場の前で彼の軍と捕虜の列をいったん留まらせた。

 すぐにでも援軍に駆けつけたいが、貴重な捕虜たちを逃さぬよう監視しなくてもならない。

 まずは戦地の手前で、戦況をよくよく観察する必要があった。

 しかし砂塵に阻まれて、その中ではどのような戦いが行われているか見当が付かない。そこでふたりの兵に戦いの様子を見てくるよう指示を与えようとしていた。


 そのとき、捕虜たちを率いていた後方の列が急に騒がしくなった。

 ワイナが振り返ると、両手をロープで硬く括られ、両脇をクスコ兵にしっかりと掴まれていた筈のチャンカ兵たちが、そのロープを引きちぎり、護衛のクスコ兵に襲い掛かっているところだった。

 武器も持たない捕虜たちだったが、クスコ兵の石斧を素手で跳ね返し、その大柄な体でクスコ兵に体当たりする。するとクスコ兵たちは簡単に跳ね飛ばされてしまった。

 トゥマイワラカがチャンカ兵たちに合図を送るように奇声を発する。すると一塊になったチャンカ兵は、クスコ兵の反撃をあっさりとかわして、そのまま大陣営へと突っ走っていってしまった。


「奴らを追え! そして大陣営へと突撃だ!」


 もう迷うことはない。ワイナ軍も大陣営の土ぼこりの中へと飛び込んでいった。



 解放されたトゥマイワラカと彼の軍は、戦場を突き抜け、真っ直ぐに岩山の入り口へと向かった。

 その入り口を護る見慣れた少年の姿に大声で呼びかける。


「アンコワリョ! 我らが腕を寄越せ!」


 言われてアンコワリョは一瞬岩山の中に消え、すぐさま両手にたくさんの石斧や槍を抱えて出てきた。そしてそれらを向かってくるトィマイワラカたちの方に地面を滑らせるように放った。

 トゥマイワラカとその軍の兵たちは、アンコワリョの寄越した武器を次々と手に取った。兵たちは向きを変え、再び戦地へと走り出す。

 トゥマイワラカだけは、アンコワリョに近づいて少年に問い掛けた。


「大首領はどうした?」


「はい。『一本草』との直接対決に臨まれています。他の兵の攻撃を避けるため、『一本草』を岩山の中に引き入れて戦っています」


「わかった。それなら外の軍はわしが率いよう。ワリョは大首領の命を忠実に護るのだ」


 アンコワリョが無言で深く頷くのを見届けて、トゥマイワラカは戦場へと引き返していった。



 皇帝を欠いたクスコ軍だったが、それでも善戦していた。

 兎も角、皇帝が大首領の首を捕るまでチャンカ兵をひとりでも多く倒すこと。彼らの目的は皆一致しており、そのためにどのような戦い方をすればいいのかを誰もが承知していたからだ。

 そこへワイナ軍が援軍に加わった。有能な指揮官とその軍の加勢は彼らの戦意をますます奮い立たせた。

 ワイナが進んで敵軍へと斬り込んでいくのに従って、クスコ軍も一丸となってチャンカ軍へと向かっていった。今までも果敢にチャンカ軍を攻めていたクスコ軍は、ワイナのもとに団結し、ますます勢いを増した。


 このことでチャンカは劣勢に陥るかと思われたが、折りよくチャンカ側にも首領トゥマイワラカが戻ってきた。大首領の次に権威を持つ首領の復活に、チャンカ側も沸き立った。

 本来ならトゥマイワラカ軍の奇襲でクスコ軍を挟み撃ちにし、一気に片を付けるつもりであったが、トゥマイワラカ軍はワイナの奇襲により、その半数を失っていた。そしてすでに一度敗北を宣言している。

 今や両軍の勢力はほぼ互角であり、最早双方の戦略も尽き、真っ向からぶつかるしか方法は残されていない。

 しかし、それだからこそ、どちらが覇者となるのかまったく予想できないのだ。

 両者の長が一騎打ちを繰り広げる岩山の周囲で、その軍隊も生き残るかどうかの戦いに全力で挑むのだった。




 ワコは、倒しても倒しても群がってくる敵を巻こうとして、いつの間にか石の原の奥深くへと入りこんでいった。

 やがて辺りは白い霧に覆われていった。チャンカ兵たちは霧の中でも時々見える黄金の輝きを目印にワコの後を追いかけ続けた。

 狭霧(さぎり)の中から不意に飛び出てくる敵には困らされるが、それでも全ての意識を集中して敵の気配を敏感に感じ取り、ワコは着実に敵を倒していった。


 ふいに微かな刺激臭を感じた。その瞬間、ワコは全身がしびれるような恐怖を感じた。

 死の臭いだ。


 一瞬ひるんだワコに襲い掛かってきたのは首領マルマだった。

 マルマは『偽一本草』を早く倒して大陣営への援軍に向かわねばと焦っていた。白霧の中を駆け回るワコを執拗に追いかけ、攻撃を仕掛けてきた。

 ワコを倒すことに夢中で、マルマは死の臭いには気付いていないようだ。

 ワコは時折マルマの攻撃に応じ、すぐに身を翻して逃げる。そうやってマルマとチャンカ兵たちを石の原の奥へ奥へと(いざな)っていった。


 霧の中を走り回るワコの横に寄り添うように、もうひとつの人影が走っていた。ワコは斧を構えて警戒したが、近づいてきて霧の中から現れた姿はティッカだった。


「ワコさま、引き返すのです。どうやら死の大地に近づき過ぎてしまったようです」


 敵の攻撃をかわしながら、ティッカはワコの腕を引っ張った。


「ティッカ。貴女は戻りなさい! 私はこのまま死の大地に敵を引き連れていく」


 そうやっている間にもマルマやチャンカ兵がかわるがわるふたりを襲ってきた。敵をあしらいながら、ワコはもう一度ティッカに叫んだ。


「早く!」


 そう言ってワコはティッカから離れ、霧の奥へと姿を消した。ティッカはすぐさまその後を追い、チャンカの集団がそれを追う。

 ティッカは再びワコに追いつくと言った。


「一緒に行きます」


 今度は、ワコは何も言わなかった。

 ふたりはそのまま走り続け、追いつくマルマやチャンカ兵の攻撃をかわしていった。


 死の臭いは濃度を増していく。

 その頃にはチャンカ兵たちも異常に気付いたようだ。ワコを追いかけるのを諦めて引き返そうとする者が現れ始めたが、もう遅かった。

 狭霧の中では来た道さえ分からない。ほとんどの者が白い世界の中で方向を見失って彷徨い、やがて倒れていった。


 やがて鼻を突くように強烈だった臭いが、何の臭いもしなくなっていた。しかしそれは感じ取る人間の体が麻痺している証拠だった。

 ワコを追いかけていた敵が苦しそうなうめき声を上げて次々と倒れ出した。チャンカ兵の断末魔の叫びに思わず耳を塞ぎたくなる。

 ワコとティッカも苦しそうに息をしながらよろめきだした。もうまともに動ける者は残っていないようだ。

 首領マルマは最後までワコを追い果敢に攻めてきたが、やがて目的が定まらないように闇雲に斧を振り回すようになり、そのうち力尽きて倒れ込んでしまった。


 ワコとティッカはお互いを支え合うようにして、白い霧の中を歩き続けた。立ち止まってしまえば、そこで命が尽きることは分かっていた。


「……ワコさま、敵を引き付けるために耳飾りを付けたのですね……。敵を一手に引き受け、太刀打ちできなくなったときには、ここへ引き込むつもりだった……」


「本拠地の軍は何としてでもこの場で食い止めなくては……。そのためには手段を選んではいられない。でも、ティッカまで巻き込むつもりはなかったの……。許して……」


 ティッカは微笑んで首を横に振った。


 先の見えない(もや)の中を、どれほど歩き続けただろうか。

 やがてワコの肩に回されていた手がすっとほどけたかと思うと、ティッカはその場に倒れ込み、動かなくなった。

 ワコはその場にうずくまり、ティッカの身体を抱きかかえた。

 涙を流すこともできず、ただ無表情で動かなくなった友の体を撫で続けていた。


 年を経る毎に成長の祝いを行う王族と違い、ティッカの年齢は定かではない。

 しかし、側付きになったときに背格好も好みも似通っていたふたりはおそらく同い年か、それほど離れていない年齢であったろう。親兄弟よりも常に一緒にいたティッカは、主人と従者という立場を超えて、腹心の友といえる存在だった。一心同体であったといってもいい。

 そんな半身を失ったワコは、自分にまだ命があることさえ自覚できなくなっていた。


 だいぶ長いことティッカの傍に寄り添っていたワコだったが、急に何かに導かれるように立ち上がり、ますます濃くなっていく霧の奥へと入っていった。

 しばらく行くと、白い世界の向こうにゆらりと黒い影が揺れた。

 近づくと、ひとりの青年がそこに立ち尽くして辺りをゆっくりと見回していた。その横顔にワコは思わず呼びかけた。


「クシ?」


 青年がゆっくりとこちらを向いた。

 背格好はクシと同じくらいだ。クシよりも線は細いが、それでも逞しい体つきをしている。

 目元はクシに似ているが、よくよく見るとクシよりもやわらかく優しげで、彼が繊細な心の持ち主であることを表していた。

 庶民の服を身につけているのだが、どこか高貴な雰囲気が漂う。

 その姿はクシによく似ていながら、僅かにどこかが違っていた。


 ワコははっと気付いて、ふたたび青年に語りかけた。


「あなたはユタね」


 こちらを向いた青年は、ワコの姿や呼びかけには気付いていないようだ。ワコの呼びかけに答えることはなく、その視線はワコの背後を当てなく彷徨っているようだった。

 それでもワコは青年に語りかけた。


「……ユタ、貴方を置いていった愚かな母を恨んでいるのでしょうね。

 私は、もうすぐ命が尽きるというときになってやっと気付いたの。

 今まで私は、ひとりでも多くの敵を倒すことが大切な人を守ることだと思っていた。戦士として国や誰かのために戦うことが自分の使命だと思ってきた。

 しかしどんなに敵を倒しても、残るのは後悔と罪悪感ばかり……。そして最後には大切な友を失ってしまったの。

 戦いからは何も生まれないわ。失うものに見合うほど、得るものはない。


 ユタ。あなたが何かを守りたいと思うとき、強さを身に付けることは大切だわ。

 でも本当に人の幸せを願うのなら、戦いではない方法を考えていきなさい。それを見つけるのは大変なことでしょうけど、きっと何か方法があるはずだわ。

 愚かな母に代わって、それを見つけてほしいの」


 ワコの方を向いていた霧の中の青年は、ぐるりと辺りを見回すと踵を返し、ゆっくりと霧の奥へ消えていってしまった。


 ワコは今わの際で、成人したユタの幻を見たのだろう。

 しかし幻とはいえ、ユタの将来の姿に出会えたことと、彼に想いを伝えたことでワコは満足した。

 そしてその場に崩れ落ちるように横たわると、静かに目を閉じた。


 真っ白な(もや)が尚一層立ち込めて、横たわるワコの姿を飲み込んでいった。





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