14、 皇帝対大首領 (その2)
断崖の上で、ワイナ軍とトゥマイワラカ軍の攻防は続いた。
指揮官ワイナは『大首領』と思われるトィマイワラカを倒すことだけを考えていた。
兵たちはお互いの敵に向き合うだけで手一杯の状態だった。
何とかチャンカ軍を阻止しようとするクスコ軍は、苦戦しながらも敵を断崖にまでじりじりと追い詰めていく。そのうち断崖の際で戦う形となった両軍の兵は、バランスを崩した方がつぎつぎと断崖へ落ちていった。
チャンカはその断崖を、等間隔に開けた僅かな窪みに足を掛けて器用に上り下りしていたのだが、そんな彼らも上から一気に落ちたのではひとたまりも無い。
落ちたチャンカ兵は、いや同じく誤って落ちてしまったクスコ兵も二度と這い上がってくることはできなかった。
ワイナは『大首領』と思い込んでいるトゥマイワラカを何とか倒そうと必死だった。
体格も、攻撃の威力も、その『大首領』はワイナを遥かに上回っているが、大柄だからこそ攻撃の合間に多くの隙が出来ることを、相まみえるうちにワイナは気付いた。
何度も激しく斧を打ち合わせ、それが続くと各々の態勢を整えるために飛びのいて相手と距離を置き、再びぶつかり合う……。
隙を狙って回り込んできた相手をいなし、反撃に出れば逆にかわされ、戦い方は違っても両者の力はまったく互角といって良かった。
そのため戦いは非常に長引き、日は僅かに西寄りに傾き始めていた。
トゥマイワラカは簡単に倒せると踏んだ相手が、思った以上に粘っていることで逆に疲労を感じてきていた。これまでどんな強敵でも一撃で倒せるほどの自慢の斧裁きはほとんど空回りし、相手に止めを刺すことができない。
首領の苛立ちは次第に彼の攻撃の正確性を欠いていった。
しかし、その威力は決して衰えない。闇雲であってもワイナがその斧をまともに受ければ助からないであろう。ワイナは侮らずに相手の動きに全神経を集中させていた。
そろそろ夕闇が迫ってくる。
その頃、他の兵士たちの戦いは、クスコ軍のほうが優位になってきていた。
首領は手強い敵を相手に奮戦しており、統率力を欠いたチャンカ軍は多くがクスコ軍を打破する策も見出せずに断崖に追い詰められ、下に落ちていった。
やがてその半数以上を失ったチャンカ軍の兵士たちは敗北を悟り、戦いを諦めて降伏する者も出始めた。
形勢の傾きはじめた部下たちの士気の低下は首領トゥマイにも伝わってきた。
はじめは自分の相手にもならないだろうと思われたクスコ軍の若き指揮官が、見事な根性を見せて粘り続け、もはや残された体力の差は彼の方が圧倒的に勝っているといえる。
とうとう日が西の果てに姿を消したとき、トゥマイはその場にしゃがみこみ、頭を垂れた。
降伏するので首を刎ねろという意味だ。
戦うことを諦めた敵の首領を、ワイナは生かしたまま捕えることにした。
皇帝軍を相手に戦うチャンカの大陣営軍は、『大首領』を捕らえられたことを知れば、降伏せざるを得ないだろうと考えたからだ。
同じく降伏した残りのチャンカ兵たちをみな縛り上げ、翌朝大陣営へと引き立てていくことにした。
トゥマイもチャンカ軍の兵士たちもすでに抵抗する気力さえなく、おとなしくワイナに従った。
夜明けになり、クシはふたたび大陣営へと攻め込むため自軍の隊形を整えた。
しかし輿には乗らず、身につけていた装飾は全て外し、耳の金板も下級兵と同じ耳あて付きの帽子で隠した。
昨日は敵を翻弄するためにわざと目立つような行動を取ったが、その日は何としてでもチャンカ軍の背後に控える『大首領』に近づきたかったからだ。
それに、チャンカ軍に昨日のような捨て身の行動を取られてはクスコ軍の態勢が崩され、やがてはこちらが不利になるだろう。チャンカ兵たちの狂気じみた執念がクスコ兵たちの動揺を招く。
皇帝の首を狙って群がってくる彼らにはまともな戦法が通用しないのだ。皇帝が姿を現さなければ、互角に渡り合うことができるだろう。
クスコ軍はいくつかの部隊に分かれて広がり、大陣営軍の正面と左右に向けて一斉に攻め込んでいった。
チャンカ側もクスコ軍が新たな隊形を組みなおして攻めてくることは承知の上だった。
昨日と同じく左右に大きく広がった『人間の壁』を作り、クスコ軍を迎え撃とうと待ち構えた。
しかし、皇帝クシの姿が見当たらないことで、チャンカは前日のようにひとところを包囲して攻めることはしなかった。
双方が大陣営の前で大きく広がってぶつかり合い、各所で戦闘が始まった。
クシは左端の部隊の中に紛れ込んでいた。
同じ部隊の兵士たちが敵の相手をしている隙に、なるべく大陣営の中央に進んで大首領を見つけるためだ。
側方の護りは比較的甘い。
クスコ軍とチャンカ軍がぶつかり合い混戦を繰り広げているなかをうまくすり抜け、クシと数人の側近は大陣営の中に入り込むことができた。質素な目立たない身なりから、チャンカ側では彼が皇帝だと気付けるものはいなかった。
防衛線の戦いをすり抜け陣の中に紛れ込んできた敵に、陣を護るチャンカ兵たちは驚き慌ててすぐに攻撃を仕掛けてきた。しかし、陣の手前で敵を駆逐しようとその大半を防衛線に投じているため、逆に大陣営の内部が手薄になっていた。
内部に入り込んだクシと数人の側近は一塊になって八方から攻めてくる敵の攻撃をかわし、奥へ奥へと進んでいった。
やがてぽつぽつと、チャンカの防衛線を突破して内部へと入り込んでくるクスコ兵が現れ始めた。彼らは突き進む皇帝の後方を護るように、クシたちを背後から襲おうとする敵を倒していった。
大陣営のもっとも奥には巨大な岩山が聳え、そこが大首領の居城と守護神の安置所となっている。
岩山の周囲にはその心臓部を護ろうとするチャンカ最強の軍が控えていた。そして大首領アストゥワラカも岩山の外に出て軍の中心でクシを待ち構えていた。クシは大首領が従えるその軍の目前まで来て立ち止まり、大首領と正面から対峙した。
防衛線を突破してきたクスコ軍がクシの後を追ってだいぶ集まり始めた。クスコ兵を防ぎ切れなかった防衛線のチャンカ兵たちがその後を追ってくる。
クシの後を追いかけるように戦場は徐々に大陣営の内部へと移動していく。
正面に立った素朴な身なりのクスコ兵を見て、大首領は周囲のチャンカ兵に告げた。
(こやつが『一本草の男』クシだ! 一本草はこのわしが倒してみせる! 余計な手出しはするな!)
そう言うと、大首領は大振りの斧をクシに向かって突き出した。
クシの方でも、斧を構えたその男がすべてのチャンカ軍を統帥している大首領であることは、ひと目見て気付いていた。そして彼の鋭い眼差しの前では素性を取り繕っても意味がないことを悟った。
クシは帽子を脱ぎ捨て、こちらに向けられた大首領の斧に突き合わせるように自分の斧を構えた。
周囲では、大首領の命を受けたチャンカ軍が、クシを護ろうとするクスコ兵をその場から引き離そうと攻撃を仕掛けていき、ふたたび混戦が始まっていた。
次々と防衛線を突破してくるクスコ兵が加わっていき、それを追ってきたチャンカ兵がさらに加わっていった。チャンカの『人の壁』はもう意味を為さない。防衛線は完全に破れ、いまや戦いは大陣営の最も中心で繰り広げられていた。
(よくぞここまでやってきたものよ、クシ。しかし、お前の無謀な行動が、今度はお前の民を滅ぼすのだ)
クスコ軍に大陣営の中に入り込まれてしまったというのに、大首領アストゥワラカはまったく余裕を見せていた。
彼はそう言って薄ら笑いを浮かべ、斧を振り上げるとクシに向かってきた。
クシも気合を発すると、同じく斧を振り上げ大首領に向かっていった。
ふたつの斧は激しくぶつかり合い火花を散らした。
しばらくかち合った斧を挟んで見合う形になったが、アストゥワラカはその威力で斧ごとクシの身体を突き飛ばした。
クシはすぐさま起き上がり、アストゥワラカに斬りかかっていく。さすがにチャンカの大首領だけあって、アストゥワラカはクシの動きを読んで余裕でそれをかわし、そのまま流れるような動きでクシの体を斬りつけた。
瞬時のことにクシの反応が遅れた。僅かにかわしそびれた斧がクシのわき腹を傷つけた。
しかしクシの方も、その痛みなどまったく感じないかのように、間髪をいれずアストゥワラカに斧を打ちつけた。
大首領はまだ不気味な笑みを湛えたまま、難なくそれをかわす。
もしも敵でなければ尊敬の念さえ抱いていたかもしれない。まったく余裕を見せる大首領を手強い相手と警戒しつつ、その戦い方に感心するクシだった。
クシはアストゥワラカの前からいったん引くと、体勢を整え、敵の様子を観察した。
クシとの戦いに手応えを感じてきたらしいアストゥワラカは、斧を握りなおすと飛びつくように向かって来た。
アストゥワラカの振り下ろした斧がもう少しでクシの頭を打ち付けるかと思うところで、クシは自分の斧でそれを受け止めた。
アストゥワラカの力は凄まじく、受け止めるクシの方が押されてくる。
クシは渾身の力を込めて斧を押し返し、同時に、敵の腹を思い切り蹴りつけた。
後ろに尻もちを付く格好でアストゥワラカは転がった。
その体にまたがって斧を打ち付けようとするクシを、アストゥワラカはその腕を掴んで引き上げ、脚でクシの身体を持ち上げて投げ飛ばした。
したたか地面に叩き付けられたクシだったが、アストゥワラカがその身体を押さえ込む前に、再び素早く起き上がって反撃に出る。
押しつ押されつの勝負が、延々と続く。
一瞬でも気を抜いた方が負けとなる。しかし双方の精神力が続く限り、その戦いの終わりは見えないだろう。それほどの接戦であった。
そしてその周りでも、クスコ軍とチャンカ軍の熾烈な戦いが繰り広げられていた。