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12、 死の大地



12、 死の大地



 ワコは第四軍を率いて西の迂回路をチャンカの本拠地に向けて進んで行った。

 大地の裂け目から半日ほど歩き、夕暮れが近づいてきたころ、ところどころに白い岩の突き出た草原に突き当たった。それは実に奇妙な光景で、広大な草原に巨人がうずくまっているかのような形の石灰岩が、まばらにぽつんぽつんと『置かれて』いるのだ。

 その奇岩の原を目で追っていけば、それは遥か東の方まで続いており、その先にはまた何もない平原が、そしてその先に、大地から天に向かって勢い良く生えてきたかのような岩山と、その周囲を取り囲むように張られたおびただしい白い幕が、遠く微かだが夕日に照らされて光って見えた。


『あれがチャンカの大陣営……』


 位置からして、それは巨大なチャンカ陣営のテントの連なりだろう。ワコはとうとう決戦の場にやってきたのだと実感し、身震いした。

 奇岩の原に踏み入ってしばらく行ったとき、風に乗って異様な匂いが漂ってきた。甘いようなそれでいて鼻の奥を突くような不思議な匂いだ。それは本当に微かなもので、ほかの兵士たちは何も気付かずに進んでいたが、ワコだけは敏感にその匂いを感じ取っていた。

 進むにつれて徐々に匂いも強くなり、ようやく兵士たちも異常に気付き始めた。そのときワコはいよいよその匂いに耐えられなくなり、その場に蹲ってしまった。


「ワコさま、いかがなされました?」


 隣にいたティッカと周囲の兵士たちがワコを取り囲んで心配した。

 先を歩いていたキリスカチェ軍も、後方の異変を感じてすぐに戻ってきた。蹲っているワコに血相を変えたチャナンが駆け寄り、ワコの頬を強く何度もはたいて言った。


(しっかりしろ! この程度なら死の大地はまだ遠い。大丈夫だ。過去の恐怖に囚われるでない!)


 チャナンの声でワコは我に返り、何とか意識を保っているといった具合によろよろとしながら立ち上がった。今にも倒れそうなその身体をチャナンが支える。


(チャナンさま、ワコさまはどうされたのですか?)


 ティッカが心配して訊くと、顔面蒼白で荒い息を吐くワコを支えながら、チャナンが答えた。


(この匂いは『死の大地』が近いことを示している。その昔、キヌアと私が初めて狩りに出たとき、この匂いと同じような死の風が吹く大地に迷い込んでしまったのだ。そこは一帯に深い(もや)が立ち込めていたので、私たちはお互いを見失ってしまったのだ。私はその靄の中から無事に脱出することができたが、キヌアはその中で意識を失ってしまった。傍つきの兵士たちが命がけで靄の中に入り、ようやく倒れていたキヌアを助け出したのだが、キヌアはその後長いこと生死の境を彷徨った。助けに行った兵士も何人か犠牲になってしまったのだ。この匂いはキヌアにそのときの恐怖を思い起こさせたのだろう)


 まだティッカがキヌアの傍つきになる前の話だろう。ということはかなり幼い時分の話だ。

 そのときティッカは、ワコが以前、シトゥアの祭りで香のかおりに気分を悪くしたことを思い起こした。その匂いはあのときの香によく似ている気がする。幼い頃に生死の境を彷徨った経験は、キヌア、いやワコの中では根強い恐怖となって未だ鮮明に残っているのだろう。


(死の大地は近いのですか?)


 すると、様子を窺っていた『天の女王』が声を掛けた。


(この風向きでは、おそらくもう少し西側に死の大地があると思われる。しかし風向きや風の強さによって死の風に巻き込まれたり、誤って死の大地に足を踏み入れないとも限らない。ひとたび死の大地に足を踏み入れたらこの大軍ですら生還できる者はほとんどいないだろう。それほどに死の大地は恐ろしい場所なのだ。

 ここから少しずつ進路を変え、チャンカの大陣営の影が消えたら進路を一気に東に戻す。なるべくここから離れた安全な場所に野営を敷くのだ。

 ティッカ、クスコ兵たちを率いて付いてきなさい)


 そう言うと天の女王は先頭に立って歩き出した。キリスカチェ兵たちはその後を整然と並んで歩き出す。まだ歩くこともおぼつかないワコを身体を支えて、チャナンはキリスカチェ軍の最後尾に付いた。

 ティッカはクスコ兵たちに事の次第を簡単に説明すると、クスコ軍を率いてキリスカチェ軍に従った。


 天の女王に率いられて第四軍は進路を少しずつ東へと変えていった。チャンカの大陣営がある岩山はもう遥か彼方に霞んで見えるほどに遠ざかっていた。そこで一気に北へと向かう。そのまま真っ直ぐにチャンカの本拠地を目指すのだ。


 奇岩の原を抜け死の風の匂いがすっかり消えた頃には、ワコは何事もなかったかのように元に戻っていた。北へと方角を変えたところで軍を率いる役目を天の女王と代わり、再び勇ましく第四軍を率いていくワコであった。


 やがて平原は終わりを告げ、なだらかな丘の起伏が連なり、その先の低い山脈へと続いていた。この先を行けば、折り重なる丘のひとつにチャンカの城砦が見えてくるはずだ。チャンカの本拠地はもう目と鼻の先だ。しかし夕闇が迫っている。ワコの軍は丘の裾に潜むようにしてそれぞれの寝床を作り、夜明けを待つことにした。

 



 ワコ軍と分かれた皇帝軍はチャンカの大陣営を目指して真っ直ぐに進んで行った。

 チャンカが生贄を捧げていた巨大な大地の裂け目から大陣営までは半日もない。そのまま突き進んでいけば全面衝突となるはずだ。

 進軍しながらも、クシの頭からは大地の裂け目を渡るときちらりと目にした妖しい光のことがずっと離れなかった。

 そこで軍を進ませながらも、輿の傍にワイナを呼び寄せた。


「ワイナ、あの渓谷がどうも気にかかるのだ。もしもあの渓谷に敵が潜んでいて、我らの背後から攻めてきたとすれば、挟み撃ちになる。兵の数に関わらずそれでは圧倒的に不利だ。

 ここから先しばらく行ったところで、ワイナ軍の半数を率いて密かにここに戻り、(くさむら)に潜んで渓谷の様子を監視していてほしい。そして本軍が大陣営と衝突したあとも、しばらくはそこに潜んで様子を窺っていてほしいのだ」


「戦いが始まっても、ここで見張っているのですか? わが軍の半数を残すというのは、第三軍の四分の一の兵力がここから離脱することになります。これが単なる杞憂であったなら、我々は遅れを取り、その間に最強のチャンカの大陣営軍を相手にクスコ軍は持ち堪えられるでしょうか」


「もしもあの渓谷に敵が潜んでいたとすれば、そう時間の経たないうちに行動するはずだ。我々が大陣営に辿り着くであろう頃を過ぎても敵が姿を現さなければただの杞憂。そのときにはすぐに加勢に参れ。その判断はワイナに任せる」


 ワイナはしばらく難しい顔をして考え込んでいた。もしも渓谷から敵が現れなければ、四分の一の兵を失った皇帝軍は大規模なチャンカ軍を相手に非常に苦戦することになるだろう。しかし渓谷に敵が潜んでいるとすればそれだけの兵力がなければ太刀打ちできない。


「分かりました。確かにクスコ戦のときも、やつらは姑息な手段でわれわれを翻弄しました。あり得ないことではないですね」


 ワイナは不安を感じながらも皇帝の命に従うことにした。


 大地の裂け目から暫く進んだところで自軍の半数の兵士を取り纏めると、身を潜めながら渓谷の傍まで戻ってきた。そして渓谷のすぐ際までやってきて叢や窪地に身を潜めた。

 彼らの視線からは渓谷の下を覗くことはできないが、そこにときどき強い風が吹きぬけてオオーンという叫び声のような不気味な音が響く。それはワイナと兵士たちの恐怖を煽った。



 ワイナと一部の兵を除いた第三軍は、それから程なくしてチャンカ大陣営のある巨大な岩山を臨む位置にまで辿り着いた。

 ある程度の予測はしていたが、大陣営は予想以上に大規模な基地であった。さらに、前線ではクスコの第一軍と第二軍を相手に戦をしているというのに、その様な非常事態などまるで意に介さないかのようにその陣営は静まり返っている。クシはその様子に返って不気味さを感じ、警戒を強めた。


 当初は進軍したまま攻め込む算段であったが、その手前にいったん留まると、念入りに退避できる場所と布陣を確認する。

 チャンカがクスコの動向に気付き作戦を立てていることはおおいに懸念される。しかしクシと第三軍には、そのまま計画どおりに大陣営に攻め込み、大首領の首を捕ることを目指すしか最早方法は残されていなかった。





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