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11、 分かたれる道



11、分かたれる道



 ワコ率いる第四軍と皇帝率いる第三軍は、チャンカの本拠地とその手前の大陣営を目指し進んでいた。

 代わり映えのしない、だだ広い荒野の中を幾晩か野営を敷いて進み続け、そろそろ敵の大陣営が見えて来るであろう位置にまで近づいていた。


 それまで広大な平原には見渡す限り何の影も見えなかったが、荒野での最後の野営となるその日に、広大な大地の果てにポツンと小さな建物が立っているのが見えて来た。ちょうど夕暮れも近づいていたので、先陣の第四軍がその辺りに野営を敷くことに決め、その廃墟の周囲に天幕を張り始めた。

 あとから追いついてきた第三軍もそこに合流した。先に来ていた第四軍の兵士たちは、その建物を皇帝の寝所にしてもらおうとすでに支度を済ませており、皇帝の輿を案内した。


 近づいてきた建物を見て、クシは目を見開いた。それはかつてクシがロハの民とともに建てた倉庫の跡だったのだ。すでに藁葺きの屋根は朽ち落ちて天井に穴が開き、もろい泥レンガの上部も崩れていたが、入り口や中を仕切っている壁はそのままの姿で残っていた。

 クシは輿から降りると懐かしいその建物の壁を撫でながらその周りを一周してみた。


 かつて、遊牧民(ロハ)とともに生活していた荒野での日々がありありと蘇ってくる。厳しいが大自然と共存する人間としてのつつましいあのときの暮らしが、クシにどんな逆境でも生き抜く力を与えてくれたのだ。

 懐かしさに浸りながら、同時にロハの民がここに残らなくて良かったと心から思った。チャンカはこのすぐ傍に大陣営を設けている。ここに村があったならば間違いなく襲われていただろう。


 ひととき思いを巡らせて、そこからあのときロハたちが目指そうとしていた南の大地を遥かに眺めた。まるで昨日の出来事のようにオルマの声が蘇る。


―― 【くしゃみ】。二度と戻ってくるんじゃないぞ ――


 クシは倉庫の土壁に額を押し当てて、遠い地で穏やかに暮らすオルマとロハたちの姿を思い描きながら誓った。


『この土地でも他の土地でも、誰もが怯えて暮らすことのない世界を築くため、この戦には必ず勝たねばならない』



 ロハの倉庫跡の中には、すでに皇帝の『寝所』が設けられていた。剥き出しの地面には幾重にも藁が敷かれ、奥に毛織の敷布を重ねて天蓋を張った寝台が設えられている。今までの天幕よりもずっと広い『寝所』である。

 明日ふたつの軍はいよいよ分かれて進み、それぞれの敵地で決戦を迎えるのだ。

 夜、その寝所で最後の会議が開かれた。ワコ、ワイナ、キリスカチェをはじめとする各異民族の長たち、各部隊の司令官が揃い、寝台に座るクシに向かい合う形で並んで座っていた。


「ここから先を北に進むと、いよいよチャンカの支配圏に入る。明日、ワコ指揮官率いる第四軍は先に出発して西側に迂回して進み、二日後に本国へと攻め込む。皇帝軍は一日ここに留まり翌日大陣営に向けて出発する。ほぼ同時に本拠地と大陣営を攻め、第四軍はチャンカの守護神像を、第三軍は大首領アストゥワラカの首を捕るのだ。我ら二軍の働きがこの戦の勝敗を決める。前線で持ち堪えている第一軍、第二軍のためにも早々に決着を付けねばならない」


 実質、皇帝軍を仕切っている司令官が、皇帝の代わりに集う代表者たちに檄を飛ばす。


「おそらく前線での戦いの報せは大陣営にも届いているはず。よもや敵は、われわれが直接大陣営と本拠地を狙うとは考え及ばないでしょう。必ずやチャンカ本国を制して彼らの守護神像を奪い、太陽神像を掲げてみせましょう」


 ワコは自信たっぷりに答えた。クシは満足そうに頷き、部屋の者たちを見回して言った。


「二軍はここで分かれ、この先は連絡を取ることも応援を送ることもままならない状態となる。己の敵と向き合うのみだ。たとえひとりになっても最後まで闘いぬく覚悟で臨むのだ。

 各々の健闘を祈る。しかし、必ずふたたびクスコで顔を合わせよう」


 指揮官たちは一斉に返事をしてクシにひれ伏した。

 やがて侍女たちがカップになみなみと注がれた酒を運んできた。クシとそこに集っていた指揮官と首領たちは、それを一斉に飲み干し勝利を誓い合った。



 その夜は敵陣営のすぐ目前ということと、翌日から決死の覚悟でそれぞれの戦いに臨まねばならないという緊張感から、今までのように騒ぐものはひとりもなかった。大勢の人間が集う野営地にも関わらずしんと静まり返り、焚き火のはぜる音だけが響いていた。ほとんどの者はその静寂の中で深い眠りに付いていた。


 クシとワコは倉庫跡の寝所で最後の夜を過ごしていた。外の静寂と同じくふたりの間にも交わす言葉はほとんど無く、ただ静かに肌を重ね、お互いの温度を感じていた。

 抜け落ちた天井の向こうには、こぼれるような星が瞬いている。ふたりの最後の夜を静かに見守っているようだ。

 互いに無事を信じていても、明日以降、ふたたび巡り合えるかどうかは神のみが知る。全霊を捧げて戦いに臨む覚悟がある以上、下手な慰めや誓いの言葉を交わし合うことはできない。言葉の代わりに無心に相手を求め合う。それは静寂の中で厳かな儀式を行うようだった。

 どれほど夜が更けたか分からない。突然ワコがそれまでの沈黙を破った。ワコはクシから少し身を引くと、彼の目を見据えて静かに言った。


「クシ、決戦に臨む前に、ひとつだけお願いがあるの。気掛かりがあっては思うように戦えないから、クシにその願いを託すわ」


 クシは肯定も否定もせずに、ワコの真剣な眼差しを受け止めていた。ワコはそのまま言葉を続けた。


「気掛かりなのはユタのこと。

 クシ、貴方は約束してくれたわね。ユタの成長を見守って下さるって。改めてお願いするわ。あの子を立派な皇族に育ててやってほしいの」


「ああ、勿論だ。大切な弟なのだからな」


「それから、もしも私がクスコに戻ることができなかったときは……ユタには私のことを一切話さないでほしいの。誰の口からもあの子に本当の母のことを知らせないようにしてほしい。ユタには余計な感情に囚われない強い心を持って成長してもらいたいのよ。あの子が一人前の皇族、そして戦士に育ったときには、初めてこの母の存在を明かしてもいいわ」


 まるで遺言のようなワコの願い事に、クシは「そんな不吉な話をしないでくれ」と言いたかったが、それはワコが心から息子のことを心配する気持ちの表れであると察し、思い止まった。


「……しかし物心がつけば、母親のことを知りたがるのは当然であろう」


「そうだとしても、それは一時のことだわ。宮殿で貴方やたくさんの人が彼を見守ってくれていることを知れば、本当の母のことなどそのうち気にしなくなる。でも一度亡き者への思慕に囚われてしまえば、それは彼の成長を阻むことになるわ。

 大丈夫。傍に母がいなくてもあの子は立派に成長していけるわ。そして必ず優秀な戦士に育つでしょう。だってあの子の体に流れるのは誇り高いケチュアと勇猛なキリスカチェの血なのよ。

 私の子ですもの。そして、貴方の……」


―― 貴方の子ですもの ――


 そう言いかけてワコは一瞬ためらった。しばらく沈黙したあと、やがて決意を固めるようにぐっと唾を喉の奥に流し込んで、ワコは真っ直ぐにクシの瞳を覗きこんだ。


「ユタは、あなたの……」


 その先の言葉は、突然騒がしくなった外の音と、寝所の入り口に掛けられた垂れ幕の向こうで叫ぶ兵士の声にかき消された。


「陛下! 地平線に怪しげな灯りが無数に見えます!」


 クシとワコは素早く支度をすると、外で待機していた兵士の後に付いていった。

 外ではほとんどの兵士が野営地の外れに群がって、北の方角を見つめながらざわざわと騒いでいた。クシが近づくと群れの後ろにいた兵士が声を張り上げた。


「陛下がいらしたー! 道を空けろー!」


 その声で、並んでいた兵士たちは慌てて左右に寄り、真ん中に広い空間を作った。クシはそこに進み出ると、闇の中の地平線と思われる辺りに目を凝らした。しかしどこにも灯りらしきものは見えない。クシの目の前には、ただ漆黒の闇が広がり、数歩先に何があるのかさえ分からなかった。


「灯りなど、ひとつもないではないか」


「確かに光が見えたのです。地平線に無数の光が現れ、こちらに少し近づいたと思うと、突然すべて消えてしまったのです。ここにいるほぼすべての者がその灯りを見ています」


 周りの者が口々に「そうです」「その通りです」と訴えていた。


「ワイナ!」


 クシは周囲を見回しながら、大声でワイナを呼んだ。人だかりを掻き分けて、急いでワイナがやってきた。


「お呼びでしょうか」


「そなたもその灯りを見たのか?」


「はい。確かに」


「それで、その正体は何だと察する?」


「はい。数といい、整然と並んだ形といい、どこかの軍隊だと思われます。あの方角からしてチャンカの軍に間違いないでしょう。しかも距離は半日ほどと思われる。大陣営がこちらの軍に気付いて前進してきたのでしょう。そしてこちらの様子が見える場所まで来て身を潜めた。私の推測ではそう思われます」


「うむ。そなたの判断を信じよう。明日、第三軍はその灯りが見えた位置まで慎重に進むことにする。奇襲に備えて十分に警戒しながら進み、敵軍と相対したときには第四軍の本拠地到着を待たずに開戦する」


「はい!」皇帝軍の兵士たちが一斉に声を張り上げた。

 

 それを聞いてワコが提案した。


「陛下、あの辺りまで第四軍が先に進みます。チャンカがわれわれに気付いて前進してきているのなら、おそらく本拠地からも軍が出陣しているはず。我々が前線の敵を引き受けます。第三軍はそこを突破して大陣営に向かってください」

 

「分かった。作戦を変更する。明日は第四軍が先に進み、その灯りの正体を突き止める。もしも開戦となったときは、第三軍はそこを突破し、大陣営まで進むのだ。朝が来るまでは監視と警戒を怠るな」


 今度は全軍が声を張り上げた。



 翌日、ワコ率いる第四軍が先に昨夜の灯りが消えた場所まで進んでいった。第四軍の姿が遠くに小さく確認できるほどの距離を置いて、皇帝軍が出発した。


 半日ほどをかけて、ワコの軍は灯りの消えたと思われる辺りまでやってきたが、敵が襲ってくる気配はまったく感じられなかった。果てしない草原に相変わらず乾いた風が吹いているだけだ。

 そのとき、第四軍の先頭を行く『地の女王』チャナンとキリスカチェの兵士たちが一斉に歩みを止めた。追いついてきた『天の女王』の兵士たちも歩みを止め、次々とチャナン軍の両脇に並んで横一列になった。


(『地の女王』、どうされた?)


 クスコ軍を率いてきたワコが、チャナンに追いついて後ろから声をかけると、チャナンは自分の脇にワコを立たせて目の前を指差した。

 そこには巨大な大地の裂け目が横たわっていた。何もない大平原に、ぽっかりと口を開けたような広い渓谷が遥か東から西の地平線へと走っている。渓谷の下には流れらしきものは見当たらず、乾いた砂利にところどころ干からびた潅木が生えているのが見えるだけだった。


(昨日の灯りの正体はあれだ)


 チャナンが渓谷の向こう側を指差した。対岸の断崖の下に横たわっている小さな影がいくつも見える。断崖から落ちた人間の遺体だ。


(あれはチャンカの生贄だろう。昨夜チャンカは生贄の儀式を行うためにここにやってきて、生贄を落として帰っていったのだ。その周りにも古い骨が見える。ここはチャンカが祈りを捧げる場所なのだ)


(しかし、あんなにたくさんの犠牲を……。なんとむごいことを……)


 ワコは思わずうっと唸って口を覆った。


 伝令がクシの元に走ってその様子を伝え、後から急いで第三軍も追いついてきた。すでに第四軍は渓谷の幅が狭まった場所を見つけて順々に向こう岸に渡り始めていた。

 向こう岸に歩いて渡れる場所はほとんど無く、かろうじて飛び越えられるほどに近づいた岸はわずかな幅だった。そこを大勢の兵士が渡るのだからだいぶ時間がかかる。兵士たちはひとりひとり慎重に向こう岸へと渡っていった。

 クシも輿から降りて自らの足で渓谷を渡った。ふと、渓谷の下で何かが光ったように感じ、向こう岸に着いてから谷の底にじっと目を凝らした。しかしそのときは特に変わった様子は見られなかった。


 全軍が渓谷を渡り終えたところでまた会議が開かれた。


「昨夜チャンカはここで生贄の儀式を行い、大陣営に戻っていったらしい。この時点で奇襲は無かったので、作戦は元に戻す。第四軍は予定どおり本拠地を目指して進軍し、第三軍は正面から大陣営を攻撃する。

 しかしチャンカがすでに我々の野営地の灯りを見つけたことも十分に考えられる。もしそうであればすでに本拠地にも伝令が向かっているであろう。チャンカが我々に気付いていることを想定して、いつ敵と遭遇してもいいように十分に警戒して進むように。

 第四軍はともかく先を急ぎ、本拠地に向かう道で援軍に遭遇したら撃破せよ。第三軍は間を置かずにまっすぐに大陣営に進撃する」


 確認を終え、ふたつの軍は分かれてそれぞれの目的地へと出発した。





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