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8、 荒野の幻想夜



8、荒野の幻想夜



 第三軍と第四軍は途中まで行動を共にして、大陣営の手前で分かれることになる。

 一、二軍の戦っている戦場を大きく迂回して西を目指すふたつの軍は、まるで皇帝に従って遠い地まで見聞を広めに行く大規模な視察団のようにのどかであった。

 とくに、山や渓谷といった険しい場所を抜けたあとはひたすら果てない荒野が続いており、彼らにはただ歩き続けることしか無く、多くの者がときどきその目的を忘れてしまいそうになるくらいだ。

 昼間はなるべく早く目的地に辿り着こうとできるだけ先を急ぐが、日が暮れればどんなに焦っても暗闇の中を先へ進むことはできない。

 そこで夜になるとふたつの軍は一緒になって酒を酌み交わし、余興を愉しみ、おおいに寛いで昼間の疲れを癒すのだった。



 兵士たちが寛いでいる間も、ふたつの軍とその部隊を指揮する立場の者たちは、皇帝の天幕に集って作戦を確認したり、練り直したりしなければならなかった。実際に現地を歩いてみれば斥候の報告とは違っている場所も多く、常にその行程を検討する必要があったのだ。

 さらに、軍に先立って大陣営やチャンカ本国へと偵察を派遣しているので、その報告によって進路を見直すことも考えねばならない。


 荒野に出てから初めて野営を敷いたその夜も、宴に興じる兵士たちの騒ぎなど他所に、皇帝の天幕では慎重な会議が開かれていた。ちょうど第一軍、第二軍の様子を見届けた伝令がやってきて初戦の戦況を報告した。


「第一軍の戦いは作戦通りに進行しています。早朝の奇襲に敵はすっかり態勢を乱されたようです。兵士の数も圧倒的に勝っており、クスコ軍優位となっています。第二軍は悪天候のために出遅れ、急いで敵陣を目指しているところですが、第一軍と同時の開戦は難しいかと思われます。一日遅れで開戦の運びとなるでしょう」


 伝令は第一軍の開戦を見届け、足止めを喰っていた第二軍と一緒に出発し、そのまま皇帝軍を追いかけたため、報告はそこまでで留まっていた。これ以上進めば頻繁に伝令が行き来するのは難しくなる。何かあったとしても援軍を送ることは不可能だ。これから先は各軍が計画に則ってそれぞれの役目を全うするしかないのだ。

 しかしクシは、まず第一軍の初戦の健闘を知って胸を撫で下ろした。


「そうか。第二軍の一日の遅れが大きな不利に働かないことを祈るしかないが。しかし第一軍が善戦していることには安心した。我々は当初のとおり、このまま大陣営と本国に向けて進むこととする」


 会議は予定どおりの行軍を確認して終わった。

 各部の指揮官たちが順々に皇帝に挨拶をして天幕を出ていき、最後にワイナ、そしてワコが挨拶をしてその場を後にした。


 天幕を出たワコの前にワイナが立ち、何故か険しい顔を向けていた。


「ワコどの、責任を取っていただきたい」


 突然のことに、ワコは怪訝な顔でワイナを見た。


「陛下のご様子がおかしいことにお気づきではないですか? 表向き平静を保っていらっしゃるが、今の陛下は私の知るあのお方ではない。何と言い表して良いのか、陛下本来の活き活きと自信に溢れたご様子が見られない。それは皇帝になられて変わられたわけではない。ワコどのが兵士に志願されたときからです」


 ワコは衝撃を受けた。

 ワイナに言われるまでクシの変化を察することなど出来なかった。ワコの願いを聞き入れてくれたときに、クシの気持ちも整理できたのだと勝手に思っていた。しかし、傍に仕えるワイナに感じ取れるほどクシの心はまだ動揺しているのかもしれない。

 ワコはワイナを直視していることができなくなり、目を泳がせて他所を向いた。


「陛下は理想の国を築きたいという想いと同時に、ワコどのを救いたいという願いから皇帝になることを強く望まれていたのです。しかし、貴女はそれを裏切った」


 あまりにも痛烈な言葉を向けられて、ワコは再びワイナを見て激しく首を左右に振った。


「違うわ! 私は……」


 しかしその理由をここで申し開くことはできない。口を閉ざしたワコの目から代わりに涙が溢れ出した。慌てて両手で顔を覆って俯く。


 クシが東の地に追われたとき、供をしたワイナはふたりの関係を知ったのだろう。それ以上に、幼い時分からクシとともに過ごしてきたワイナは、自分よりもクシの本当の心に気付けるのかもしれない。

 何も知らずにワコがクシの正妃の立場に収まれば、クシを陥れようとする者たちに有利な条件を与えていただろう。正妃の座を諦めることはワコにとっても辛い決断だったが、その理由を知らされなかったクシはもっと深く傷ついていたのかもしれない。ワコの身勝手な願いから、クシはその真摯な想いを一方的に撥ね付けられたことになるのだ。

 クシはワコを慮ってその事には二度と触れまいとしているのだろうが、幼い頃から彼を知り、今も最も近くにいるワイナはクシの落胆をひしひしと感じ取っているのだ。


「陛下はそのお心の奥にある哀しみを他の者たちに悟れらないよう努力なさっているようですが、それは自然と周囲に伝わってしまうものです。陛下のお心の内はやがて兵士たちにも伝わる。そして兵士の士気は落ち、勝てる戦も勝てなくなってしまうでしょう。陛下に従う大勢の兵士のためにも、ワコどのには責任を取っていただきたいのです」


 ワコは蒼白い顔を上げて弱々しく訊いた。


「返す言葉もないわ……責任を取るとは、いったいどうすればいいのですか」


「二軍が分かれるときまで、できるだけ陛下のお傍にいていただきたいのです。そして都に戻ったあとも陛下のお傍にいると誓ってください。ワコどのの言葉は、陛下にとってどれほどの力になるか分からない。陛下のお心をかき乱すのもお救いできるのも、ワコどのにしかできない。どうか……」


 今まで怒りを含んだ棘のある言葉を投げかけていたワイナは、そう言ってワコの前に跪き、頭を垂れた。

 そのときようやくワコは、ワイナが自分を責めようとしていたのではなく、クシとワコが限られた時間を供に過ごせるようにと気遣っているのだと分かった。


「わかりましたワイナどの。数えるほどの日数しかないけれど、できるだけ陛下のお傍に居ます」


 ワコはそう言って深く頷いた。それを聞いてワイナは立ち上がり、笑顔を見せて頷いた。そして皇帝の天幕に忙しく出入りしている傍使いの侍女たちを引き止めて言った。


「戦を前に陛下は気持ちが昂ぶっておられる。ゆっくりとお休みいただくために、夜間はお前たちも出入りしないよう気をつけてほしい」


 それを聞いて侍女たちは慌てて天幕から離れた。

 ワイナは天幕の掛け布を上げ、ワコを中に導くとその場を後にした。

 


 天幕の中は静まり返っていた。外からは盛んに人々のさざめきが響いてくるが、それが余計に中の静寂を強調した。一番奥に皇帝の寝所が設けられて、その前に仕切り布が二枚天井から下がっている。その片側がたくし上げられていて、その奥に座っているクシの背中が覗いていた。厚手の布を幾重にも重ねて作られた寝所の上で胡坐をかいている。静かに瞑想しているのか、まっすぐに伸ばしたその背中はまったく動かなかった。

 ワコは寝所の手前で跪き、声を掛けた。


「陛下、もうお休みになるところでしたか」


「ワコか。まだ何か用件があるのか」


 背中を向けたまま、クシが訊いた。


「いいえ、ただ今宵は陛下のお傍に居たいと思い、戻ってまいりました」


 クシは微動だにせず黙っていた。


「陛下?」


 ワコの呼びかけにクシの大きな溜め息が響いた。つづいて今までワコの聞いたことのないクシの冷たい声が返ってきた。


「……陛下などと呼ぶのは止めてくれ。どこまで私を苦しめるのだ」


 ワコは驚いて言葉を失い、クシの背中を見つめていた。クシは変わらぬ声色で静かに告げた。


「私は何も怖れることはなかった。己の命をかけて戦うことも、強大なチャンカ軍に相対することも、決して怖いと思ったことはない。しかしその私が今、恐怖に震えている。原因は貴女なのだ」


 クシはゆっくりワコを振り返り、さらに続ける。


「私が一番怖れているのは貴女がいなくなることだ。貴女が兵士に志願したときから貴女が私の許から消える夢ばかり見るのだ。そのたびに不安に押し潰されそうになる。貴女がここにいなければ、こんな気持ちに苦しむことはなかったものを……」


 哀しみと怒りが混じったような目でクシが見つめ返してくる。ワコはその鋭い視線を受け止めながら言った。


「私が戦士としての矜持を守ろうとしたことは、一方で貴方の心を深く傷つけていたのね。私は自分のことばかりで気付きもしなかった。ごめんなさい、クシ……」


 ワコを鋭く睨みつけていたクシだったが、その言葉を聞いてふっと表情を緩めた。


「いや、ワコが悪いわけではない。何時までも貴女を諦められない自分が自分で情けないのだ。皇帝ともあろう者がこんな不安を抱えていてはいけない。そう思えば思うほど、不安が広がっていく。すまない。こんな気持ちを打ち明けられるのも貴女しかいないのだ」


 そう言うと、クシは頭を抱えて屈み込んだ。ワコはそっとクシに近づくと、子どもを抱く母親のようにクシの身体を優しく抱きかかえ、背中に頬を乗せた。


「いいのよ。大きな戦いの前に不安になるのは当たり前だわ。例え皇帝となっても人間なんですもの。ほかの者が知らない不安を打ち明けてもらえるなんて、光栄だわ」


 そうやってクシを慰めながら、ワコは自分の中の哀しみも解き放たれていくように感じていた。クシは頭を覆っていた腕をほどいて少し顔を上げると呟くように言った。


「今までどんなに窮地に陥っても、貴女の存在が私を支え救ってくれた。離れていても常に身近に感じていた。今はこんなに傍にいるというのに、貴方の存在は一番遠くにあるように思えてならないのだ」


 そしてクシはワコの背に手を回し、その身体を強く抱き寄せた。


「しばらくこうしていてくれ。そうすれば悪夢を忘れられるような気がする」


 ワコの方もクシの身体に回した手に尚一層力を込める。

 ときが止まってしまったかのように、ふたりは長いことそのままの姿勢で動かなかった。揺らめくたいまつの灯りに照らされたふたりの影だけが、ゆっくりと動いていた。


 やがてクシはワコの背に回した腕をほどき、彼女の顔を見つめて寂しそうに微笑んだ。


「貴女は同じ戦いに挑む同志。もう私だけの恋人ではないのだ」


 ワコはそんなクシに微笑み返す。


「いいえ。せめて分かたれるときが来るまで、貴方の恋人でいるわ」


 そう言ってワコは両手で優しくクシの頬を包むと、唇を寄せた。 



 これから戦地へ向かうことなど忘れてしまえば、なんと幸せな夜だろう。

 外の喧騒が、天幕のなかの静かな空間を隔離する。今、ふたりにはお互いの甘やかな囁きや吐息だけしか聴こえなかった。夢の中を彷徨うように重なり合う。


 ふたりだけの空間は、これから先に待つ華やかな未来の幻想を抱かせた。クシの腕の中の人はキヌア以外の誰でもない。これはあのとき束の間でしかなかった逢瀬の続きなのだ。そしてこれからは永遠に続く幸せだ。クシはそう錯覚した。

 星空の夜に別れ別れになって、ようやく再会を果たした恋人同士。そしてこれからはずっとこうして寄り添っていくのだ。

 その温もりを肌に感じ、お互いの存在を確かめ合って、今この瞬間は夢ではないことを確信する。


 そうやってどれほどの時間が経っただろうか。

 お互いの温もりに安心を感じて、やがてふたりは眠りに落ちていった。




 広い野営の各所に焚かれた篝火の周りに、兵士たちと兵站隊の男女が一緒に寄り集まり、それぞれ賑やかに宴を行っていた。

 皇帝の天幕から戻ってきたワイナもそのひとつに腰を下ろし、宴の輪に入って杯を手にした。もうすでに酔っ払っている彼らは上機嫌でワイナに酒を注ぐ。

 これからの果てない遠征と、やがて迎える強大な敵との一戦に備え、今宵は存分に愉しもうと、ワイナも彼らと杯を交わし、周囲の者と愉しく談笑していた。

 そんなワイナの横に誰かが寄ってきて呼びかけた。振り向くとそこにはティッカが立っていた。


「ああ、ティッカ、ワコどのを探しているのだな。ワコどのは所用があってまだ陛下の天幕にいらっしゃるのだ。今宵は遅くなるが心配はいらないぞ」


 ティッカは承知して頷いたが、まだそこに突っ立ったままその場を離れようとしない。ワイナはしたたか酔って上機嫌で言った。


「ティッカもここに座って一緒に飲もうではないか」


 そう言って自分の横の地面をはたく。ティッカはそろそろとそこへ腰を下ろした。無口でどことなく元気のないティッカに、ワイナは訊いた。


「何か心配事でもあるのか? 私で良ければ聞いてやるぞ」


 酔っている彼は心から心配している風ではなく、愉しむようににやにやと笑みを浮かべた。裏腹にティッカはますます神妙な面持ちになって彼を見つめた。その真剣な顔つきに、さすがにワイナも笑うのを止めた。

 ティッカは彼の目をじっと見つめて言った。


「私はワコさまを探していたのではありません。ワイナさまを探していたのです」




 クシはまどろみの中で、大勢の民衆の前に立ち、歓声を上げる彼らに応えるように、手を大きく拡げてかざしている自分の姿を見ていた。額にはすでにマスカパイチャの美しい房飾りが垂れ下がっており、民衆が自分を盛んに称え、呼ぶ声を聞いた。

 脇に目を遣れば、美しく着飾ったキヌアが自分に寄り添い、満面の笑みを向けていた。彼女の胸元には輝く銀の円盤が下がっている。それは彼女が月の化身、コヤとなった証であった。つまり彼女が自分の正妃(コヤ)なのだ。

 クシは彼女の腰に手を回し、彼女を伴って一歩前に進み出た。自慢の美しい正妃(コヤ)を見てくれとばかりに彼女を片手でしっかりと抱え、片手を上げて民衆の声援に応える。すると民衆はますます沸き立って歓声を上げた。

 この上なく幸せだと思った。

 隣に寄り添う彼女の腰に回した手を上げて、柔らかい漆黒の髪を撫で付けたとき、その感触が肩の先で途絶えたことを知って、はっと彼女を振り返る。クシの視線を感じてこちらを振り向いた彼女は、髪を兵士のように短く切り揃え、戦闘服に身を包んでいた。


 目覚めてみると、腕の中にワコの寝顔があった。夢の最後にみた短く切り揃えられた前髪が彼女の額を覆っていた。

 クシは深く長い溜め息を吐き、その前髪を指先で少し揺らした。額に刻まれた小さな刺青が覗いた。それが彼女を象徴する小さな花房の形であったことに、クシはそのとき初めて気が付いた。今まで間近で彼女の顔を見つめるときは、その瞳にばかり気を取られて額の刺青になど意識を向けていなかったのだ。

 小さな刺青は敵を威嚇するためのものではなく、彼女の生への祝福が篭められていたのだ。

 クシが思わずその刺青に唇を寄せたとき、ワコはゆっくりと目を開いた。


 外では相変わらず兵士たちの宴が続いている。人々のさざめき、賑やかな歌声、甲高い骨笛(ケーナ)の響きや太鼓(ティンヤ)の弾むようなリズム。その騒ぎがクシに華やかな夢を見せたのだろう。

 幸せな夢のあと、目の前に横たわる彼女の現実を目にしたとき、クシの中にどうしようもなく切ない思いが込み上げた。それを打ち消すかのように、クシは再び彼女を強く抱き締めた。

 クシの不安を感じ取って、ワコは囁く。


「私はずっと傍にいるわ。命のある限り」





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