6、 一本草の男
6、一本草の男
前線の陣を任されていた首領イラパは、明け方の奇襲の報せで叩き起こされた。
「首領! クスコの大軍隊が襲ってきました。敵はもうすでに陣営の中に入り込んできています」
一度は放棄したこの陣に戻ってきてからというもの、太陽の都には常に交替で斥候を送り、その様子を監視してきたのだが、ここ数日斥候たちが陣に戻ってこなかったのだ。
おそらく都で異変があり、警戒を強めていた敵に捕えられたのだろう。その事件を受けてイラパの方でも逆に警戒を強めていたはずだったのだが、直前まで敵の影に気付けなかったとはまったくの不覚だった。
「落ち着け。非常時の対応は日ごろから訓練していたであろう。急ぎ陣全体に非常を報せる合図を送り、のろしを上げろ!」
「はっ」
奇襲を伝えに来た兵士は短く返事をして首領の部屋から走り去った。
間もなく、野獣の遠吠えのような奇声が辺りに響き渡り、それに応えるように各所から似たような奇声が次々と上がった。
イラパは大斧を一振り背中に差し、小ぶりの棍棒を手にして小屋を出て行った。
すでに陣の中は大混乱であった。敵はまだ陣の手前までしか入り込んでいないのだろうが、奇襲に驚いて無軌道に走り回っている仲間たちで陣の中が騒然としているのだ。
「ものども! 落ち着いて応戦せぃ!」
闇雲に走り回る兵士たちの注意をとにかくこちらに集めようとして、イラパは地面を揺るがすような大声を張り上げた。その声に、周囲の兵士たちが一斉に動きを止めた。
ゴォォという音とともに、陣の中央に常に設置されているのろし用の櫓から火柱が上がる。
平静を取り戻した兵士たちが首領の周囲に集まってきた。
「小隊を組んで応戦しろ。孤立している敵から狙うのだ。集団になっている敵はその周囲を取り囲んで一網打尽にするのだ。落ち着いてひとりひとり片付けていけばよい! 行け!」
指示があればあらゆる体制が取れるように訓練されている戦士たちだ。彼らは首領のひと声で即小集団を組み、ふたたび敵に向かっていった。イラパはそのあとを悠々とした足取りで付いていった。
首領の指示どおり、小集団に分かれた戦士たちは、孤立している敵を見つけては捕えようとした。しかし、敵は彼らの姿が見えると嘲笑うような表情をして、するりするりと建物の陰に入り込んでしまう。まるで戦う意志がないのかと思うほどだ。
追いかける戦士たちを弄ぶかのように無軌道に走り回る敵はなかなか捕まらない。返ってまとまらずに孤立している敵を捕えるほうが難しいようだ。
それならばと、今度は集団になって向かってくる敵を囲い込んで捕えようとしたが、目前で四方に散った敵はすっと物影に隠れてしまう。襲ってくると見せかけて逃げ回る敵に、どの戦士も翻弄されていた。
戦士たちは焦り、苛立ち、そのうち狂ったようにめくら滅法に斧を振り回すようになった。見境のなくなった戦士たちは、自分たちの陣営を破壊し始めた。
破壊した建物の蔭から面白いように敵が飛び出て来る。隠れるものが無ければひ弱な太陽の都の兵士など呆気なく捕えることができる。例え自分たちの塒を破壊し尽しても敵を倒せればよい。彼らはそう考えた。
しかし逃げ回る敵を捕えることに夢中になっていた戦士たちは、彼らの背後から新たな敵が襲ってきたことに気付かなかった。敵陣からふたたび兵士の一団が追加されたのだ。
後方から不意を突かれて抗うことも出来ず、幾人かの戦士たちが倒された。
新たな敵に意識を向けた途端、追い詰めていた敵たちは陣営を逃げ出し、待機している自分たちの軍に戻っていってしまった。
強固な陣営と屈強な戦士から成る軍隊を誇っていたイラパ軍は、小柄でひ弱そうなと揶揄していたクスコの兵士たちにすっかり翻弄されていた。
首領イラパは、予測できない事態に陥って、一時は焦ったが、味方の動揺が余計に混乱を招いていることを察し、再び召集の雄たけびを上げた。
それを聞きつけた戦士たちは戦いを放り出し、まずは首領のもとに駆けつけた。
落ち着いて戦闘態勢に入れば、手に負えない相手になるということが敵にも分かっているのだろう。召集に応じて陣営に集まり始めた戦士たちを、敵は追ってくることはなく、彼らも自分たちの陣に素早く引き返していった。
「何を焦っている! たかだか太陽の都のねずみのような兵士の一団ではないか! 直接対決すれば分が悪いことを分かっていて逃げ回り、我らの精神が疲弊するのを待っているのだ。まんまと敵の思う壺に嵌ってどうする! 落ち着いて普段どおりの戦闘態勢を整えよ!」
首領の言葉に我に返った戦士たちは、揃って大声で返事をした。
イラパは敵の様子を観察するため、戦士たちの先頭に立って陣の入り口まで移動した。
逃げ帰った敵は、平原の遥か向こうに整然と並び、こちらを見つめていた。その数はイラパ軍の戦士の数を悠に上回っている。
太陽の都にクスコから避難していた兵士や、他国の戦士が集結しているという報告は受けていたが、ここまで大規模な軍隊になっているとは思わなかった。都に攻め込んだとき、護衛も儘ならないほどの数だった兵士が、短期間のうちにあのような大軍になっているとは! イラパは我が目を疑った。
「ヤナとトケリョの陣からの援軍が到着するまで、どの程度掛かる」
イラパは傍に侍る側近に訊いた。
先ほど上げたのろしは、無風の今は非常に良い状態で天まで上がっている。この先の陣営からも十分目視できるだろう。
のろしがひとつ上がれば、先の陣営から半数の援軍が送られることになっている。彼らが支度を整えすぐに援軍に向かったとして、徒歩で半日の行程は急げばそれほど時間は掛からないだろう。
「実は、この先に流れる河が昨日の豪雨によって氾濫しているとの報せを受けていたのです。水が引くのはいつのなるのか、今の状況ではまったく分かりません」
「ふむ」
イラパは少し考えを巡らせたあと、部下たちに向き直り、大声で指示を出した。
「援軍が来るまで、我々も時間を稼ぐ。敵は我々とまともに対戦するつもりはないようだ。直に向き合えば勝ち目がないことを承知しているに違いない。我らを焦らして体力が尽きるのを待っているのだ。ならばこちらも適当にあしらって機会を見て倒せば良い。時間を稼ぎ、援軍が到着したときに一気に叩き潰すのだ!」
首領の言葉に戦士たちは大地が割けんばかりの雄たけびを上げた。
ふたたび敵陣から兵士たちが向かってきた。
先ほどの奇襲では、こちら側にまだ構えが出来ていなかったが、今度は迎え撃つ態勢が整っている。イラパも後ろに下がることはせず、そのまま先頭に立って彼らを迎え撃とうと構えた。
そのとき、前線の敵の向こう側で、輿の上から指示を送っている相手側の首領の姿を遠く確認した。
顔ははっきりしないが、雲の隙間から差し込んで来た陽の光が、彼の装身具に反射して眩しい光を放ったのだ。
「一本草の男だ!
輿に乗っているのは金板を耳に提げた首領クシだ! のろしをもうひとつ上げよ! クシが現れた。ヤナとトケリョの全軍を呼び出し、ここに集結させて、何としてでも一本草を倒すのだ!」
指令を受けた戦士が数人、慌ててのろし用の櫓へと走っていった。
「何という幸運だ! 一本草が我が軍の前に現れた! しかし少数軍で我らに大打撃を与えた男だ! ヤナとトケリョが合流するまで、作戦どおり時間を稼ぐのだ!」
戦士たちに向かってイラパが叫んだとき、クスコの兵が彼らに押し寄せて、両軍は激しく衝突した。