4、 軍神ワコ
4、軍神ワコ
「なんと、まあ! まるで殿方ではないですか。おいたわしや……」
タキリャが驚きの声を上げ、そして憐れむような目でみつめた。
小さな老女は思い切り背伸びして、長身のキヌア、いやワコの頭に手を伸ばし、いたわるように撫で付けた。ワコの髪を撫で下ろし、肩先で止める。その先に膝下まで伸びていたはずの髪はもう無かった。
ワコはクスコの兵士たちと同じく髪を肩先で切り揃えていた。額のところに硬く織られた細い頭帯を幾重にも巻きつけて留め、成人前の少年兵のようにその頭帯に七色の羽を挿していた。
鎧として役立つ薄い銅板がいくつも縫いつけられた上衣。上衣の地色と同じ黄土色の短い腰布を巻き、女性物とは違う短い朱色のマントを羽織っていた。朱の房飾りのついた綿地の脚絆を両脛に当て、両腕にも同じ生地の腕あてを巻いていた。薬草などの入った小さな袋を肩から斜めに掛け、背中に重い石斧を背負ってロープで体に巻きつけていた。
耳に金板を提げていればそれはまさにクスコの貴族兵のいでたちだ。女性としては逞しい身体をもつワコだが、鍛え抜かれた男性兵士に比べればやはり線が細いので、一見、少し背の高い少年兵に見えなくもない。
タキリャはその姿に涙まで流し、「おいたわしや、おいたわしや」と繰り返していた。
ユタを抱く乳母のリュスカも、呆気にとられたように口を開けてワコの姿を頭から足先までゆっくりと眺めていた。戦士の姿をした女性などクスコで見たことはなかったからだ。彼女にはタキリャが憐れむ気持ちも分かる気がした。
リュスカの腕に抱かれたユタだけは、どんな姿をしていてもしきりに母親の姿を目で追い、ワコと目が合うとにっこりと笑った。
出陣までユタと居るようにとクシに言われたものの、いざとなって離れがたくならないためにと、ワコはユタと過ごす時間を減らしていた。昼間は鍛錬と会議で体が空かないこともあり、今では夜のひとときを過ごすことしか無かった。起きているユタの顔を見るのは久しぶりだ。
しかし今夜からはその寝顔さえも見ることは叶わなくなる。
無邪気に母親の姿を追うユタに、ワコは優しい笑みを向けて近づいた。そしていつもショールを留め付けていた二本の青銅のピンの一本を自分のマントに差し、一本をユタのおくるみに差した。
しばらくユタの顔を見つめたあと一度顔を伏せ、決心したように顔を上げると、ワコは真剣な面持ちでタキリャとリュスカを見た。
「では、ユタのことを頼みましたよ。いってまいります」
そう短く言って二人に深々と頭を下げた。
「無事にお戻りにならなければ駄目ですよ。必ずユタさまのところにお戻りくださいよ」
タキリャはまるで娘をたしなめるように言った。ワコは顔を上げて頷くと、踵を返し颯爽と軍の集う広場へと向かっていった。
タキリャとリュスカは思わずしゃくりあげながら深く腰を折ると、回廊の角にワコの姿が消えるまでそのままの姿勢で見送った。
宮殿前の広場には大勢の兵士が集まり、中央のひな壇の周りを埋め尽くしていた。中央に群がるクスコの兵士たちのその外側、もう街から外れて郊外の丘の中腹にまでも、各地からやってきた他の部族の戦士たちが集まって黒だかりを作っていた。集まった群衆がざわざわと騒いでいるので、街全体が小刻みに震えているようだ。
「キヌアさま!」
ひとりの若い兵士が、広場にやってきたワコの姿を見つけて駆け寄ってきた。
「第四軍はキヌアさまが率いてくださるのだと知り、安心いたしました。言葉も通じない恐ろしげな女首領では不安でしたので!」
キヌアの教室で一番若かった生徒が成人を前にして出陣することになったらしい。遠慮を知らない少年にやはり教室で一緒だった少し年長の少年が注意した。
「こら! もうキヌアさまではなくワコさまだ。それに恐ろしげな女首領とは失礼だぞ! ワコさまのお母さまなのだからな」
年下の少年ははっと口を押さえて頭を下げた。
「いいことよ。正直で。けれどこれは稽古ではないわ。誰が率いていても自分の身は自分で守る覚悟をしなくては駄目よ」
戦の何たるかも分からない無邪気な少年にワコは少し厳しい調子で言って聞かせた。
(キヌア)
再び元の名を呼びかけられて振り返ると、そこには『天の女王』と『地の女王』が揃って立っていた。ワコが出陣を宣言したあの日もあの場にいた筈であり、その後の会議でも何度も顔を合わせていた母と姉であったが、あくまで同じ軍の指揮を執る同志として接していたのだ。
その母が娘に直接呼びかけたのはワコがクスコに出発する日に挨拶を交わして以来のことだった。
母に是非話さなければならないことがあったが、話しかける機会を失っていたワコは、呼びかけられておきながら、すかさず自分の方から挨拶した。
(第四軍の指揮官を拝命することになりましたワコと申します。どうぞよろしくお願いいたします)
(ええ。私たちは全力で補佐いたします。ワコ指揮官)
『地の女王』が同じように慇懃な挨拶を返した。しかし『天の女王』はワコのもの言いたげな表情に気付いていたらしく、黙って娘を見つめていた。
ワコと『地の女王』の姉妹よりも少し背は低く肉付きはいいが、鍛え抜かれた体格やその貫禄は姉妹の比ではない。広い胸と肩幅、強健な手脚を持ち、顔にも身体にもいくつもの名誉の傷を負っているが、暗褐色の肌は年齢を感じさせないほど艶やかだ。細かく細かく編みこんで後ろで束ねた髪は織り物のそれのように規則正しく美しい模様を描いている。戦うときには鋭い光を放つ大きな眼は平常でも相手を貫く閃光のように輝いている。父の次に憧れた母の姿をワコは初めてゆっくりと眺めた気がした。
(お母さま)
懐かしいその視線に晒されているうち、ワコは思わず娘に戻って母に呼びかけていた。
(私をクスコに嫁がせた目的は、危うい立場にあったキリスカチェが滅んだとしても私だけは生き残ってほしかったからなのですね。ケチュアの民に縋ってでも、キリスカチェの王家の血を残してほしかったからなのですね。お母さまが私に向けてくださった愛情と部族の行方を憂えるお気持ちに、自分の子を持って初めて気付くことができました。
しかしそのお母さまの想いを裏切ることになってしまい、申し訳ありません)
それを聞くと『天の女王』は静かに首を横に振った。
(そなたの子を見ることが叶わなかったのは寂しいが、私にはそれよりも嬉しいことがある。やんちゃな末娘が立派な戦士となってこの女王たちと我が軍を率いて行ってくれることだ。
これより先、ワコ指揮官にキリスカチェ全軍の命をお預けする)
そう言うと『天の女王』はワコの前にひれ伏して顔を地面に付けた。それに倣って『地の女王』も同じ姿勢を取る。
ワコはその二人の頭の上に自分の右足の先を順々に乗せた。それは服従を表す仕草だった。
二人の女王が服従を誓った相手に、女王に従って後方に並んでいたキリスカチェの戦士たちが一斉にひれ伏した。彼らにとっては、かつても仰ぎ見ていた有能な姫君だったが、改めて心からの忠誠を誓ったのだった。
第二軍、第一軍の出陣を明日と明後日に控えたその日は、指揮官たちの任命式と壮行式が行われる。この壮行式を終えればまだ出陣を先に控えている軍も郊外に仮陣を置き、揃って出発の日を待つこととなる。
これまで各所に分かれて準備を進めていた各軍は、その日、最初で最後に全軍で顔を合わすことになるのだ。
各軍、各部隊の指揮を執る者たちは広場の中央に設けられたひな壇に上がっていった。
壇上に首領や指揮官たちが揃うと、広場を埋め尽くす大勢の兵士たちのざわめきが治まった。しかしすぐに、彼らの声は大歓声となってクスコの街全体を大きく震わせた。
皇帝クシが側近たちに囲まれて姿を現したのだ。
無数の羽が弧を描くように付けられた黄金の冠を被り、美しい羽飾りの付いた黄金の矛を手にし、長いマントの裾を引いてゆっくりと壇の中央まで進むと、そこに設けられた玉座に身を沈めた。
広場の中央は大勢のクスコ兵たちで埋め尽くされている。その周りに集まる異民族の各集団は、じつに様々な民族衣装を纏っていた。そして手にする武器も独特なものが多かった。
しかしその様々な民族たちが見つめている先はただひとつ、壇上のクスコの皇帝の姿だ。その光景が今、西の強敵に立ち向かおうとしている東の民族たちの決意と団結の固さを表していた。
一度玉座に腰を下ろした皇帝は、また立ち上がって壇の先に立った。そして両手を上に大きく広げ、壇の周囲をゆっくりと見回した。皇帝の視線の先の人々が次々と歓声を上げるので、その音は湖のさざ波のように伝わり、広場の周りを一周した。
彼らの騒ぎが治まるのを待って、クシはようやく口を開いた。
「ここに集いし同志たちよ。われらの平和を侵そうとする西の大敵を、今こそ打ち負かすのだ。太陽の都クスコに味方する同志たちを、太陽神は必ず佳き方向へと導いてくださる。怖れることはない。チャンカを倒し、元の平和な大地をとりもどそうではないか」
また喚声が地面を震わせた。
演説が終わるとクシは指揮官たちに各々の任務を命ずる儀式に移った。目前に次々と跪いていく指揮官たちの肩を、クシがそれぞれの任務を唱えながら、黄金の矛で触れる。
壇上には任命を受けるための指揮官たちの長い列が出来た。
最後尾に並んで最後に任命を受けるのはワコに改名したキヌアだった。髪を短く切り、貴族兵のいでたちがすっかり馴染んでいるその彼女が、以前同じ壇上でクシ皇帝と並んで立っていた美しい貴婦人だと気付く者はほとんどいないだろう。
自分の番が来るとワコは片足を立てて跪き、片腕を胸に当てて深く頭を垂れた。
「ワコ、そなたを最前線に赴く第四軍、キリスカチェ=クスコ軍の総指揮官に任命する。心して任務に当たるよう」
「はっ」
ワコは短く返事をしてまたさらに頭を深く下げた。黄金の矛でその肩に触れる前に、クシは彼女に言った。
「ワコとは、クスコを創り、多くの敵からこの地を護った偉大なる軍神だ。その名に恥じぬ働きを期待しているぞ」
「はっ。必ずやご期待に沿うとお約束いたします」
俯いているワコには見えないが、黄金の矛を下ろしながら、クシは声を出さずにつぶやいていた。
(しかし、必ず生きて帰れ……)




