3、 真夜中のユリ (その2)
寝台に横になってキヌアは眠れぬ夜を過ごしていた。
キヌアの暮らす後宮はビラコチャ帝の側妃たちのための住まいである。
前帝の側妃で今クスコに残っているのはキヌアひとり。
正式な即位をしていないクシがまだ自分の宮殿を持っていないため、クシは父の王宮をそのまま居城にしていた。クシは父に仕えていた侍女や召し使いをそのまま召抱えているため、側妃たちが不在でも、後宮の管理はビラコチャ帝の代と同じ召し使いや侍女たちが行っていた。
しかし側妃の位を下り市民となることを太陽神に誓ったキヌアは、クシがそれを認めたとき、即この部屋から出て行かなければならない。
その夜、クスコに来てからの数々の出来事を、永く暮らした部屋の匂いに包まれながらキヌアは思い返していた。
―― 憐れな老皇帝を慰めながら耐え忍んだ長い年月と、思いを通わせたクシと過ごした短い蜜月のとき。
動乱の中で何度も別れを覚悟し、それでもまた寄り沿い、そして最後にクシはここで自分を正妃に迎えると誓った…… ――
そこまで思い返したとき、自然と溜め息が漏れた。
キヌアの横たわる寝台の傍らには寝台の半分ほどの長さの木箱が置かれている。木箱には短い脚が付いており、その脚は前後左右が僅かに違う長さに切られていた。そっと揺すると木箱はカタカタと小さく揺れる。
木箱の中にはユタが眠っていた。
キヌアは寝台に横になりながら、片手で頬杖をつき片手で木箱を優しく揺すっていた。
高窓からは蒼い月明かりが差し込んでいた。月光は木箱の中の小さな寝顔を照らしていた。すやすやと幸せそうに眠るわが子の顔を眺めながら、キヌアはまた深い溜め息を吐いた。
―― 一度戦地に出れば、もう二度とこの子の寝顔を見ることは叶わないかもしれない。もし無事に帰ってきたとしても、親子の絆を絶ってしまった以上、自分の子として一緒に過ごすことはないのだ ――
(ユタ、お母さまは、お父さまとあなたを守るためにあなたと別れる決意をしたの。どうか分かってちょうだいね。離れていても、ずっとあなたのことを想っているわ)
木箱を揺すりながら、キヌアはユタに囁いた。
突然、高窓から何かが降ってきた。それはキヌアの枕元にパサリと小さな音を立てて落ちた。
それを拾って月明かりにかざして見ると、小さなユリの花だった。まっすぐに伸びた茎の先を囲むようにぐるりと長細い花が付いている。陽の光の中では真紅に見えるその花は、薄暗い月明かりの中では黒ずんで見えた。
根元で折られた真っ直ぐな茎に細い藁で真っ白な羽が括り付けられていた。
白い羽を見て、それを投げ入れたのが誰だかを察したキヌアは、すぐに起き上がって部屋を出た。
部屋のすぐ前では番兵がふたり、かがり火を焚いて番をしていた。キヌアが出てきたのを見て、何事かと慌てて寄ってきて跪いた。
「眠れないので庭を散歩してくるわ。ユタが泣いたらタキリャを呼んでちょうだいね」
番兵たちは頭を下げてキヌアを見送った。
裏手に回ってみると、あの抜け穴の前に同じユリの花が落ちていた。キヌアはそれに導かれるように抜け道へと入っていった。
暗い抜け道にもユリの花がキヌアの向かうべき先を指し示すように点々と落ちていた。ほとんど暗闇の中で、キヌアは足先に触れる草の感触でそれを確かめ、ひとつひとつ拾い上げながら花の示す方向を辿っていった。
抜け道を出た街の通りにも、花の道しるべは続いていく。
導かれてやってきたのは、郊外の丘の上。以前、クシとふたりで星を眺めた場所だ。
果たして丘を上りつめたところに、頭からマントを被った人影があった。こちらを向いているが、月明かりはマントの影に遮られて表情が窺い知れない。その手には数本のユリが握られていた。
キヌアは人影に近づくと、そっと手を伸ばしてその人の顔にかかるマントを下ろした。蒼白いクシの顔が現れた。泣いているような、疲れ果てたような、やつれた表情だった。
低く抑揚のない声でクシは言った。
「何故なのだ、キヌア。私は約束のとおり皇帝になった。戦いが終われば、すぐに貴女を妃に迎えるつもりだと言ったはずだ。ユタもわが子とするつもりだった。その決意を表すためにあのとき貴女を壇上に迎え、ユタに名を与えたのだ。それなのに、貴女は……」
クシは言葉を切り、唇を噛み締めた。
「貴方の傍にいたいのよ。戦いの間もずっと。あのとき星に誓ったでしょう」
「戦いが終わるまで待っていてくれれば、ずっと一緒にいられるのだ。今まで何度もすれ違い、長い時を待ち続けていたのに、何故あと少しの間を待つことができないのだ。
皇帝と戦士では、例え同じ戦場にいたとしても、傍にいることはできない。
それに私は貴女を正妃に迎えると誓ったのだ。異民族の出であっても前皇帝の妃であり皇子の母である貴女は立派な皇族。貴族たちを説得することもできよう。しかし貴女はその地位さえも捨ててしまった。貴女と添い遂げようとしても、周りは貴女を妾としか認めてくれないであろう。ほかの正妃を迎えることなど私には考えられない」
「クシ、貴方は皇帝なのよ。貴方の意思はもう自分ひとりのものではない。国のものなの。個人的な感傷で事を行ってはいけないのよ」
「キヌアに言われずとも、そんなことは分かっている! 私は常に国のことを考えている! キヌアを妃にするのが、何故国のためにならないというのだ! そんなことまで我慢する必要は無い!」
クシははがゆい想いをぶつけるように、キヌアを怒鳴りつけた。握り締めた拳の中で、ユリの茎がポキポキと音を立てて折れた。
キヌアは深い溜め息を吐くと静かに告げた。
「では、考えてみて。私がどうなるかということを。
貴方が戦地に行っている間、ただ心配しながら帰りを待ち、妃になったあとも宮殿の奥に閉じこもったまま、ユタの成長だけを楽しみに退屈な毎日を過ごしている姿を。それが私にとっての幸せだと、貴方は思うの?」
「そんな不自由な思いはさせない。キヌアは自由に望むことをすればよい。野山を駆け回ることも、遠い地に旅することも、狩りに行くことも、すべて私が叶えてやる」
「ならば、私の一番望むものは、戦士として高い志のもとに戦うことよ!」
キヌアはそう言い切って鋭い目でクシを睨んだ。
それはキリスカチェから嫁いできたあの日の、野生の目をしたキヌアだった。
クシの中にそのときの感情が沸々と湧き上がってきた。自分はあのとき活き活きとした野生の目をもつ彼女に心を奪われたのだ。自分が恋したのは戦士としての自信に溢れている彼女だった。しかし……。
「出会った頃の私なら、貴女とともに戦場へ立てることに大きな喜びを感じていただろう。貴女に憧れ、貴女の戦う姿を見てみたいと心から願っていた。
しかしそれが愛しさに変わったとき、貴女を何としてもこの手で護りたいと思う気持ちに変わった。私が盾となって貴女には傷ひとつ負わせたくないと思うようになった」
クシは握り締めていた拳を目の前に持ってくると、ゆっくりと開いた。無残にへし折られたユリの茎がパラパラとこぼれ落ちた。
「貴女を愛することは、常にわが手の中に収めておくことだと思っていた。
…………しかし、その想いは間違っていたのだな。気づかずに、貴女をこの手の中で握りつぶしてしまうところだった……」
空になった手をしばらく見つめたあと、大きく開いたそれで掴み取るように顔を覆い、クシは俯いた。
そんなクシに、キヌアは優しく声を掛けた。
「貴方がそんな風に私を想ってくれていることに、私自身も幸せを感じていたわ。貴方を信じてこの身を委ねてしまうのも幸せのひとつだったかもしれない。でもそれではいつか私は私自身で無くなってしまうような気がするの。
たとえ貴方の妻になれなくても、私たちが同じ志のもとで戦うことも幸せのひとつだわ。
むしろ私はその方を望むわ」
キヌアの言葉にクシは顔を上げた。
ひどく冷静に聞こえた声音とうらはらに、キヌアは大粒の涙を流しながらクシを見つめていた。涙顔のまま少し笑顔を作り、頷いて見せる。はじめから覚悟していたわけではなく、彼女にとっても難しい選択だったのだとその顔は告げていた。
クシはキヌアの身体を包み込むように抱き寄せた。微かに震える彼女の肩にそっと語りかける。
「分かった、キヌア。貴女を……戦士ワコを正式にわが軍の兵士として任命しよう。
しかしユタはクスコの皇族だ。わが弟だ。成長したらしかるべき位を与えてやりたい。私が後ろ盾となって彼の成長を見守っていこう。キヌアには、出陣するまで今のまま、ユタのそばにいてやってほしい」
クシが言うと、キヌアはクシの胸に深く顔を埋めるように頷いた。
「約束するのだ。決して私より先に死んではならない。私がこの国を大きく発展させていくのを、必ず傍で支えていくのだ。よいな」
クシは腕の中でキヌアがふたたび首を傾けたように感じた。
静かに佇むふたりの上に、空から星がひとつこぼれ落ちた。それを追うようにまたいくつかの星が流れ、やがて次から次へと夜空を無数の星が流れていった。
ここで書いた『ユリ』とは、アルストロメリアを指しています。
今は花屋や園芸店でよく見かけますが、南米アンデス原産。『インカのユリ』とも言われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%B1%9E
ちなみに、私のHNとは一切関係ありません!
本当かどうか、クシが自分をユリに例えた詩を作っていたというのを知って、象徴としてこの花を使ってみました。