5、 狩り (その2)
その日は穏やかな良い天気だったが、平原にはほとんど動物の姿が見られなかった。狩りの腕には自信のあるアマルやリョケでさえウズラ一羽すら仕留めることができず、高原を彷徨っていた。誰よりも早く出発したクシはそんなことなど知らない。自分のアタリの付け方が悪いのだと考えて、平原のずっと先まで獲物を探して歩いていった。
皇帝や貴族たちの天幕もすっかり視界から消え、ほかの貴族たちの姿もどこにも見えない。クシはいつのまにかひとりぼっちになっていた。しかし誰にも知られないうちに大きな獲物を捕らえられるかもしれないという期待で胸が高鳴り、不安などまったく感じていなかった。
行く手にみすぼらしい小屋が何軒か寄り集まって建っているのが見えてきた。ほんの数家族が暮らす小さな集落なのだろう。
しかし小屋に近づいてみると人の気配はまったくなく、どの小屋もうち捨てられたあばら屋のようだ。住人はとっくにここを捨ててどこかへ移り住んだのだろう。今は人が住んでいないにしてもかつて集落があったということは、狩りに適した平原を逸れてしまったのだとクシはがっかりした。
来た道に引き返そうとしたとき、すぐ脇にある潅木の茂みが揺れて、ひとりの老人が姿を現した。老人はひとり集落の周りを散歩でもしていたのだろうか。クシの姿を見て目をまんまるにして驚いた。そして貴族の身なりをしたクシを畏れ、慌てて跪き、頭を地面に擦り付けた。クシはあまりにも恐縮している老人に優しく声を掛けた。
「私は狩りの途中で誤ってここへ迷い込んでしまったのだ。ほかには誰もいない。そんなにかしこまることはない。面を上げてくれ」
老人は恐る恐る顔を上げて、上目遣いにクシを見た。
「今日は獲物がまったく見つからないのだ。どこかでリャマの群れなど見かけなかったか?」
クシは老人の緊張を解こうとわざと親しげに声をかけてみた。老人はしばらく無言でおどおどとクシを見上げていたが、何かを決心したように腰を浮かせると、クシに縋り付いてきた。
「貴方さまならわしらの村を救ってくださるかもしれない。
実は、わしらの村の畑が黄金のビクーニャ【グァナコと同じく鹿くらいの大きさの動物】に荒らされて困っているのです。追い払っても追い払っても何度もやってきて、作物の芽はほとんど喰い尽くされてしまいました。わずかに残る作物の芽を喰われてしまったら、わしらはみな飢え死にしてしまいます。そうなればこの村と同じように滅びるしかありません。
ビクーニャは神の遣い……捕らえたことが知れれば死罪です。わしはこの老いぼれの命を捧げて村を救いたいと思い、ビクーニャを追いかけてきたのです。しかしあのすばしっこい動物をどうやったら捕らえられるのか思案に暮れておりました。しかし貴方のように立派な方なら……。どうか、わしの代わりに黄金のビクーニャを捕らえていただけませんか?」
老人は哀願するようにクシの服の裾を掴んだ。
「しかし……貴族であってもビクーニャを捕らえるのは特別に皇帝の許可を得た者でなくてはならないのだ。それは難しい相談だ」
「捕らえたビクーニャを皇帝に献上すればお赦しを得ることもできましょう。わしら庶民には決してできませんが、貴族の方なら皇帝に差し出すことは可能でございましょう」
「例え皇帝に差し出したとしても、許しを得ずに捕らえたことには変わりない。そのようなことが赦されるかどうか……」
「ここに迷ってこられたあなたを、わしは勝手に天が遣わした救い主だと思い込んでしまいました。しかし無理なお願いなら諦めるしかない。わしがうまく捕らえてひとり罪を被るか、そうでなければ村人はこのまま飢え死にするのを待つほかはないのでしょうな……」
老人は縋り付いた手をするするとクシの脚に沿って下ろし、そのまま地面についてその上に顔をうつ伏した。
クシは老人がうつ伏したまま肩を震わせて泣くのをしばらく見下ろしていたが、溜め息を深くつくと、しゃがんで老人の肩に手を置いた。
「ビクーニャはどの辺りにいるのか、案内してくれ」
老人ははっと顔を上げると、クシの腕を掴んで今度は嬉し涙を流した。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
目の横にある大きなホクロがますます老人を憐れに見せて、クシは助けてやらねばという使命感にかられた。
老人に連れられてクシは集落を越え、さらに向こうに続いている平原へと歩いていった。
遥か向こうのほうに二頭のビクーニャが草をはんでいるのが見えた。太陽に照らされて、繊細な体毛に覆われたその動物は黄金に輝いているように見える。その姿は太陽神の遣いと呼ぶにふさわしい。ビクーニャの毛はどの動物の毛よりもなめらかで美しいので、その毛織物は皇帝しか身につけることを許されていないのだ。
「あの二頭です。ビクーニャは敏感で逃げ足が速い。慎重に近づいてください」
老人が親切に教えてくれるが、クシは緊張から返事も返せず手にじっとりと汗をかいていた。ボーラが滑らないようにしっかりと手に巻きつける。
「あとは任せて、そなたは後ろに下がっているがいい」
クシは草の蔭に身を潜めながら、少しずつ少しずつ獲物に近づいていった。ビクーニャは相変わらずのんびりと草をはんでいる。
ボーラが届く距離まで近づいたとき、一頭がさっと顔を上げて耳を立てた。クシが素早くボーラで頭を狙う。ボーラが見事に命中して一頭目が倒れ込む前に、二頭目は向きを変えて走り出した。二頭目の足を目がけてクシはボーラを放つ。縄の両端にくくりつけられている石が遠心力でビクーニャの後ろ足にくるくると勢いよく絡みついた。
後ろ足にボーラを絡ませたまま、ビクーニャは疾走を続けるが、動きは明らかに鈍い。もうひとつの後ろ足に向けてボーラを放つとボーラが引っ掛かり、そのまま横の脚も一緒に締め上げてビクーニャの動きを止めた。両後ろ足を縛り上げられ走ることのできなくなったビクーニャは、前足をいざるように動かしたが自分の身体の重みでそれ以上進むことができずにその場に倒れ込んだ。
クシは素早く駆け寄って、一頭目の喉を斧で切りつけてとどめを刺し、さらに二頭目にも走り寄ってその体を押さえつけとどめを刺した。汗を拭いながら初めて自分で捕らえた獲物を眺めた。
神の遣いと呼ばれる神聖な動物を二頭もその手にかけたことへの罪悪感は、村の人を救ったという正当性と俊敏な動物をひとりで仕留めたという高揚感が覆い隠し、そのときのクシには感じられなかった。
この大きな獲物はあとで遣いの者をよこして皇帝の天幕へ運ばせよう。一度天幕へ戻って事の次第を話さなければ……。そんなことを思いながらビクーニャを縛り上げ、老人のほうを振り返ったとき、はるか向こう側でこちらを眺めている老人の後ろに、ウルコと侍従たちが揃って立っているのが見えた。
一番の見せ場となるはずの囲い込み猟も、その日はまったく成果を得られなかった。唯一迷い込んできたグァナコにまんまと逃げられ貴族たちはみな意気消沈していた。狩りの成果は国の運命を占うことにも繋がる。貴族たちの中には狩りの不猟とは別の不吉な何かを感じている者も多かった。
ワイナがやっと捕らえた野ねずみを袋に詰めていると、リョケがやってきて声を掛けた。
「ワイナ、クシと一緒ではなかったのか? 囲い込み猟のときにも姿が無かったのだが……」
「はい。クシ皇子は私よりもずっと早く出発しましたが、まだ戻ってきてはいません。天幕を出る前に皇太子さまに声を掛けられ、大物を捕まえて見返すのだと大変意気込んでいましたから」
「勇み足をしていなければいいのだが……」
リョケの表情が曇った。
皆が帰り支度を終えても、ウルコとクシだけはなかなか戻ってこなかった。皇帝がふたりを置いて出発せよと命令したとき、クシがこちらに向かってくるのが見えた。
「クシ!」
リョケとワイナが駆け寄ろうとしてはたと止まった。クシは両腕を後ろ手に縛られ、ウルコの側近がその縄を持って付いてきている。さらにその後ろからウルコと侍従たちがぞろぞろとやってきた。侍従たちは二頭のビクーニャの死骸を抱えてよろよろと歩いてきた。
皇帝の輿の前に来ると、クシはウルコの侍従たちによって罪人のように跪かされた。クシの横にはビクーニャの死骸が並べられた。貴族たちは呆然と立ち尽くしたまま、その様子を見ている。
「これは一体……」
皇帝が目の前の光景の意味を理解できずに呟いた。
「こ奴は、恐れ多くも神の遣いであるビクーニャに手をかけたのでございます!」
ウルコが声を張り上げた。
「クシ、何故このようなことをした……」
皇帝はクシの凶行をまだ信じられない様子だ。
「ビクーニャの毛を皇帝陛下に献上するつもりでした」
「それなら何故先に陛下のお赦しをいただかなかったのだ」
ウルコが腕を組みクシを見下して言う。
「このビクーニャに畑を荒らされて困っている村人がいたのです。その退治も兼ねて捕らえようと思ったのです」
「それはこの老人か?」
ウルコは侍従が連れてきた老人を前に引き出すように命令した。皇帝の御前なので、老人は素早く侍従たちに頭を押さえつけられた。
「皇子の言うことは本当か?」
頭を押さえられたまま、老人は苦しそうに話す。
「い、いいえ。私はこの方に獲物がいる場所を教えるように脅されて……。ほかに何もいなかったので、仕方なくビクーニャのいる場所を教えてしまったのです」
クシははっと顔を上げて俯いている老人の背中を見つめ、次にウルコを睨みつけた。
―― 嵌められた! ――
「貴族の立場を利用して、なんという横暴なことを!」
ウルコが大げさに驚いてみせた。
「クシ、ビクーニャが神の遣いであることを知らなかったとは言わせないぞ。ビクーニャを殺せばどのような罪が待っているのかも承知であろう」
皇帝が静かに問いかける。クシがここで言い訳をしたとしても証拠はない。仕方なくクシは無言で深く頷いた。
クスコに帰ってきた貴族たちの列を、送ったときと同じように后や召使いたちが並んで出迎えた。
キヌアも窮屈な着物やショールを一日脱がずに我慢し、ようやく出迎えの時間がきてホッとしていた。
宮殿前の広場を皇帝の輿が通り過ぎ、次に貴族たちが獲物を抱えた侍従を従えてぞろぞろと通り過ぎ、宮殿の中へと入っていく。
キヌアは自然とクシの姿を探していた。
ウルコ、アマル、リョケの一団が通り過ぎていった。リョケが通り過ぎるときにキヌアと目が合い、眉間に皺を寄せて辛そうな顔を見せた。キヌアはさっと顔色を変え、今度は必死でクシの姿を探した。
大勢の貴族と従者が後から後からやってくる。しかしどこを探してもクシの姿が見当たらない。列も終わりに近づき、ワイナが自分で袋を抱えてとぼとぼと歩いてきた。ワイナも暗い顔でじっと俯いている。
列はひととおり通りすぎ、出迎えた人々はその後ろに付いて、祝宴に参加するために宮殿の大広間へと入っていった。広場にはキヌアとティッカだけが取り残された。
「ティッカ、クシがまだ帰ってきていない……」
「ええ、見当たりませんでした」
キヌアは広場の向こうにじっと目を凝らした。しばらくすると大通りのはるか向こうから六、七人の集団がやってくるのが見えた。近づいてくるとそれは皇帝の衛兵たちだった。ふたりの衛兵に抱えられるようにして、真ん中を歩くのはクシだ。クシは病人のように弱々しい足取りで深くうなだれて歩いてきた。
「クシ!」
キヌアが駆け寄ると、うなだれていたクシが顔を上げ虚ろな目を向けた。しかしクシに近づく前に衛兵が手を広げてキヌアを払いのけた。その三人の後から、四名の衛兵が付いてくる。彼らが担ぐ棒には手足を縛られた大きな動物の骸が下がっている。その骸は二体。
キヌアに気付いたクシは衛兵に両腕を掴まれたままなんとかキヌアの方に顔を向けようとしていた。通り過ぎてもキヌアの方を振り返り、何かを彼女に訴えかけようとしたが、とうとう一言も発することもなく神殿へと姿を消した。
「どういうことなの?」
キヌアの声は震えていた。
「あれはビクーニャです。ケチュア族はビクーニャを神の遣いと崇めているのです。赦し無く捕らえたら厳しい処罰が与えられるのです。クシ皇子はほかの動物と間違えてビクーニャを捕ってしまったんですよ」
「ティッカ、クシがそんな間違いを犯すと思う?」
「そうですね。クシ皇子に限ってそんなことはありえませんよね」
「何か誤解されているのよ。誤解が解けるといいのだけれど……」
今まで見たこともないクシの弱々しい姿にひどくショックを受け、キヌアはティッカの手を強く握り締めてその場に立ち竦んでいた。