9、 幻の皇妃
9、幻の皇妃
日が中空から西へと傾き始め、ようやく民衆の騒ぎがおさまってきた。
祭壇上では、貴族たちが忠誠を誓う儀式の次に、各地から同盟を組むために集まってきた部族の首領たちが、順々にクシに誓いを立てていた。その人数もたいへんな数で、彼らの謁見がすべて終了するにはかなりの時間を要したのだ。
太陽の光が僅かに赤みを帯びてきたころ、即位に関するすべての行事が終了した。
しかしクシや貴族たちはそのまま祭壇の上に留まり、何かを待っていた。
ひとりの神官が慌ただしく壇を下りて何処かへと走り去った。
しばらくのち、戻ってきた神官に促されて、祭壇にひとりの貴婦人が上がってきた。
波打つ黒髪をいくつもの緩やかな三つ編みに編んでゆったりと背中に流している。その上を極彩色の幾何学模様が施された頭巾が覆う。
生成りの地に鮮やかな赤の縁取りを施した上衣に、同じ生成りの長い腰巻スカート。長身の彼女をすっぽりと包み込む大きなショールには、頭巾と同じ色鮮やかな織り模様が細かく施されている。
ショールの端を留めつけている二本の青銅のピンと、頭巾の前面に下がる小さな飾りが夕陽に反射して輝きを放つ。
目の覚めるような鮮やかな色彩と装飾品の光沢は、彼女の艶やかな褐色の肌やくっきりとした目鼻立ちを際立たせていた。
集まった人々は羽冠を戴いたクシを見たときと同じ溜め息をもらした。いったい誰かとざわめく声も聞こえてきた。
彼女は幾重もの布にくるまれた何かを手にしていた。
大事そうにそれをしっかりと胸に抱えて、壇の中央に立つクシにゆっくりと近づいていった。そしてクシの前に来ると、その布の先をクシの方に差し向けた。
クシはその布の中を覗き込み、大きく広げた。そこには小さな赤ん坊の寝顔があった。
壇上に上がってきたのは子供を抱いたキヌアだったのだ。
神官が近づいてクシに青銅のナイフを渡す。クシは、キヌアの腕の中で眠る幼子の顔にナイフを握っているのとは反対の手を伸ばし、まだ細く少ないその髪の毛を指先でつまんだ。そしてその頼りない束を慎重に切り取った。
か細い毛を神官が掲げる小さな黄金の盆に載せると、クシは見守る民衆や貴族たちを見回して言った。
「皇帝より、わが弟に『ユタ』という名を与える。この弟はクスコが勝利した日に生まれた喜びの子だ。わが世を安寧へと導いていくであろう」
民衆はその言葉に、クシの即位のときと同じ歓声を上げた。
「ユタ皇子、万歳!」「ばんざい」
クシはキヌアから赤ん坊を受け取り腕に抱くと、小さなその額に口づけをした。
ユタを抱いて愛おしそうに見つめているクシと、ふたりの姿を優しく見守るキヌア。
壇上の三人のその姿は、人々に『新皇帝とその皇妃、そしてふたりの間に生まれた皇子』ではないかと錯覚させた。それほど自然な家族の姿だったのだ。
そこに集うすべての人の心に、幸せそうなこの『家族』の姿は深く深く焼き付いた。
即位式が終わり、クシはふたたびチャンカ戦への準備に取り組んだ。
クシの即位によって東の地域のほとんどの国や部族が同盟者となり、強大な連合軍が出来上がっていった。
クスコを護った一番の盟友キリスカチェは、とくに重要な存在として決定権を握っていた。
重要な会議では、キリスカチェの天、地、両女王もクスコの重臣たちと肩を並べ、意見をたたかわせる。その通訳や仲介としてティッカの存在も大きな位置を占めていた。
キヌアは、ユタがいることで会議の場に呼ばれることはなかった。仕方ないことだと分かってはいても、自然と不満が募る。その不満をぶつけるかのように、ユタが眠っているときには人気のない宮殿の裏手でひとり斧の稽古に励んでいた。
そんなある日、稽古を一休みして建物の脇に腰掛けていたキヌアの耳に、数人の男がひそひそと話す声が聞こえてきた。彼らはどうやらキヌアの寄りかかっている建物の中に集まって談合しているらしい。その言葉遣いから貴族たちのようだ。
その場所は貴族など滅多に足を運ぶことのない、廃棄物の置かれた倉庫などがある一画である。
そのとき、微かに聞こえてくる会話の中に自分の名が混じっていることに気付いたキヌアは、気配を殺して入り口に近づくと、聞き耳を立てた。
「即位式のあと、皇帝の横に立った女性は、キリスカチェから来たビラコチャ帝の側室であろう」
「ああ、ビラコチャさまに付いて東の谷へ行くのを拒み、都で皇子を生んだという……。あの場に立つことを許されたということは、クシ帝はあのキヌア妃を后に迎えるおつもりなのだな」
「前皇帝の側室を貰い受けることは珍しいことではない。しかし正妃にというのはまずかろう。神聖な皇族の血に異民族、しかもあの粗野なキリスカチェの血が混じるのだ」
「それもあるが、気になるのはユタ皇子のことだ。クシ帝は腹違いの弟に随分とご執心のようだ。本来なら二歳にならねば与えられぬ名を、まだひと月しか経たない赤子に、しかも自らが名付け親となって与えるとは。多くのご兄弟のひとりに過ぎないユタ皇子にまで特別な愛情を注いでいるような皇帝の振る舞いには、いささか首を傾げる」
「何か怪しいと思わぬか」
「……それは、前皇帝の御世から、クシ皇帝とキヌア妃は深い関係だった。ユタ皇子はクシ皇帝の子だということか」
「そうだ。思いおこせば、あの二人はよく一緒だったではないか!」
キヌアは血の気が引いていくのを感じた。早鐘を打つ胸を押さえ、必死に冷静を保ちながら、なおも室内の会話に意識を集める。
「わしは、ウルコ皇子に失望してクスコに戻ってきたが、ハナンの皇子の即位を認めざるを得なくなったことにはたいそう不満だったのだ。ウリンにも有能な皇子はいる。しかしクシ皇帝には到底及ばぬ。ウルコ皇子が即位していれば、ときを見て権力をウリンに移すことを画策するのも不可能ではなかったが、もうその望みは無くなった。それが口惜しいのだ」
彼らはウルコの取り巻きであったウリンの貴族たちだ。ウルコを見限ったものの、ハナンのクシに忠誠を誓わざるを得なくなったことに不満を抱いているのだ。
「クシ皇帝の実力は認める。しかしビラコチャ帝を裏切っていた罪は重いぞ。しかも一介の皇子でしかなかった時分に皇帝の側室を寝取るとは言語道断」
「これは、隙のないクシ皇帝を失脚させる良い理由になるやもしれんぞ。この憶測が正しければ、少し調べれば証拠などいくらでも出てこよう」
「チャンカを制するにはクシ帝の力が必要だ。しかしその後は潔く罪を認めて退位していただこうではないか。クシ帝が正式に即位してキヌア妃を正妃に迎えることを宣言したときが絶好の機会ぞ!」
貴族たちは声を殺してクックと笑った。キヌアは呆然として、それでも物音を立てないように細心の注意を払いながら、その場を後にした。
部屋に戻るとユタが激しく泣いていた。必死でユタをあやしていたタキリャが、キヌアを見るなり怒ったように言った。
「キヌアさま、もう乳の時間はとっくに過ぎていますよ。どこにいらしたんですか!」
キヌアは黙ってタキリャからユタを受け取ると寝台に腰を下ろして乳を飲ませ始めた。俯いてユタの顔を見つめているように見えたキヌアの肩が小刻みに震えていることに、タキリャは気づいて慌てた。
「私としたことが、少しきつく言い過ぎました。ユタさまがおかわいそうだったもので。お許しくださいませ」
「いいえ、違うのよ。そうじゃない。
……タキリャ、お願いがあるの。最近子を産んだ母親を探してきてほしいの。ユタに乳をあげられるような」
「それは……どういうことでしょう」
怪訝な顔を向け、今にもキヌアに何かを言おうとしたタキリャを制するように、キヌアは強い眼差しを向けて言った。
「お願い」
恐ろしいほど真剣なキヌアの表情に、タキリャは何も言葉を発することができず、困惑の顔をしたまま黙って頷いた。
キヌアはふたたび必死に乳を飲むわが子に目を落とし、それ以上は何も言わなかった。
第五章 完
第六章へと続きます。
中途半端な印象を持たれるかもしれませんが、第六章への序章としてこんな形で終わらせていただきました。
いよいよ、決戦へ。そしてクシの失脚を望むウリンの貴族たちの目論見は?
次章も盛り上げていきますので、よろしくお願いいたします。