8、 クスコの新皇帝 (その3)
その日、もうすぐ日の出を迎えようというときに、クスコの中央広場につがいのコンドルが降り立った。人の住む街中にコンドルが舞い降りてくるなど珍しい。
市民たちは、そのつがいがクスコの祖である夫婦の化身で、その日は神の祝福を受けて素晴らしい記念の日になるだろうということを噂した。
乾季の終わり、春のはじめの柔らかい太陽が顔を出し、クスコの街を静かに照らしていく。
もう夜明け前からクスコの市民が宮殿の周りや広場に繰り出し、ざわめいていた。クスコと同盟を組んだ部族も、この大国の王の誕生を見届けようとして各地から集まってきていた。
都に溢れんばかりの人々が、これから彼らの運命を左右するであろうその人の姿が現れるのを待ち望んでいた。
蟄居を解いて、クシは久しぶりに浴びる太陽に目を細めた。
長い断食のあとなので、クシが弱って歩けないといけないと数人の召し使いが素早く周りを取り囲むが、彼は断食をしていたとはとても思えないほどしっかりとした足取りで、身を清めるために、宮殿の一角に設えられている泉に向かった。
断食は俗世のものをすべて身体から抜くために行われる。そして最後に清い水を浴びてすべての穢れを落としきるのだ。
春まだ早いその時期は、宮殿の中にあるとはいえ、地下から湧き出す水を引いてきた泉は刺すように冷たい。
しかし服を脱いだクシは身震いもせずに泉に身を浸すと石の囲いの中の浅瀬に静かに腰を下ろした。
神殿に仕える太陽の巫女たちが石の隙間から流れ落ちる水を甕に掬い、クシの肩から静かに流す。水を流す巫女と交替に今度は金粉を入れた甕を手にした巫女がクシの傍に来て、肩にはらはらと輝く粉を落とす。
巫女たちが交互に清水と金粉をクシの身体にかけたあと、立ち上がったクシの身体に滴る水滴を、素早く寄ってきた侍従たちが拭き取った。
クシが泉から上がると、別の巫女たちが手際よく真新しい衣装を着せ付けた。
黒地に黄金を思わせる深い黄土色の模様が織り込まれた貫頭衣と、同じ色の腰布である。
次に宮殿の中でいちばん年長の貴族が、青銅の儀式用のナイフでクシの髪の毛を短く切り揃える。整えられた髪の上に、ふたたび寄ってきた巫女たちは、精緻な織りの施された頭帯をしっかりと巻きつけ真っ白な羽を両脇に挿した。
泉のある小さな中庭を出るとき、大神官が黄金の矛をクシに手渡した。
クシが、矛を手にして宮殿から広場に姿を現すと、集っていた大勢の民衆が一斉に歓声を上げた。しかし民衆にクシの姿が見えたのは一瞬のことで、すぐさま彼の周りに側近や皇族・貴族が大勢寄り集まった。そしてクシを取り囲むようにして歩き出した。
クシと貴族たちの行列は郊外の丘を目指す。
都を見下ろす丘の中でも特に足場が悪く急斜面を擁する丘、そう、成人の儀が行われる丘である。
これから皇帝になろうとする者が、一族を率いていく度量を備えているのかどうかを見極めるため、この丘で試練が課されるのである。
クシは数人の侍従とともに丘を上り、その頂上に立った。
従ってきた貴族たちは麓に残り、駆け下りてくるクシを迎える準備をする。しかしそれは彼を励まし讃えるためではなく、本気で彼に襲い掛かるためなのだ。
それぞれが投石ベルトや投げ槍や、斧や棍棒などの武器を手にして、クシが下りてくるのを待ち構えた。
やがてほら貝の低い音が辺りに響き渡り、クシが丘の頂上からまっすぐに駆け下ってきた。
少年たちの迎える成人の儀とは比較にならない。ひとり簡素な貫頭衣と、武器にもならない儀式用の黄金の矛を携えただけのクシに、中腹辺りで待機していた数人の武将が投石ベルトで石を放つ。狙いはクシひとり、どうやっても回避するのは難しい。
容赦なく降り注ぐ石の雨を、とりあえずは頭だけを腕でしっかりと防いで、無防備な身体に浴びながら、武将の前を通り過ぎる。
麓近くにやってくると、数人の貴族がクシに向かって槍を放ってきた。
柔軟な動きでその槍をかわし、勢いを留めずに走り抜けていくクシ。その姿を眺めるクスコの市民たちの心に、かつて神童と噂された少年の勇姿を初めて目にしたときの感動が蘇った。
あのときの軽やかな身のこなしはそのままに、今や立派な体躯を備える猛者となった彼は、まったく危なげなく、雄々しく美しく険しい斜面を駆けて行く。
麓では、クシの親族である皇族たち、クシの兄弟に当たる者たち、アマルやリョケ、そしてワイナをはじめとする近しい存在の貴族たちが、おのおの棍棒や斧を手に襲い掛かってきた。
親族や友人だからといって手加減はしない。馴れ合いは太陽神を裏切る行為だ。太陽神は一族を護る力のない者を息子とは認めない。神を欺いてそのような者を彼らの長としてしまえば、その災いは一族全てに降りかかることを誰もが知っていたからだ。
それを見極めるために太陽神の代理としてクシに試練を与えることが彼らの使命なのだ。
本気になって襲い掛かってくる親族たちの武器を、クシは素手や黄金の矛で受け止め、突き返す。こちらから攻撃することは赦されない、いや、そのような武器など持ってはいない。
ワラチコのときとは違い、クシひとりに集中する攻撃をすべて避けることはできない。流石にクシでも、無傷でそこを切り抜けることはできなかった。しかしどんなに身体が傷ついても駆ける速度はそのまま、いやむしろ加速度を付けてどんどん早くなる。
親族たちの攻撃を切り抜ければ、あとは麓まで下り切り、仮に設けられた祭壇に到着するだけだ。
クシはそのままの勢いで、祭壇へと辿り着いた。
息を呑んで見守っていた人々はホッと胸を撫で下ろした。
神の課した試練を切り抜けたクシは皇帝に即位する権利を与えられた。市民たちはいよいよ新しい皇帝の誕生を見届ける喜びに沸いた。
かつてのように、どこからともなく掛け声が響いてきた。そして周囲に伝播して大合唱となった。あの日と違うのは、その呼び声が『クシ皇子』では無いことだ。
「サパ・インカ・クシ! サパ・インカ・クシ!」
市民はクシのことを早くも『唯一の太陽』と呼んだ。
その歓声の渦の中をゆっくりと、クシは壇上に上がっていく。
最後の試練を乗り越えた若者は、いよいよ太陽神に認められ、クスコの唯一の太陽、太陽神の息子となるときを迎えた。
壇上では、ふたたび太陽の巫女たちが色鮮やかな衣装や装飾品を手にクシに寄ってきた。彼女たちの手によって、クシの素朴な貫頭衣の上に黄金の装飾が施されていく。首には黄金の襟飾り、胸には金の太陽神像を掲げ、両腕や両脚にやはり金の腕輪や脚絆が巻かれる。
そして彼女たちは一枚布の大判のマントを広げ、クシの肩に掛けた。
クシが断食をしている間、アクリャたちが寝ずに織り上げた真新しいそのマントにも、細く伸ばした金と銀を縒り合わせた糸で刺繍が施されており、美しい輝きを放っている。
すでに高く昇った太陽の光がクシの身体に降り注ぎ、彼が身に付けた装飾や衣装に反射して輝いた。
太陽の化身を象徴するように、クシの姿が光を放った。
着付けを終えたクシはふたたび祭壇を降り、また大勢の貴族や皇族に取り囲まれて、次の儀式の行われる『丘』へと向かった。
それはあの防御壁が立ち並ぶ『鷹の丘』である。高い防御壁を周囲に巡らした中央の空間は、歴代の王も即位式を行ったと言われている神聖な広場である。
そこからの儀礼は大神官と神官たちに拠って執り行われる。
クシが皇帝となったあとの世の吉凶を占うのだ。
大神官が祈りを捧げている間、何頭もの黒と白のリャマがその喉元を掻き切られて生贄として捧げられる。
神官たちはリャマの心臓を取り出すと、広場の真ん中で盛んに火柱を上げる焚き火の中に次々とくべていった。
クシはその炎の前に傅き、頭を垂れて、大神官の言葉を待った。
大神官は、長々と祈りの言葉を唱え終わると、やがて細くなってきた焚き火の中から、黒焦げになったリャマの心臓の残骸を取り出すように神官たちに命じた。
皿の上にその心臓を並べさせると、ひとつひとつ手にとって眺めた。何度もその動作を繰り返したあと、クシと、そこに集っている全ての貴族・皇族たちに向かって声を張り上げた。
「新しきサパ・インカの元で、この土地は最大の繁栄を迎えよう!」
そして神官のひとりが新しい冠を手に近づいた。
大神官はそれを受け取って、細くなる炎の前に未だ傅いているクシの頭に載せた。
黄金の鉢に七色の大きな羽が頭頂から耳の下にまで無数に縫いつけられた美しい冠だ。
本来ならばその冠には、霊鳥クリケンケの尾羽と、皇帝の印である朱の房飾り=マスカパイチャが下がっているはずだが、例のごとく、マスカパイチャは前皇帝ビラコチャとウルコとともに東の谷にある。
クシの戴いた冠は仮のものに過ぎなかったが、それでも普通の貴族が身に付けることのできない大変見事なものだ。
それはクシの精悍な顔を一層際立たせ、誰もが納得する皇帝の姿を創り上げた。
そして、冠を戴いたクシは、聖なる丘で一番形の良い藁を探して拾い、片手にその藁、片手に黄金の矛を持って、都の中央広場に戻った。
神聖な儀式を経て冠を戴いたクシが、中央広場の祭壇に姿を現すと、騒がしかった人々の声は一斉に溜め息に変わった。みな、その夢のような光景を喜びとともに眺めていた。
アマルをはじめとして、皇族・貴族たちが順々にクシの前に跪き、忠誠を誓っていった。東の谷からウルコを見限り戻ってきたウリンの貴族たちも、派閥を越えてクシに跪いた。
―― クスコにようやく真の皇帝が現れた。クシ・インカ・ユパンキ ――
まだ危うい状況にあるクスコだからこそ、人々は心の底から彼の誕生を待ち望んでいたのだ。
クシは都中を埋め尽くす民衆の方を向き、辺りを一周ぐるりと見回したあと、声を張り上げた。
「クスコの民よ。我は、クスコを脅かす敵を倒し、この都に必ずや平和と繁栄をもたらして見せよう。
その昔、我々の祖は、どの土地よりも豊かで住みやすいこの場所を、世界の中心=クスコと定められたのだ。世界の中心はこの都でなくてはならない。翻って、この都から大地はひとつの大きな世界へとつながっていくのだ。
太陽は世界をあまねく照らしている。クスコを中心として広がるその果てない世界、北、東、南、西。この広大な四つの大地をひとつに結び付け、争うことのない豊かな世界を築くことを、ここに約束する」
そう宣言するクシの声は、都を突きぬけ山々にこだまして響き渡った。
クシの言葉を聴き終えると、民衆はまたさらに騒ぎ始めた。泣き叫ぶものや、狂ったような叫び声を上げる者もいた。
ついこの間まで明日をもしれない運命と覚悟を決めていた彼らは、それを救ったひとりの皇子が、新たな君主となって自分たちの前に立っていることが夢のようであった。
やがて民衆は踊り、歌い、叫び、思い思いに自分たちの喜びを表現した。その騒ぎは、遥か彼方の雪山にまで響き渡るようだった。