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8、 クスコの新皇帝 (その2)




 クスコでは、敵側の動向には日々十分な注意が払われていたが、ひと月以上経ったあとも、敵は未だなりを潜めている。クスコ攻めで負った敵側の打撃は相当なものだったのだろう。事実、捕虜たちの話から覗える逃走していったチャンカ軍の様子からも、彼らが再生するには多くの時間が必要であると思われた。


 敵が復活する前にクスコの再建を急がねばならなかった。同時にチャンカ本国へ楔を打ち込む作戦を性急に打ち立てねばならない。

  

 街は市民たちによって活気を取り戻し、クシの元で貴族や有識者たちは連日宮殿に集い今後の都の行く末を話し合った。

 

 やがて彼らの努力により、クスコの街とその周辺の村々は、ようやく戦いの前の平常を取り戻した。

 郊外の農村の荒れ果てた畑もすべて整えられ、次の植え付けを待っている。丘にはリャマたちが悠々と草を食み、のどかな光景が広がる。

 街にはクスコの住人だけでなく、各地方からやってくる他民族も入り混じり、常に活気に溢れていた。



 街の復興作業がひと段落したとき、クシはキヌアとその子どもに会う機会を設けることができた。


 一皇子に過ぎない頃は、キヌアに逢うには宮殿の裏手から人目を偲んで行くことしかできなかったが、今やクスコの指導者であるクシが、戦いに勝利した日に生まれた『弟』に会いに行くことに疑問をもつ者はない。むしろ、勝利の証である赤子にクシが会いに行くのは誰もが当然のことと受け止めていた。


 久しぶりに見たキヌアは少しふっくらとしていた。そのせいか、とても柔和な顔に見える。とくに子どもを抱いて愛おしそうに見つめている姿はこのうえなく優しく美しい姿だった。


 チャンカが攻めてくる前、追い詰められた状況で別れを決意したとき、不安と疑念に満ちた目を向けていた彼女が、今は心から穏やかで幸せそうだ。


―― 何故、約束を守らずに、危険を冒してまで残ったのだ! ――


 キヌアに抱いていたクシの心配や怒りも、クスコを救ってくれたことに対する感謝の言葉も、彼女のその姿を目にした途端、どこかに吹き飛んでしまった。

 思わず微笑んで「無事でよかった」と短く声を掛けたが、それ以上の言葉は見つからず、彼女の幸せな姿を見つめていることしかできなかった。


 キヌアはその穏やかな笑顔をクシに向けると、子どもを抱いた腕をクシの方に差し出した。

 もうすぐふた月を迎える赤ん坊は、すでにしっかりとした顔立ちをしていた。小さくてもよく整った鼻や口元、ふっくらとした頬をして、大きな黒い瞳を輝かせてクシを見つめている。

 クシが思わず手を伸ばすと、キヌアはクシの腕に赤ん坊をそっと託した。

 自分のほうをじっと見つめる小さな顔を眺めるうち、クシは自然とその柔らかい頬に自分の頬を摺り寄せていた。


「この皇子さまは、ご兄弟の中でもとくにクシさまによく似ていらっしゃいますこと。目元や素直な黒髪などはそっくり。きっとクシさまのことをどのご兄弟よりも慕うようになりますよ」


 子どもが生まれてからキヌアの身の回りや赤ん坊の世話を任されている老女タキリャが、そう言って笑った。

 タキリャは古くから宮殿に仕えている侍女で、子どもにクスコ流の子育てと教育を行いたいと思っていたキヌアのたっての願いから、キヌア付きの侍女として召されたのだ。まだ生まれたばかりの赤ん坊には教えることはないが、初めて子育てをする、しかもケチュア族の子育てを知らないキヌアにひとつひとつ手ほどきをしていた。そしてかいがいしく子どもの世話をやいていた。


 宮殿に永く仕えるタキリャは、貴族たちよりも皇族の顔をよく識っている。そんな老婆の鋭い言葉に、キヌアはついどきりとした。

 しかしクシはタキリャの言葉を素直に受け止めて、ますます赤ん坊を離しがたくなったようだ。それからしばらく、黙って腕の中の『弟』を愛おしそうに見つめていた。

 自分のほうに伸びてきた小さな手をクシは指先でそっと掴み、また一段と優しく微笑みかける。そんな風にして時を忘れたかのようにクシは赤ん坊を抱き続けていた。


 血を分けた親子の絆は、例え自覚していなくても自然と引き合うものなのかもしれない。キヌアはふたりの姿を見てそう思った。


「クシ、姉上がこの子の名前を考えてくださったのよ。

『ユタ』……キリスカチェの言葉で勇者という意味よ。二歳の名付けの儀式を迎えたら、クシからその名を授けてくれないかしら」


「私が?」


 キヌアの突然の申し出にクシは驚いた顔を上げた。キヌアは穏やかに微笑んで頷いた。


「ええ。クシには名付け親としてずっとこの子の成長を見守ってほしいの」


 クシはまた赤ん坊に視線を戻し、小さな顔に語りかけるように言った。


「そうだな。そなたは私にとって特別な弟なのだからな。東の谷の父上の元に戻らずとも、私が親代わりとして成長を見守ってやるぞ」


 しばらくはおとなしくクシの腕に抱かれていた赤ん坊だが、徐々に飽きてきたのかぐずぐずとむずがり始めた。するとすかさずタキリャが近づいてきた。


「さあさ、もう眠くなられたのでしょう。お外の空気を吸ってお昼寝いたしましょう」


 そう言って奪い取るがごとくクシから赤子を引き取ると、さっさと外へと連れ出してしまった。


「タキリャは本当に良くやってくれるのだけれど。あの子のことは目に入れても痛くないほどのかわいがりようで……」


 キヌアはタキリャの過保護さに苦笑いをしながら老女の消えた戸口を見つめていた。

 クシは今こそようやく話したかった思いを打ち明けることができると、静かに彼女の背中に呼びかけた。


「キヌア、さっき弟に向かって言ったことは本当の気持ちだ。このまま父上が都に戻られなかったとしても、子どもとともに、このままクスコに居るがいい。不自由な思いはさせない。それに……」


 キヌアがクシを振り返って見つめた。


「暫定的にではあるが、私が皇帝の位に就くという話が進んでいる。チャンカとの戦いに勝利するまでは、かりそめに過ぎないが、戦いを終えれば正式に即位することになるだろう。

 正式に皇帝となるには正妃(コヤ)の存在が必要だ。私は貴女を正妃(コヤ)に迎えるつもりだ。そのときには弟もわが子同様に迎え入れよう。だからこの戦いが終わるまでクスコで待っていてほしいのだ」


 キヌアは驚いた顔でクシを見つめた。


 何度も諦めかけた『星空の下のふたりの誓い』が、現実のものになるのだ。こんなに早く叶っていいものだろうかと疑う気持ちと、あの日の誓いがようやく実現する喜びでキヌアの心は大きく揺れ、すぐには言葉が出ない。


 ひとときの逡巡のあと、キヌアはようやく短い返事をしぼり出した。


「…………ええ、もちろん」


 そのときキヌアの目は潤んで、クシの姿を歪んで映し出していた。





 とうとうクシの皇帝即位に付いて、神殿側から許可が出た。

 これまでは、皇帝は国を統べる王としての役目ばかりでなく、一切の神事、儀式を執り仕切る神聖な存在であった。しかし神聖なマスカパイチャを受け継ぎ、数々の儀式を経ない限り、神官たちはクシを神殿の代表として認めることができない。


 今のクシに求められているのは、国を治める権威とチャンカに立ち向かう軍を束ね率いていく力である。神事の部分だけは大神官が請け負う形での即位が赦されるのかどうか、数日を掛けて神官たちが占っていたのだ。

 占いに吉兆が現れたことで、神官たちはクシの即位に同意した。



 いよいよ本格的にクシの皇帝即位の準備が進められることとなった。


「即位式が済んだあと、行いたいことがあるのだが……」


 儀式の準備を進めながら、クシは大神官にあることを願い出た。


「それは……」


 クシの要求に大神官は苦い顔をした。


「例外であることは分かっている。しかし、不安定な情勢のなか、戦いに出る前にそのことは済ませておきたいのだ」


 クシの希望はケチュア族の慣習からすれば異例ではあるが、即位式には何ら影響はない。即位式さえ滞りなく済めばいいだろうと、大神官はクシの願いを聞き入れることにした。




 全ての手筈が整い、クシは即位式に向けて断食に入った。身体を中から清め、神の意思に近づき、『太陽神の息子』となるためだ。

 断食を行っている間は宮殿の一室に篭り、外部との接触を一切絶たねばならないクシの代わりに、ふたりの将軍たちによって臨戦態勢は保たれており、常に周囲への警戒は為されていた。また断食に入る前にクシが貴族たちに託した案に則って、チャンカ本国へ攻め込む計画もちゃくちゃくと進められていた。


 クスコに新皇帝が立つという噂を聞いて、参戦しようとする部族がまたさらに増えた。各部族の首領たちは、足しげくクスコに通い、クスコ軍とともに作戦に加わった。


 クスコの市民だけでなく、近隣の多くの部族にも新皇帝への期待は高まっていった。





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