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8、 クスコの新皇帝 (その1)




8、 クスコの新皇帝




―― クスコの戦いはひとりの若い皇子の巧みな作戦によって勝利した。

   窮地に陥ったとき、神の宿った大岩が敵をなぎ倒した。

   勇猛なキリスカチェ族が神に導かれて現れ、敵を打ち破った ――



 クスコ勝利の吉報はまたたく間にその周辺に存在する大小さまざまな部族へともたられ、拡まっていった。

 そのほとんどは、故国を離れて避難生活を送っていたが、彼らは避難していた先にその報せが届くとようやく安心を得て生まれ故郷へと戻ってきた。

 クスコ軍にとってはほとんど敗北を覚悟していたところのまったく奇跡的な勝利であったが、面白いことに人々の口を通して語られていくうちに、あたかもクスコという街とそれを護ろうとした皇子と兵士たちは、神によって加護を受け、当然のごとく勝利したのだという神話に出来上がってしまっていた。


 クスコの北の丘に立つ岩は神の宿った岩であり、伝説のとおりクスコの危機が迫るとそれらが巨大な戦士となって敵を掃討した。

 さらに他方からの侵入を試みた敵を、クスコの神に導かれた部族が駆けつけ一掃した。

 もはや何人もこの神の都を手に入れることは叶わない。誰もがそう信じた。



 もともとその周辺の民族集団の間でケチュア族はもっとも強大な一族であり、クスコは侵し難い地として知られてはいた。だからこそ皇帝が都を棄てたことは彼らに恐怖と不安を覚えさせたのだが、残された少数のクスコ兵が、未知の世界からやってきた凶暴な敵を打ち破ったことで、その地の民族たちはますますケチュア族に畏怖を抱くようになった。


 クスコ勝利の報せを受けて、故郷に戻ってきた周辺部族の長たちは、進んでケチュアと同盟を組もうとクスコの街へ押しかけた。

 西の地からやってきた『チャンカ』と呼ばれる凶悪な部族は壊滅したわけではない。

 さらにチャンカの襲来という事件は、未知の西には彼らの想像もつかない強大な敵が存在するという証明になったのだ。

 神に護られたクスコとケチュア族だけが、東の地一帯の土地とそこに暮らす諸部族を護る頼みの綱であった。




 皇帝とウルコが暮らす東の谷にクスコの勝利が伝えられたとき、避難していた貴族たちは驚きと後悔を覚えた。彼らの見捨てた兵士たちは、クスコに戻ってきたクシ皇子に率いられて見事にチャンカを撃破したのだ。

 ウルコ側にいるウリンの貴族の中にはその勢いでクスコ軍が東の谷を攻めるのではないかという疑心暗鬼に駆られる者もいた。一方、ハナンの貴族たちはクシと勝利した兵士たちを讃えようとわれ先にと都へ戻り始めた。

 そんなハナンの様子を見て、いまのうちにクシに味方しておいた方が得策だと考えるしたたかなウリンの貴族も出始める。

 いずれにしても貴族たちの大半が都へ戻る準備を始めたのだ。民衆も避難していた兵士の家族もぞくぞくと都へと戻り始めた。

 ウルコは危機感を募らせていた。彼にとっていまや恐れるものはチャンカではなく、国民の支持を一手に集めるクシであった。


「今度のことは、勇み足をしたチャンカの一部を追い払ったまでのこと。本当の脅威はこれからである。一部の兵が浅はかに抵抗したために、チャンカは相当な恨みを抱いて再びクスコを攻めるであろう。今度こそ都は破壊され、民は皆殺しになるのだ。目先の勝利に浮かれてはいけない」


 ウルコは近衛兵たちに、隠れ里から出ようとする者にそう警告するよう指示した。それを聞いて思いとどまったのは僅かだ。誰もが、クシとともにあれば都を護ることができるのだと信じてクスコに戻って行った。


 結局東の谷に残ったのは、ビラコチャ帝に忠実な近衛隊の兵士たちと、ウルコの側近である一部のウリンの貴族、そして温暖なその土地に魅力を感じ、この際そこに居を移そうと考えていた一部の農民たちのみだった。




 クスコは、同盟を組もうとやってくる近隣部族の代表たち、そして東の谷から次々と戻ってくるクスコの貴族と民衆たちで賑わった。

 あれほど閑散としていた都は以前と同じ、いやそれ以上の活気を取り戻しつつある。首都としての機能を停止していた街は、ひと月もすると元の姿に戻ってきていた。同時に、チャンカ戦で負った兵士たちの傷も皆快方に向かっていった。


 各地の首領たちの対応やもろもろの後処理は、比較的傷の浅かったリョケが引き受けていたが、クシの身体が回復すると、リョケはそれら一切をクシに引き継いだ。

 身体が回復した途端、クシは忙しくなった。

 例え短期間でも眠っていた街を目覚めさせるには多くの努力が必要だ。しかしクシには待ち望んでいた機会だ。ようやく自らの理想を実現するときがやってきたのだ。


 クシは都の復興に全力を注ぎ、同時にチャンカの本拠地に攻め込む作戦を立て始めた。



 連日、宮殿では要人が集い、チャンカ国進撃の作戦を練っていた。

 防衛戦のあと、リョケが捕虜の尋問を行って集めた情報によって、今まで得体の知れなかった敵の全貌が明らかになろうとしていた。


 クスコから見れば遥か北西の高原に端を発するチャンカ族は、もうかなり古い時代からそこに住んでいたようだが、最近になって突然武力を拡大し、その周辺の部族を脅かして吸収し始めた。はじめは少数に過ぎなかった辺境部族は、短期間のうちに一気に大部族へと変貌を遂げたのである。


 彼らは自分たちを『雷の一族』と呼んで雷神を崇高な存在として崇めていた。

 チャンカの傭兵になっていた他民族出身の者の話によれば、彼らの体格は他民族に比べて大柄で、攻め込んでくるときの様子は皆、肩を揺らして足を引き摺って走ってくるように見える。そのせいで西の地では、足を引き摺る人(チャンカ)という渾名でいつの間にか呼ばれるようになったらしい。

 印象的なその仕草は異質で目立つので、余計に西の住人の恐怖心を煽っただろう。今では恐怖の象徴であるその呼び名自体を敢えて使うチャンカ人もいるというのだ。


 チャンカの勢いはとどまることを知らず、次々と周辺部族を征服していき、やがて西の大地一帯に広大な国を築くに至った。

 帝国の様相を為すその部族の頂点に立つのは大首領アストゥワラカ。彼の配下に七人の首領が従えている。

 アストゥワラカは今回のクスコ戦には一切関わらず、未だ大規模な軍を率いて彼らの本拠地である大陣営に留まっている。クスコを攻めてきた軍は先駆けに過ぎなかったのだ。

 チャンカ全体が集まれば兵士の数はクスコ軍をはるかに凌ぐ。とても太刀打ちできる規模ではない。

 しかし防衛戦のときとは明らかに流れが変わってきていることに希望を抱いて、リョケは言った。


「クスコの兵士たちもほとんどが戻ってきた。そのうえ、これだけ多くの部族が味方についてくれたのだ。防衛戦のときの軍事力とは天と地ほどの差がある。今ならチャンカを倒せるだろう」


「確かに、この大連合軍とクシの知略をもって今の勢いで攻め込めば、チャンカを壊滅させることも叶わぬ夢ではない」


 慎重派のアマルさえも、今回は自信をもってそう言うことができた。


「しかし、これだけの規模の連合軍を率いるのに、皇帝が不在とは心もとない話だ。規模が大きくなればなるほど、絶対的な力を持つ指導者が必要となる。クスコの民ばかりではなく、他民族にも絶対的な権力を知らしめることができる者、それはクスコの皇帝、『唯一の太陽王』(サパ・インカ)に他ならない。

 チャンカ侵攻を成功させるためにも、今こそクシに皇帝として立ってもらいたい」


「それはわれらも常々思っておりました。クスコの市民ならば暗黙のうちにクシさまをクスコの長と認めているでしょうが、同盟を組んだ他部族の者たちは『クスコの皇帝』という存在に期待しているのです。ここで、クスコの頂点に立つものはクシさまであることを内外にはっきりと知らしめるべきです」


 ふたりの将軍が同時に頷く。しかしクシは簡単にそれを承諾しようとしなかった。


「そうは言うが、皇帝の証である王冠(マスカパイチャ)は、父上とウルコが東の谷に避難するさいに持っていったままだ。クスコでは代々マスカパイチャを戴いた者だけが皇帝と認められるのだ。マスカパイチャの戴冠を無くして皇帝の座を受け継ぐことは神が赦さないであろう」


 王冠(マスカパイチャ)とは、毛織の頭帯に霊鳥クリケンケの細く美しい尾羽をあしらい、額に朱色の房飾りのさがった皇帝の徴である。皇帝は公の場に出るときには必ずその王冠を戴くのだ。


「東の谷に要請を出しても、ウルコが王冠(マスカパイチャ)を渡そうとしないことは明らかだ。だからといって、それを奪還するために兵を挙げ味方同士で争うのは不毛なことだ。特にこの重要なときに、余計なことで兵を失ってはならない」


 慎重になるクシを何とか説得しようと、リョケは必死になった。


「正式な戴冠はチャンカを制してからでいい。

 まずは儀式を行い、クシが太陽神の子となることを誓うのだ。暫定であっても皇帝となることを赦していただけるかどうか、占いによって神に問うてみるのだ。

 太陽神とて、神と都を見捨てた父上とウルコよりも、都を護ろうと尽力するクシが後継に相応しいと判断されるに違いない。マスカパイチャが無くとも唯一の太陽王(サパ・インカ)を名乗ることを赦してくださるであろう」


 リョケが言うと、ワイナも、集う貴族たちも声を揃えた。


「皇子! どうか一刻も早く皇帝となって、我々の進むべき道を指し示していただきたい!」


 クシはそれでもまだ、首を縦に振らなかった。


「大神官の意見も伺おう。皇帝とは、神に通じ、祭事を司る役目も担うものなのだ。軍部の都合だけで決められることではない」 



 翌日、神殿でクシは大神官の意見を伺った。クシが懸念していたとおり、大神官はこの時期のクシの皇帝即位に難色を示した。


「神聖なる存在である皇帝の座は、民の都合で決めてよいものではありません。皇帝とは神と等しい存在なのです。ビラコチャ帝がご存命であるかぎり、陛下の手から王冠(マスカパイチャ)を受け取らねば後継したことにはなりません。せめて神聖なマスカパイチャがあれば、陛下の手から受け取ることができなくても、神のお赦しを請うことができましょうが……」


「やはりマスカパイチャを奪い返すしか方法はないのか。

 マスカパイチャを奪い返すために同じクスコの民を争わせてはならない。しかしチャンカに攻め込むためには皆が同じ方向を向いていなくては。どの民族もが納得する指導者はただひとつ、クスコの皇帝だ。

 何か良い方法は無いものだろうか」


 それを聞いてしばらく俯いて考えを巡らせていた神官だったが、はっと顔を上げ、声を少し潜ませるようにクシに告げた。


「皇帝は神官たちの頂点に立って、神の声を聞き神の意志に従う者です。それには即位式とは別に多くの儀式を経なければいけません。

 しかし暫定的に立つ方法がまったく無いとは言えません。ただし、そのようなことを神がお赦しになるかどうかはこの私にも分かりかねます。儀式を行って神のお心を占い、それに従うしかありませんが」







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