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7、 運命の子



7、運命の子




 ティッカとチャナンがキヌアの部屋に駆けつけると、侍女たちが入り口を衛って立ちはだかった。


「キヌアさまの姉君、キリスカチェのチャナンさまよ。下がって!」


 ティッカが言うと、侍女たちは俄かに視線を下に向け腰を低くして、そのままの格好で素早く部屋を出て行った。


 チャナンとティッカが部屋の中に入っていくと、寝台にぐったりと横たわって眠っているキヌアの姿を見つけた。ふたりが近づいて覗き込んでみると、彼女はまるで死んでいるのではないかと思うほど蒼い顔をしている。汗の跡に張り付いた髪の毛が顔に幾筋も掛かったままだった。

 彼女の眠る寝台とその周囲にはおびただしい黒い染みが点々と付いている。染みになって残る前のそれを拭き取ったであろう藁束のかけらが部屋中に散らばっていた。


 寝台の傍らに置かれた小さな籠の中に柔らかい藁が詰められ、その上に敷かれた毛織の布の上に、両の掌を広げれば乗ってしまうのではないかと思うほど小さな皺くちゃの赤ん坊が眠っていた。


 チャナンはその光景を見て、怒りでひどく顔を歪め、握った手をワナワナと震わせた。


(事情とは、こういうことだったのか!

 クスコの皇帝はこんな状態でキヌアを置き去りにしたというのか。ますます許せぬ!)


 怒りだすチャナンを、ティッカが慌ててとりなそうとした。そのときキヌアが目を覚まし、ふたりの方を向いてゆっくりと口を開いた。


(お姉さまがここにいらしたということは、戦いは勝利に終わったのね。良かった……)


 キヌアは安心したように微笑んだ。


(何も良くはない! ケチュア族の卑劣さがここまでとは思いもしなかった。

 キヌア、身体が元にもどったらすぐにキリスカチェに帰るのよ。そのあとで私がクスコに報復してやる!)


 怒り狂うチャナンにキヌアは語気を強める。


(勘違いしないで! お姉さま。私は置き去りにされたわけではないわ。私は自分の幸せのためにここに留まったのよ)


(どういうこと……)


 チャナンはまだ険しい表情のまま、ますます眉間に皺を寄せた。


(クシにお会いになったでしょう。クスコ軍を率いている皇子よ)


(……ああ、あの生意気な若造のこと!)


 チャナンはつまらなそうな顔になって小さく舌打ちをした。そんなチャナンの様子にキヌアは思わず苦笑いをした。


(お姉さまのその顔。何かクシに敵わないと思うようなことがあったのね)


 滅多にそのようなことはないが、チャナンが降参を認めたときそのような表情をすることをキヌアは知っていた。チャナンははき捨てるように言った。


(あいつはキヌアがクスコに居ることを理由に、我が軍を利用した卑怯者だ! だから報復してやった!)


 キヌアは驚いてティッカに目で訴えた。


(すみません、キヌアさま。チャナンさまの誤解を解く暇もなく……)


(クシは無事なの?)


(はん! あいつは不死身だ。もう少しでとどめを刺せるところだったのに!)


 そう言ってそっぽを向いたチャナンの代わりにティッカが遠慮がちに答えた。


(ご無事です。…………かなりの傷を負っておられますが)


 キヌアはふぅっと溜め息を吐き、視線を籠の中で眠る赤ん坊に移すと言った。


(お姉さま、この子はクシの子なの)


 チャナンはさっとキヌアを振り向き、片眉を上げて複雑な表情をした。驚きと怒りを押し殺したような低い声で呟く。


(何と……。どういうことなの)


 キヌアは、隣の籠に手を伸ばし、すやすやと眠る赤ん坊の顔をそっと指先で撫でると、優しい微笑みを浮かべて言った。


(私たちは愛し合っているわ。わけあって、この子は皇帝の子だと偽っているけれど、紛れもなく彼の子なの)


 チャナンは口を開き、何かを訴えるようにあぐあぐと動かした。しかし驚きのあまり声にならないようだ。キヌアは赤ん坊から手を離しチャナンに向き直ると、決意を語るように強く言い切った。


(私はこの子のためにも、クシとともにこの国を護りたいの)


 キヌアの顔はまだ青白くやつれているが、すべてを包み込むように穏やかで優しかった。しかし瞳だけは強い意思を表すように鋭く輝いていた。妹のそんな表情をこれまで見たことはない。チャナンはしばらく黙ったまま、難しい表情でキヌアをしげしげと眺めていた。

 穏やかな笑みを湛え続けるキヌアに、未だ信じられないという表情のままチャナンは呟くように言った。


(……本当にキヌアか? 私の知る妹とはまるで別人だ)


 チャナンの混乱ぶりを見て、キヌアは思わずくすっと笑った。


(そう思われるかもしれないわね。クスコに来なければ私は変わることはなかった。でも私にとってそれは素晴らしい変化だったわ。今はとても幸せよ)


 言われてもまだ、気が強くて奔放な妹のイメージを覆せないチャナンは戸惑っていた。さらに長いこと心配そうに妹の顔を眺めていた。しばらくそうやりながら考えを巡らせ、何とか自分を納得させたのだろうか、やがて長い溜め息をゆっくりと吐き出すと、静かに語り始めた。


(キヌア、実は、『天の女王』……母上は、婚礼のあとのクスコの混乱ぶりを聞いて、貴女をクスコにやったことをひどく悔いていらしたのよ。キリスカチェを護るために一心に戦士としての腕を磨いていた貴女を臆病なクスコの皇帝に嫁がせ、貴女の将来を台無しにしてしまったのだとご自分を責め続けていた。『自分を負かせるほど勇敢な男でなければ嫁ぐのは嫌だ』と言っていた貴女を一番情けない相手に渡してしまったのだと。

 そしてとうとうクスコの皇帝が都を棄てて逃げ出したという報せが入ったとき、母上は悔しさのあまり床に伏してしまわれた。

 でも貴女はクスコで不幸ではなかったのね。それどころか、一番ふさわしい相手に出会い、自分の生きる道を見つけていたとは。母上にこのことをお伝えしたら、きっと安心なさるわ。


 あの若い皇子は勇敢な心を持っている。私が誤解していることを分かっていながら、申し開きもせずに私の報復をひとりで受け続けていたのだ。立っているのもやっとという状態になりながらも、最後まで私に敬意を示し続けた。真の強さがなければ出来ないことだ。悔しいが私の完敗だ。

 あの勇敢さは時に無謀に見えるかもしれないが、あの皇子の勇気があればクスコは危機を乗り越えられる。貴女はあの皇子に付いて身も心もケチュア族として生きる決意をしたというのね)


 キヌアは微笑んだまま、ゆっくりと頷いた。 


(でもキヌア、クスコにとって試練は続く。この戦いでチャンカがクスコに入城するのを防ぐことはできたけれど、いずれは本拠地に攻め込んでチャンカを崩壊させなければ、何度でも襲ってくるわ)


 キヌアは真剣な顔に戻って頷いた。


(もちろん、覚悟はできているわ)


 キヌアの強い表情を見て、チャナンは決心した。

   

(貴女が命をかけてクスコを護りたいと願うなら、キリスカチェも全軍を上げてクスコに力を貸すわ)


 突然、籠の中の赤ん坊が火の点いたように泣き声を上げた。

 チャナンは慣れない手つきで赤ん坊を抱き上げて見つめた。赤ん坊は全身を真っ赤にして、手足を強張らせながら、さらに力強く泣き続ける。


(元気の良い子だこと。この子はケチュア族とキリスカチェ族のふたつの血を受け継いでいる。しかしクスコの民として育っていくのね。ならばせめて、キリスカチェの長から名前を贈ってあげたいわ。

 どのような試練にも負けないたくましい精神を持つ戦士となるように。ユタ〈勇者〉と)


 声をかぎりに泣き続ける赤ん坊をチャナンはキヌアの横にそっと寝かせた。すると今まで泣いていた赤ん坊がぴたりと泣き止んで潤んだ大きな黒目をキヌアに向けた。愛おしそうにその小さな頬を撫でながらキヌアは言った。


(ユタ。良い名ね。

 この国では二つになって命名の儀を受けるまでは名前を持つことはできないの。

 でも、そのときが来たらクシからその名を授けてもらうわ。キリスカチェの長から与えられた名を、ケチュアの長から授けられる。なんて幸運な子かしら)


 赤ん坊はいつのまにかスヤスヤと寝息を立てていた。わが子の寝顔を見つめながら、そのうちキヌアもうとうととまどろみ始めた。

 チャナンはキヌアの柔らかい寝顔をいつまでも傍で見守っていた。




 クシは神殿の中で、ほかのけが人とともに寝かされていた。

 意識を取り戻したとき、傍に心配そうに覗き込む兵士たちの姿があった。無理に体を起こすと胸に激痛が走り、クシは顔を歪めて思わず小さな呻き声を漏らした。


「キリスカチェの女首領の力は恐ろしいものだな。おそらく胸の骨が数本折れているのだろう。動かないほうがいいぞ」


 見守る兵士たちの後ろから、リョケが顔を覗かせて言った。


「兄上、怪我人たちは」


「心配するな。キリスカチェ軍も協力してくれたお陰で、すべて神殿と広場に連れてくることができた。今はみな手当てを受けている。それに相当な数のチャンカの捕虜が集まったのだ。これでチャンカの本拠地の様子を聞きだすことができるぞ」


(そこを退け!)


 背後から声がしてリョケが振り向くと、そこにチャナンが立っていた。リョケは驚いておかしな唸り声を上げると、慌ててそこから飛びのいた。

 兵士たちの間に割って入り、チャナンはクシを見下ろした。


(戦で怪我を負った身で、我が拳を無防備に受け続けるなど、正気の沙汰ではない。

 お前が抵抗しないのなら、キヌアを侮辱した報復としてお前を殺してもいいとさえ思っていた。しかしそれはキヌアを想う故だったのだな。

 キヌアの話を聞いて考えが変わった。キリスカチェは正式にクスコと同盟を結ぶ。ともにチャンカを倒そうではないか)


 そう言うとチャナンは、首から提げていた首飾りのひとつを外し、クシの胸の上に置いた。獣の牙でできた首飾りの端には獣の骨を削って作られた小さな神像が下がっている。キリスカチェの守護神であるピューマを模したものだ。言葉は通じないが、それを渡すことが同盟の証であることは誰にも分かる。


「キリスカチェが正式に手を結ぶというのか。こんな心強いことはないぞ」


 チャナンを恐れて飛びのいたリョケだが、その様子を覗いて嬉々とした声を上げた。

 憎悪の目を向けて自分を攻撃していたチャナンが何故急に気が変わったのかと、クシは訝しげな顔で見つめている。


(すまなかったな、皇子よ。しかしお前は勇敢な男だ。キヌアが心を奪われるのも分かる。われらキリスカチェは、お前のその勇気に賭けてみようと思う。頼んだぞ)


 そう言ったあと、チャナンは初めてクシに笑顔を見せた。その笑顔はキヌアにそっくりだ。それを見てクシはようやくチャナンを信用し、小さな神像を握って大きく頷いた。

 チャナンはクシに頷き返すと神殿を出ていった。そして素早くキリスカチェ軍を召集すると、国に帰っていった。

 





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