5、 プルラウカの奇跡 (その2)
北の丘では熾烈な戦いが繰り広げられていた。
混戦状態になっているため、麓からはどちらが優勢かは分からない。有能なふたりの将軍が指揮する精鋭部隊の実力を信じるしか、見守るクシには方法が無かった。
戦いが長引くうちに、クスコ軍の防衛線の隙をついて、都に侵入しようと丘を下りてくるチャンカの兵が現れ始めた。
丘の麓にも護りの兵士が置かれており、はじめのうちは彼らがその都度敵を追い払っていたのだが、徐々に防衛線をすり抜けて侵入しようとする敵の数が増えてきた。
戦場にいる将軍たちや彼らの軍の兵士たちは、他の敵に応戦することで手一杯であり、遁走した敵には気付かないようだ。都の中心にいるクシや東西を護っているアマルとワイナには、遠くからではあるが、戦場から外れて都に迫ってくる敵の姿が見えていた。
やがてその敵の数はどんどん増していき、護衛の兵士だけでは追い払うことが難しくなってきた。
クシは危険を感じた。
これまで北の丘から東西に回りこんでくる敵はいなかった。
奇襲に備えるとしても、今やチャンカ軍も苦戦している状態であるのに、その状況を無視して潜み続ける敵がいるとは考えにくい。
クシは、今は他方向からの襲撃に備えるよりも、北の丘を下ってくる敵を追い払うことが先決だと考えた。
そこで西のアマル、東のワイナに、北の丘に応援を向かわせるよう伝令を出した。
東西の軍から早急に応援が出された。兵の数が増し、堅固になった都の護りに、隊列も組まずに迷い込んでくる敵は歯が立たない。
丘の上の死闘、都の入り口で繰り返される攻防戦。形勢は徐々にクスコ側に傾きつつあった。
この際、クスコの三方を護っている軍を召集して将軍たちの援護に向かわせ、クスコ軍総出でチャンカにとどめを刺し、決着をつけるのが得策だろう。
クシは、アマルとワイナ、そして未だ軍を解散せず南を護り続けているリョケのところに、最低限の兵を残して北の丘に向かうようにと伝令を出した。
三方から、それぞれの軍の半数ほどの兵が一斉に北に向かったとき、東から大きな奇声が響いた。
はじめにチャンカ軍が攻め込んできたときに聞こえた合図に似ている。
獣の遠吠えのようなその声を皮切りに、突如東と西を流れる河の向こうに大勢のチャンカ軍が姿を現したのだ。
奇声を発したのは東の軍にいた若い指揮官。首領トゥマイワラカより、若い戦士を集めた部隊を任されたアンコワリョである。
トゥマイは思うところがあり、アンコワリョの部隊に予定よりも多くの戦士を組み入れていた。それにより本隊の勢力が劣ることになっても、アンコワリョの作戦に期待を掛けていたのだ。
アンコワリョは任された部隊をしかるべき箇所に分配し、機を狙っていた。
彼が予想したとおり、こちらに余力が無いと見たクスコ側は、戦いを早く終結させようとして北の戦場に余力部隊を送り込んだ。
アンコワリョが待っていたのはまさにその瞬間だったのだ。
再び奇声が上がり、東と西の両チャンカ軍は、河向こうから石を括りつけた太いロープを何本も放ってきた。先端に石の括りつけられたそのロープは、都側の河岸に並ぶ樹にしっかりと絡みついた。
そのロープを伝ってチャンカ兵たちは、速い河の流れをものともせずに渡ってくる。
クスコ兵たちが慌ててロープを切ろうとするが、なかなか頑丈なそれを石斧の刃では容易に傷つけることができず、もたついた。
そうしている間にチャンカ兵たちは河を渡って次々と上陸してきた。
すでにアマル軍もワイナ軍も、半数を北の丘に回してしまったあとで残る兵は僅かだった。
一方のチャンカ軍は、東西の兵を合わせれば北の丘のチャンカ軍に劣らないほどの規模だ。無勢のクスコ軍が抵抗しても、稼げる時間が多少延びるかどうかというほどの問題に過ぎないだろう。
クシが伝令を出す前に、この状況を見たリョケは残る自分の軍を二手に分けて、東と西に送り込んだ。河幅の比較的狭い東西に奇襲をかけてきた敵が、倍ほどの幅がある南の河をわざわざ渡ってくるとは考えにくい。
リョケの軍が加わることで、かろうじて敵がクスコの中心へと侵入するのを防ぐことができるだろう。しかしそれでも非常に苦しい戦いとなっていた。
援軍を得た北の軍は善戦し始めたものの、ほかのところに兵を戻せるほどの余裕は無い。
クスコの本当の悪夢はそのあとだった。
リョケが自分の軍を派遣したあとで、南の流れの対岸にも敵が姿を現したのである。
ふたつの流れが合流する南の河幅は広くロープを投げ渡すことはできないが、手薄になった南を攻めることに余裕を感じている敵は、浅瀬や岩を伝ってゆっくりと河を渡ってきた。
リョケが非常を報せるほら貝を吹き、クシは南の危機を知った。
「すべては計算の上だったのか。北部の軍はほかの三方の軍に気付かせないために、わざわざ目立つように行動していたのだ。そして我らが油断するのを待って奇襲をかけたのだ」
いくら北の軍が善戦してチャンカに打ち勝ったとしても、その頃には南からの侵入を赦して都は敵の手に渡っているだろう。
クシは己の予見の甘さを悔い、斧を握り締めて輿から飛び降りた。
大神官に神像を託し、輿を担いでいた兵たちを従えて、急いで南へ援軍に向かう。
リョケは側近ひとりと南の河岸を護っていた。捨て身で戦いに挑む覚悟を決めたとき、クシと兵士たち六名が到着したのだ。
「最期まで力を尽くすしか道は残されていない」
石の林で多くの敵を倒しても、格段に違う兵力の差はどうすることもできなかった。それでも圧倒的な敵に多少なりとも善戦したことは、ケチュア人の誇りとなるであろう。
覚悟を決めた表情で静かに告げるクシに、リョケは大きく頷いた。
敵が徐々に近づいてくる。その姿がはっきりとした位置に見えるようになったとき、河岸のクシたちは投石ひもで石を放って攻撃した。それによって何人かが流れに沈んだが、広い流れの中を不規則に大きく広がって進んでくる敵の集団を仕留めることは非常に困難だ。ましてや少人数で放つ石の数などたかが知れている。
やがて石の攻撃もものともせず突き進んできた敵が上陸した。
クシたちは手にする武器を斧に換え、応戦する。
チャンカの兵士は深い流れを渡るために軽いナイフしか身につけていなかったが、それでも斧を持つクシたちに劣らないほど巧みな攻撃を仕掛けてくる。
上陸してくる兵士がまだ少数のうちはその攻撃をかわして倒すことが出来たが、敵は後を絶たずにやってくる。
あっという間にクシたちはチャンカ兵の群れに囲まれていた。
その中でくるくると向きを変えながら取り囲む敵をなぎ倒していくクシだが、どう見ても不利な状況だ。
急所を狙ってくる攻撃を盾で防ぎ、仕掛けた相手を倒す。隙をついて都に入り込もうとする敵があれば素早く捕らえ、倒す。しかし、そのクシの隙を狙う敵が常に纏わりつき、脇に入り込んで順々に彼の体を斬りつけていくのだ。
リョケも他の兵士たちも、その姑息な攻撃によって体中に傷を負っていた。
必死に応戦していたクシたちにもそろそろ限界が来ようとしていた。あちこちに無数の傷を負った体の動きは、徐々に鈍くなっていく。
それでも次々と群がってくるチャンカ兵は、まるで弱った蝶に群がる蟻のようだ。
「最早これまでか」
クシが最期を悟ったとき、突然、正面の敵が唸り声を上げて倒れた。その周囲にいた敵も間髪を入れずばたばたと倒れる。
倒れたチャンカ兵の向こうには、毛皮を纏い、獣の剥製で出来た面を被った異形の戦士がずらりと並んでいた。
リョケや他のクスコ兵に群がっていたチャンカ兵も、『獣の戦士』たちに次々と倒されていく。
クスコ兵を囲んでいたチャンカ兵は、その『獣の戦士』たちによってひとり残らず倒されてしまった。
敵から解放されたクシたちは、河の中に同じく獣の姿をした戦士の集団を見た。水しぶきを上げ、重い石斧を手にしながらも、流れをものともせずに向かってくる。
彼らはまだ河の中にいるチャンカ兵を追いかける。身動きの取れない状況で背後から襲われたチャンカ兵は、為すすべもなく倒れていく。
謎の集団は、河を渡るチャンカ兵をことごとく捕らえ、倒していった。
逃げ惑うチャンカ兵の最後のひとりが、辺りに響き渡るようなけたたましい叫び声を上げた。その声に呼応するように、東と西からも叫び声が聞こえてきた。
叫び声を上げたチャンカ兵が力尽き、南のチャンカ軍は殲滅した。
そのままの勢いで『獣の戦士』たちは河を渡りきり、すでに岸にいた集団に合流すると、クシの目前にずらりと立ち並んだ。
誰もが獣の皮を纏い、頭には動物の頭部の剥製で出来た面をすっぽりと被っている。そのため、その奥の顔を窺い知ることはできないが、彼らがクスコの兵でないことだけは明らかだ。
そのうち、ひとりの戦士がクシの前に進み出てきた。
彼も他と同じく、体に斑模様の毛皮を纏い、頭には同じ斑模様の猛獣の剥製の面をすっぽりと被っていた。
鋭い獣の牙を繋げた何連もの首飾りを首から提げていること、そして醸し出される貫禄から、その人物が彼らの首領であろうことが分かる。
首領はクシに向かって深く頷いてみせたあと、彼の軍を素早く二つの部隊に編成し直した。
二つに分かれた部隊は速やかに東西に分かれて走っていき、アマルとワイナの軍に合流して戦い始めたのだ。
クシはその首領を伴って都の中心に戻ると、三方の戦いの行方を見守った。
謎の部族の登場によって、形勢は一気に逆転した。
すでに全ての兵を投入していたチャンカ軍は、突然現れた援軍の勢いに歯が立たない。見る見る間にチャンカ軍はクスコ軍と獣の戦士たちによって倒されていった。
トゥマイワラカは、さきほどの叫び声で南の軍が壊滅状態であることを知った。東と西も苦戦していることを、続いて響いた叫び声は意味していた。
北はすでに劣勢である。
もう後がないことを悟り、トゥマイは開戦のときと同じような雄たけびを上げた。しかしそれは最初のものより長く悲痛な叫びに聞こえた。
その声が広く響き渡ると、すべてのチャンカ軍は戦うのを止めて一斉に引き上げ始めた。一目散に逃げていく彼らをクスコ側はそれ以上深追いはしなかった。
いや正確には、クスコ側の被害も大きく、チャンカを追う余裕は無かったのだ。
多くの犠牲を出したが、それでも彼らがクスコの都を護り通したことに変わりはない。
クスコ軍は、突如現れた異民族の軍によって辛くも勝利をおさめ、都を守り抜くことができたのである。
絶体絶命の状況で、すでに死を間近に感じていたクスコ兵の誰もが、しばらくその勝利を信じることができなかった。