5、 プルラウカの奇跡 (その1)
5、プルラウカの奇跡
その三日間は永遠に続くのではないかと思われるほど長かった。
クスコの決意は決まっている。都を去りたいという者は誰もいない。兵士だけでなく、残されたキヌアの侍女たちもクスコに留まる決意を固め、宮殿の奥に身を潜めた。
クスコの者にとってそれは死を覚悟する時間にもなった。
クシの作戦に従って準備をし、訓練を積み、それらが実践でどのような結果をもたらすかは、神のみが知る。そしてもしも運命が彼らの思うような結果をもたらさなかったときには、潔く死を受け入れなくてはならないのだ。
貴族も兵士も三日の間、太陽神殿とその周辺に集い、次の『生』への復活をひたすら祈り続けた。
四日目の朝がやってきた。
まだ夜が明ける前に兵士たちは各々の持ち場に移動し、じっとその時を待っていた。
前日までチャンカの陣に動きは見られなかった。予想どおり敵は北部から一斉に攻めてくると考えられる。そうなれば北部の丘が前線であり、其処を護ることができるか否かが、雌雄を決するのだ。
重要なその場所の護りには兵の半数を投じ、アポ・マイタ、ビカラキオのふたりの将軍が彼らを率いる。
残った兵を三軍に分け、西の河岸にはアマルが、東の河岸にはワイナが、南部にはリョケが、北から回り込んでくる敵の駆逐と万一の奇襲に備えた。
総指揮を執るクシは、インギルが託した太陽神像を掲げて数名の兵士の担ぐ輿に乗り、大神官とともに中央の広場で待機した。都の中心、中央広場からは都の四方が見渡せ、特に輿に乗っていれば見通しがよくなり、四方の戦局がどのようになっているかが分かるのだ。
さらに万が一戦局が悪化したとしても、最後まで彼らの守護神、太陽神像を守り抜くことが総大将としてのクシの重要な役目であった。
東の山頂から太陽が顔を出し、都とその周囲を照らしていった。
もうすでに鷹の丘のすぐ手前まで迫ってきていたチャンカ軍は、遥か向こうにクスコの一軍が並んで待機しているのを目にした。抵抗の意志があるのは明らかだ。
それを確認すると、首領トゥマイワラカはにやりと嗤ってゆっくりと頷いた。そしてひと呼吸おいたのち、遥か彼方の高山にまでこだまするような雄たけびを上げた。
それを合図にチャンカの兵が一斉に奇声を発した。まるで天地がひっくり返るような、けたたましい叫び声だった。
その声に怖れを為して戦わずして従った部族も多い。それほどまでに聴く者を怯えさせる叫び声であるが、クスコの兵士たちに動揺する気配はまったく見られなかった。はじめに作った隊列を乱さずに敵を迎え撃とうと待ち構えていた。
叫び声とともにチャンカ軍は一斉に鷹の丘へと押しかけた。
大勢の兵士が一斉に丘を駆け下ってくるさまは、大瀑布のようだ。その勢いはすべてを飲み込んでしまいそうに激しい。大地が彼らの足音で大きく震えた。
しかしトゥマイワラカはその攻撃に加わらず、自軍の一部とともに待機して先陣の行方を見守った。
広がって一斉に丘を下ってきたチャンカ軍はやがて、左側の兵たちの進路を頑丈な石組みの要塞に阻まれた。行く手を阻まれた兵たちはすぐに進路を変え、なだらかな丘陵を駆け下りていく一軍と合流した。
狭い丘に大勢の兵がひしめき合って非常に窮屈そうだが、戦い慣れた彼らはその勢いを止めることなく、いやかえって勢いを増していく。
しかしその流れに突然、石の雨が降り出した。天から降ってきた石を脳天に受けて、チャンカ兵はばたばたと倒れだした。倒れた仲間に足を取られ、その後ろの兵も転ぶ。
滞ることなく滑り落ちてきた流れは突然かき乱され、動きを阻まれた。
石の雨はさらに激しく降り続ける。石が降るごとに数十人が一度に倒れ、先頭を切って向かってきた第一軍はほとんど壊滅状態になっていた。
まだ出撃せずにその様子を窺っていたトゥマイワラカとその軍は、左手の高く聳える要塞の上から投石ひもで石を放つクスコの兵たちに気付いた。
彼らによって天に向かって一斉に放たれた石は一度虚空に消え、やがて雨のようにチャンカ軍に降りかかるのだ。
「要塞の上の敵を倒せ!」
トゥマイワラカは自軍の一部隊に命じた。
命を受けた部隊はすぐに要塞のもとへ駆けつけ二手に分かれて攻撃を開始した。
ひとつは要塞の手前から槍を投げ、頭上の敵を直接攻撃する。その隙にもう片方が火を点けた固形燃料を、要塞の上に投げつけ、その足許にも火を放つ。
乾いた草地の上にあるその建物に火が回るのは早かった。クスコの投石部隊がいた要塞の一部分はあっという間に火に包まれた。石を放っていたクスコ兵たちは、激しく燃えあがる炎の中に消えてしまった。
石の雨が止むと、チャンカ軍はふたたび勢いを取り戻した。
石の雨に打たれ、折り重なるように倒れた第一軍の兵たちの屍を踏み越えて、また濁流のように丘を下り始めた。
しかし彼らの行く手がまた阻まれる。
例の規則正しく並べられた『石の林』が、目前に立ち塞がったのだ。クスコ側が望みを託した防御壁である。
すでにチャンカ軍は『石の林』のことを承知している。そこを切り抜けるための方法も考えてあった。彼らは巨石の間の非常に狭い空間を器用に蛇行しながら、それでも速度を落とさずに走り続けた。
チャンカ側の思ったとおり、巨石の陰からクスコの兵士が飛び出て攻撃を仕掛けてきた。
しかし常に左右に、ときに後ろに目を配りながら進むチャンカ兵には、クスコ兵の動きなどすぐに察知できる。走り抜けながら、反対に石の陰に潜む敵を先に見つけてつぎつぎと倒していった。
やがて、自分たちの不利を悟ったのだろうか石の陰に潜んでいたクスコ兵は自ら逃走し始めた。
石の林を盾にして多くの敵を仕留める役割であったのだろうが、皆怖れを為して彼らの指揮官のいる陣へと撤退していった。
チャンカは逃走する敵を面白がるように追いかけた。追いながら嬉々とした声を上げ、巨石の隙間から槍や石を放つ。巨石の壁など慣れてしまえば障害にもならなかった。
情勢はいまやチャンカ側に有利に働いている。チャンカの兵たちから盛んに叫び声が上がる。勝利を期待する雄叫びだ。彼らはそのまま一気に『石の林』を抜けてしまおうと、ますます勢いづいた。
先頭のチャンカ兵がもう少しで『石の林』を抜け出るかというとき、突然彼らの脇に聳え立っていた巨石が倒れてきた。先頭に並んでいた巨石が次々に横倒れになり、チャンカの兵たちを押し潰した。そして後続の軍の行く手を完全に塞いでしまった。
ときを同じくして後ろの方でも地響きが轟いた。遥か後方でチャンカ軍のどよめきが起こる。
その後、ズズンズズンと体が浮き上がるような地響きが続いた。
やがて前方に横たわる石に行く手を阻まれて立ち往生していたチャンカ軍に後方からも巨石が襲ってきた。
クスコ側が立てた『石の林』は、其処に入り込んだチャンカの軍隊を一網打尽にする作戦だった。
巨石はわざと不安定になるように掘られた地面の上に立てられていた。巨石を支えるのは小さな木の杭だ。木の杭に括りつけたロープを引けば杭が取り払われ、石が倒れる仕組みになっていた。
チャンカの兵をなるべく多くその石の林の中に招きいれ、先陣が其処を抜けるかと思われたころ、木の杭に括りつけられた紐を左右に潜んでいたクスコ兵が引いたのだ。
前列の石を横に倒して行く手を塞いだあと、もっとも後方の石が倒される。緩やかではあってもその場所は斜面であるため、後ろの石に押された石は次々と前の石を押し倒し、連鎖的にすべての石が倒れるようになっていたのだ。
前後を塞がれ身動きの取れないチャンカ軍にはもう為す術がなかった。石の林に入り込んでいたチャンカ軍のほとんどが、一瞬でその巨石群の下敷きとなって消えてしまったのだ。
それはまるで石となったクスコの守護神が蘇り、その巨体で敵を一気に仕留めたように見えた。クシが石に命を吹き込むと言ったのは、このことだったのである。
都の四方の護りに目を配らなければならず、持ち場を離れることができないクシは、丘の上で繰り広げられている戦闘の様子に目を凝らしていた。
そして巨石が見事に倒れ、大勢の敵を捕らえたことは、麓で見つめていたクシにもはっきりと分かった。『巨石の林』で敵の兵士の数を一気に減らすことができれば、兵力の差は少し縮まる。互角に戦える可能性が出てくるのだ。先ずはほっと胸を撫で下ろし、次の作戦の成功を神に願うのだった。
まだ出撃せずに無事だったチャンカの兵士たちは、先陣の惨敗を呆然と立ち竦んで見ているしかなかった。
クスコ軍とチャンカ軍、双方が見つめる倒れた巨石の山から、しばらくするとかろうじて生き延びたチャンカの兵士が、何人か這い出てきた。瀕死の大怪我を負い、息も絶え絶えにようやく這い出たが、そこで力尽きた者もいる。その中には先陣を切って出撃し、自軍のほとんどを失ってしまった首領の姿もあった。
彼らはよろよろと味方の陣の方へ引き返していった。
チャンカ軍は続けて攻め込める状況ではなかった。クスコ軍も攻撃せずに彼らの様子を窺っていた。
石の林から抜け出てきた首領は、同じく生き残った者たちを率いてトゥマイワラカ軍に合流した。
「トゥマイ、どうしたものか。第一軍は石の雨によって、第二軍、第三軍は巨石の下敷きになって壊滅状態だ」
トゥマイワラカはその首領に向かって怒鳴った。
「大首領の命令を無視した首領どもによって、軍は本来の倍以上の規模になっていたのだ。もともと我がトゥマイワラカ軍だけで都を攻め落とす予定であった。最初の計画に戻ったまでだ!」
いよいよ、後方で様子を窺っていたトゥマイワラカの軍が動き出すときがきた。
ふたたびトゥマイの雄たけびが上がり、チャンカ兵たちは鬨の声を上げた。
雪崩のごとく丘を駆け下り、倒れた巨石の上も鹿を思わせる動きで軽々と越えてくる。
ふたたび攻め込んできたチャンカ軍の姿を確かめて、ふたりの将軍に率いられたクスコ軍は後退を始めた。敵をいざなうように少しずつ都の手前まで下がると、チャンカの方を向き直った。
横一列に整列し、そこから一斉に石や槍を放った。
巨石の原を乗り越えたチャンカ軍は、クスコ軍の攻撃を巧みにかわし、遮るもののないなだらかな丘陵を一気に下っていった。
「皆の者! 敵の姑息な手口に翻弄されるな! ここから我らの本当の威力を見せ付けてやるのだ」
ふたつの軍が今にも衝突するかと思われたとき、突然チャンカ軍の前線にいた兵士たちが姿を消した。そのすぐあとの一軍も続いて消える。
彼らの消えた場所まで追いついたトゥマイワラカは、そこに掘られた深い溝を見た。
枝や枯れ草で覆われているので一見分からず、兵たちが落ちたあとが抜け、その部分だけ溝の姿が露わになっている。
クスコ軍はその溝にいくつか通された橋を渡って後退したのだろうが、枯れ草に覆われて橋が渡されていることさえわからない。
落ちた先陣の兵たちは、深い溝の底で必死に這い上がろうともがいている。中には溝の底に仕掛けられた鋭利に削られた杭に身体を射抜かれて絶命している者もあった。
前方からクスコ軍が激しく攻撃してくるために、彼らを救い出す余裕などなかった。
クスコ軍の投石の攻撃はますます激しくなり、トゥマイワラカはいったん軍を後ろに下げた。
形勢を立て直してふたたび前進してきたチャンカ兵たちは、溝の手前で二人組みになった。中腰になったひとりの膝にもうひとりが乗り、その膝を蹴って跳び上がる。踏み台になった方が膝を伸ばす力を使って相手を押し出すと、溝の幅を軽々と飛び越えられる跳躍力が生まれる。
そうやってチャンカ兵は次々と溝を渡ってきた。溝を跳び越える途中でクスコ軍の放った石を喰らい、墜落するものも続出した。それでもチャンカ軍は何としてでも都へ近づこうと躍起になっていた。
双方の命掛けの攻防が続き、とうとうチャンカは何重にも仕掛けられたクスコの防衛線を突破してクスコ軍の目前に立ったのだ。
クスコ軍とチャンカ軍が直接対峙するときがきた。
しかしあれほど大規模だったチャンカ軍はそのとき完全に崩壊しており、クスコ軍との兵力の差はほとんどなくなっていたのだ。