3、 クスコの守護神
3、クスコの守護神
クスコの北、鷹の丘に兵士たちが集められ、クシの指示に従って作業が行われていた。しかし、それは一見何とも意味のない作業であった。
数十人が、砦建設のために切り出され放置された大岩をロープと太い丸太の大きなてこを使って垂直に立て、その基底を丸太で支える。そこまではいいが、大岩を立て終わるとクシは作業者を退避させ支えの丸太に付けたロープを引かせるのだ。
支えの丸太が外れて斜面にかろうじて立っていた大岩が倒れ物凄い地響きを立てて転がった。大岩は斜面を二、三転して止まった。
さらにまたいくつかの大岩が立てられ、支えの位置やロープの張り方を微妙に変えながら似たような作業が繰り返される。
それはクシの考えた防衛線が機能するかどうかの実験だった。
何度か小さな実験を繰り返すとクシは雛形にしたがって大岩を配置させた。砦の途切れた斜面には大岩が互い違いになるように数列、規則正しく並べられた。まだ大岩は横たえたままだが、それでも巨石はどれも容易に乗り越えるのが難しいほどの高さがある。
「このままでも十分砦になりそうだな」
リョケは思った以上に防御壁の役目を果たしてくれそうな巨石群を見て安心したようだ。しかし、クシの方は慎重だった。
「敵は百戦錬磨の大規模な部族です。このような障害など物ともしないでしょう。これからこの大岩たちに命を吹き込みます」
「命を吹き込む?」
「此処はクスコの守護神ピューマの牙。獣神の命を蘇らせるための作戦です」
クスコの街の形をピューマの胴になぞらえると、鷹の丘の要塞はピューマの頭に位置する。そして巨石の防衛線を張っているその場所は、ピューマの口とみることができる。つまり等間隔に並べられた巨石群はクスコの獣神の牙となる。その牙が多くの敵を噛み砕く。クシはただ巨石を並べるだけでなく、その石に命を与えようというのだ。
配置された大岩をひとつ立て、はじめに実験したように基底に丸太の支えを置く。そして支えの丸太からロープを伸ばす。
ひとつの大岩を立てるのでさえ大変な作業だ。事故が起きて貴重な兵に何かあってはいけない。慎重に慎重に作業は進められ、やがて丘の斜面に巨石の林が姿を現した。
巨石を立てる作業と同時に都の手前に深い溝が掘られた。敵の侵入を防ぐ落とし穴だ。獣神が噛み砕くことのできなかった敵をここで飲み込む。この溝で大半の敵を食い止められるかどうかでケチュア族の存亡が決まるといっても過言ではない。
都の外れに置かれた監視は、まだ敵の姿を確認していない。
限られた数の兵を遠くまで視察に遣る余裕はなく、都の近郊に配置された数人の兵が周囲の様子を巡視していた。したがって彼らが敵を確認したときにはすでに目前に危機が迫っていることを意味する。監視が報告を持ってくるときは誰もが緊迫して耳を傾けた。
丘の防衛線の準備は整った。あとは兵士たちの配置と彼らの訓練だ。
少ない人数で応戦するにはひとりで何人もの敵を相手にしなくてはならず、ひとり欠ければ敵側の十人を失ったのに等しい。何としてでも生き残らなければならないのだ。それには真っ向から勝負するわけにはいかなかった。
防衛線に置かれた大岩が敵の勢いを抑える。そのうえクシの作戦がうまくいけば、そこでかなりの数の敵が脱落する。敵は一気に態勢を乱すだろう。クスコ軍は絶好の機会を見逃さずに攻撃を仕掛けなければならなかった。
さらに北の丘だけでなく、西、南、東からの侵入にも備えていなくてはならない。北の丘以外の三方を囲むように流れる河が大きな障害となる。
とくに南はふたつの河が合流し、その川幅も最大になる。
しかしおそらく困難な地形というだけで諦める敵ではないだろう。いや裏をかいて最も手薄な場所を攻めてくる可能性もある。クスコへ入る橋をすべて落としたとしても、敵にとって犠牲を覚悟で河を渡り、守りの薄い場所を攻めれば、払った犠牲以上のものを得ることができるのだ。
最大の防衛は北の丘、しかしそれ以外の場所も決して侮ることはできない。
将軍たちはくり返し演習を行って兵士たちを訓練し、実力を試し、その様子を見てクシと兄弟は何度も配置を見直した。
敵がクスコの街に侵入してしまえば敗北は決定的だ。何としてでも敵が街へ侵入することを防がなければならない。
何度も何度も検討を重ね、ようやく今の彼らに出来る最善の態勢が出来上がろうとしていた。
それまで伝え聞きの話でしかなかったチャンカが、とうとう現実のものとなってクスコの前に姿を現したのは、それから幾日も経たないうちだった。
「チャンカが郊外の山の中腹に陣を張り始めました。ぞくぞくと兵が集まってきています。おそらく近いうちに交渉役が都を訪れ、宣戦布告をするでしょう」
偵察隊はクスコの何倍もの人数を擁するチャンカ軍が、郊外の山の中腹に陣を張っていることを報告してきた。鷹の丘の向こう側だ。すでにクスコの地形は調査済みなのだろう。やはり北からの侵入を考えているのだ。
焦ることはない。砦も防衛線も、準備は整っている。何度も練り直した作戦もほぼ完成しており、あとは敵の出方を待つのみだ。
クスコ軍を率いる者たちの残る役目は、太陽の神殿に行ってひたすら祈りを捧げることだけだった。
敵がその姿を現し、いよいよクスコが最大の危機を迎えるというときになって、クシはキヌアの部屋を訪れた。
あの日以来、顔を合わせることのなかったふたりには気まずい空気が流れた。
キヌアの腹はだいぶせり上がり、立ち上がるのも難儀なようだ。クシは跪いて、座っているキヌアに目線を合わせて話し始めた。
「キヌア、キリスカチェに帰るのだ。今ならまだ安全に送っていくことができる」
キヌアはクシを睨んだ。
「私はもう用なしだと?」
「とうとう敵が姿を現した。我々はほかの部族の援護なしで戦わねばならない。兵も総出になる。ここを守ってやれる余裕がないのだ。
キリスカチェからは貴女を帰すようにと言われていたのだ。貴女が出産を迎えるまではと思って拒んでいたが、間に合いそうにない。どうか今のうちに故郷に帰って無事に子どもを生んでくれ」
「キリスカチェは援軍を断ったの?」
キヌアは顔をしかめた。
「ああ。皇帝が棄てた都を守る理由などないと。それは当然だ。
キリスカチェでは貴女は皇帝とともに避難していて、とりあえず貴女の身に危険はないと思っているだろう。だからまだ安全なうちに貴女を故郷に帰したい」
「私が帰らなければ?」
「ここには貴女を守れる者は誰もいない。貴女に万一のことがあれば、キリスカチェも黙っていないだろう」
「私はクスコにとっても、クシにとっても足手まといなのね」
クシは身体を乗り出すと、キヌアの肩を強く掴んでその顔を間近に見つめて言った。
「違う! そうではない。
キヌア、あのとき私はどうかしていた。お腹の子が皇帝の子であろうと、私が貴女を想う気持ちには変わりない。本当は何をおいても貴女を守ってやりたい。しかし今、それさえしてやれない自分がもどかしいのだ。
それに、この子は愛する貴女の血を引いた私の最後のきょうだいなのだ。どうか無事に生んでほしい」
僅かにクシの眼が潤んでいる。キヌアはそろそろと片手を伸ばすと、クシの頬を優しく撫でた。
「分かったわ。でも今は不自由な体とはいえ私も戦士なのよ。故郷に帰るだけで護衛を付けてもらうなど屈辱でしかないわ。折を見てティッカとふたりでクスコを出て行く。その時期は私が決めるわ」
「しかし、キヌア……」
「大丈夫よ。故郷までの道なら慣れた道ですもの。東の谷へ行くよりは安心だわ。途中で何かあれば、ティッカにキリスカチェまで報せてもらうから」
キヌアはクシを安心させるように穏やかに微笑んで頷いた。笑みの中に覗く真剣な眼差しから、これ以上クシが申し出てもキヌアがそれを受け付けはしないことが分かる。
「……そうか。でも暮々も気をつけて。必ず無事に帰り着いてほしい」
「ええ、ありがとう。あなたとは本当にこれでお別れね」
キヌアはもう片方の手も添えてクシの頬を包んだ。
クシはキヌアの肩を掴んでいた手を今度はキヌアの背中に回し、彼女の身体を抱き寄せた。そして目を閉じていとおしむように彼女の髪を撫で続けた。クシの腕の中で、キヌアも目を閉じ身動きせずにいた。
暫くののち、キヌアから身体を離したクシは、キヌアがくれたナイフを取り出すと、彼女の手に握らせた。
「これは私を守ってくれた。今度は貴女の命を守ってくれるように」
キヌアはナイフを持った手を胸に押し当て深く頷くと、「クシもどうか無事で……」と短く返した。
数日後、ティッカとともに人目をはばかるようにして街を出て行くキヌアの姿を、まだ夜が明けたばかりの街外れで、何人かが見かけたのだった。
そして、残されたキヌアの侍女たちは誰も、東の谷に行かずクスコと運命をともにすることを決意したと、後日侍女頭がクシに伝えた。