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2、 決心

2、決心



「クスコの祖となるのは、タンプトッコの岩山から生まれ出た四人の兄弟と四人の姉妹。彼らは肥沃な土地を求めて旅をし、やがて肥えた土地を見つけました。それがクスコです。兄弟の中でもっとも勇敢なマンコ・カパックは、姉妹のひとりママ・オクリョと結婚し、クスコの民が生まれました……」


 その夜、キヌアは宮殿のいちばん奥の自分の部屋で、いつもの如くティッカの昔語りを聞いていた。 

 教室は解散し、稽古をすることも止められているキヌアは、部屋に篭ることが多くなった。有り余った時間でわが子の故郷となるクスコのことを深く知ろうと思った。そこでクスコの伝説を詳しく聞かせてほしいとティッカにせがんだのだ。

 人気のなくなった宮殿で、しかも誰からも忘れ去られてしまったようなこの後宮の片隅ではなおさら、そうやって気を紛らわせていないと、得体の知れない恐怖で身も心も弱ってしまいそうだ。


 その日は朝早くから街の中心がひどく騒がしかった。今クスコに残っている者たちは日に日に狂気を帯びてきているように感じる。繰り返し聞こえてくる狂乱の声を聞きながら、キヌアは、やがて遣いが『残る者たちもこの都を放棄することを決めたので、すぐに出立の準備をしてください』と駆けこんでくるのではないかと一日中気が気ではなかった。しかし結局、そのような報せはなく無事に夜を迎えたことにほっと胸を撫で下ろしたところだった。

 穏やかで優しいティッカの語り口は、一日気を揉んで疲れ切ったキヌアの耳に心地よく響いてきた。

 毎日同じ話を繰り返し聞いていたキヌアは、今では自分でも部分部分そらで語れるほど詳しくなってしまった。


「姉妹の中でも、勇猛な……」


 キヌアが最も聞きたい部分を先走って言う。その話をしてほしいと要求しているのだ。


「キヌアさまは本当にその話がお好きですね」


 ティッカは笑って話し出した。


「姉妹の中でも勇猛な女戦士ママ・ワコは、この豊かな土地を奪おうとする敵と闘い、次々と勝利を収めました。ワコに恐れをなした近隣の部族は進んでケチュア族に従うことを約束し、クスコの領土は拡がっていきました。

 ワコはクスコの勝利の証、豊穣の証です。そしてクスコ軍を見守る軍神のような存在なのです」


 キヌアはクスコの伝説に残る女戦士ワコの話がお気に入りで、かならずその部分を聞きたがる。自分でも語れるほどすっかり覚えているのだが、ティッカの口から語られるその話を、飽きもせず心地良さそうに聞いている。


「キヌアさまはワコに似ていますね。ワコは勇猛な女戦士であり、やがて部族の長マンコ・カパックとの間にクスコの最初の将軍を生むのです」


 キヌアはだいぶ膨らみ始めたお腹に目を落として呟いた。


「私はワコのようにはなれないわ。皆がクスコを護ろうと必死になっているときに、私は戦うこともできないんですもの。このままずっと奥の間に篭っていることしかできないのかしら。ワコのようにこの都を命をかけて護ることはできないかしら」


「キヌアさまは、先ず丈夫な御子さまをお生みになるのが先ですよ。その御子さまが立派に育てば、将来この国を護ってくださるのですから」


「……そうなのだけれど」


 頷きながらも、どこか不満気な顔でキヌアは唇を噛み締めた。


 そのとき部屋の外で足音がした。ティッカが身構える。やがて何者かが入り口に姿を現した。たいまつの灯りで照らし出されたその姿を見て、キヌアは声を上げた。


「クシ!」


 キヌアは入り口に現れたクシに駆け寄り、抱きついた。


「心配をかけてすまなかった。逢いたかった」


 クシもキヌアを抱き締める。ウルコにそそのかされて離れ離れになってから、片時も忘れたことのなかったふたりは、お互いの存在を確かめるように頬を摺り合わせ、唇を重ねた。長いことお互いの温もりを確かめ合ったあと、クシはキヌアの瞳を覗きこんで訊いた。


「キヌア、兄たちから貴女がクスコに残った理由を聞いたのだ。

 子がいるのだな」


 キヌアは途端に表情を曇らせ、仕方ないというように軽く頷いた。


「その子は、私の子ではないか?」


 キヌアの答えを期待してクシの声がわずかに弾んだ。

 クシを見つめるキヌアの瞳は揺れていた。しばらく無言でクシを見つめていたキヌアは、やがてゆっくりとかぶりを振った。


「違うわ」


 その返事に期待の色を表していたクシの表情が一瞬沈んだ。しかしすぐに気を取り直して言った。


「……しかし、私の子である可能性がないわけではない。お願いだキヌア、たとえ違うと確信しているとしても、私の子だと言ってくれ。その子と貴女を守るために私は力を尽くす。貴女と子どものためなら、力はいくらでも湧いてくるように思うのだ。貴女がそう言ってくれたのならその子は私の子だ」


 しかしキヌアは頑なだった。すかさず首を振り、クシの言葉を拒絶した。


「あなたが去ってだいぶ経ってから分かったんですもの。この子は陛下の子に間違いないわ。

 陛下が都を去られるときに、この子が生まれたら東の谷の陛下の元に行くことを約束したの。あなたの気持ちは嬉しいけれど、それを都合よく利用することなどできない。ごめんなさい、クシ」


 キヌアがクスコに残ったのはクシに再び逢いたかったからだ。そして逢うことが叶ったら、自らの口からこのことを伝え、クシと決別する心積もりだったのだ。


 クシの表情が曇る。押さえようとしても大きな溜め息をつかずにはいられない。

 クシはゆっくりとキヌアから離れると彼女に背を向けた。キヌアの口からきっぱりと否定の言葉を聞いたことがクシには何よりもショックだったのだ。あれほど再会を願った恋人は、会えない間に自分の手の届かないところへと去ってしまったように思えた。


 クシの後ろではティッカが慌てて駆け寄りキヌアの体を支えた。クシの見ていないところでキヌアは今にも崩れそうになっていたからだ。背中を向けたまま、クシはキヌアに告げた。


「分かっている。貴女は父上の側室なのだから当然のことだ。期待した私が愚かなだけだ。しかしどうしても、貴女が待っていると言ってくれたあの誓いを裏切られたような気持ちになってしまう。

 このまま貴女の前にいたら、私はもっと愚かなことを言ってしまいそうだ。しばらく貴女の顔を見ることはできそうにない。いや、それ以前に陛下の子を宿したことで側后として確かな地位を得た貴女に気安く接することなどできない。子が生まれたら、速やかに父上の元に送り届けよう。戦の始まらぬうちに無事に出産できるように祈っている」


 そう言うと、クシは背を向けたままゆっくりと部屋を出て行った。

 残されたキヌアはティッカに支えられたまま泣き崩れた。ティッカは為すすべもなく、キヌアを支えながらもらい泣きをした。


「キヌアさま、これが本当に正しいことなのか、私には分かりません」


「正しいことなのよ。クシは私への情を捨て国を守ることに全力を注ぐわ」


 ティッカに体を預けたまま、キヌアは堪えていた感情を吐き出ように泣き続けた。



 キヌアの部屋を出たクシは放心したままいつの間にかキヌアとともに星を見上げた丘へと来ていた。

 薄靄の掛かる空に朧月がぼんやりと輝いていた。混乱している気持ちをどうにか落ち着けるため、クシは鈍い明かりの中にただじっと佇んでいた。




 次の日からクシはクスコの防衛策を考え始めた。キヌアのことを考えまいとして余計に必死になっていた。


 クシが力を注いでいた丘の上の要塞は、完成を待たずに放置されていた。技術者や労働者たちがほとんどクスコを去ってしまったために、作業を続けることができなくなってしまったからだ。肝心な丘の西側が手付かずになっている。切り出した大岩が辺りに乱雑に転がっている有様だ。


 僅かな兵で都を防衛するためにはますます要塞が重要な役割を果たす。しかし残る兵士たちだけで再び要塞を増築することはさらに困難なことだった。少ない労働力で出来る防衛策とは何か。


 (ワマン)の丘を歩き回ってその辺りの地形をつぶさに調べていたクシは、聖なる石といわれる大石の前まで来て立ち止まった。クスコの創生主の一人アヤル・カチが宿るといわれる大岩。そこで考えを巡らせていたクシはハッと何かを思いつき急いで宮殿へと戻っていった。


 宮殿に帰り着いてクシは、要塞の模型と同じように、石灰岩に新たな要害の形を彫って兄たちや将軍たちに見せた。要塞の途切れた丘の斜面を模した台に等間隔に無数の突起が突き出した不思議な形だ。そして斜面の麓には深い溝が彫られている。


「これはいったい何の形だ」


 アマルもリョケも、その不思議な形状が何を示しているのか見当がつかなかった。


「これは要塞を造るために切り出されて放置されている岩です。これを要塞の途切れた丘にこのように等間隔に立てるのです。

 敵にとってクスコを攻めるにはこの丘が恰好の場所です。このなだらかな丘からまとまって一気に攻め込まれたら、その勢いを止めることは不可能です。そこで、この岩が障壁となり敵の勢いを食い止める役割を果たします。そして一丸となって攻め込んできた敵の集団を分散させる働きをします。さらに都の手前に掘った溝に敵を落としこむ。ここで一気に敵の数を減らせば、我々は残った敵軍と互角に戦うことができるのです」


「しかし岩の間を器用に切り抜けられてしまったら、ほとんど効果がないぞ」


「もちろん。ただ立てるだけではありません。仕掛けを用意します。この岩を立てる方法はすべて私が指示します」



 防衛線を固める作業を進めると同時に、クシは遣いを八方に出して、近隣の部族に援護を求めた。

 クスコの近隣には、クスコよりも少数であるが多くの部族が存在する。反りの合わない部族もいるが、彼らにも危険が迫っているとなれば協力せざるを得ないだろう。

 彼らが援護してくれれば兵の数は倍以上になるのだ。


 しかし、その考えは甘かった。

 この辺りで一番大きな勢力であるクスコの皇帝が、都を棄てて逃げ出したことは周囲の部族に衝撃を与えていた。近隣の部族はすでにその噂を聞いていてすっかり怖気づき、ほとんどの部族が、いざとなれば自分たちも他へ移住することを考えていたのだ。クスコに協力する部族はいまのところ皆無だった。

 こればかりはクシも頭を悩ませた。いくら少数で立ち向かえる作戦を練っても、圧倒的に少ない兵の数が大変な不利となる。


 最後にキリスカチェに交渉に行っていた遣いが戻ってきた。


「申し上げます。キリスカチェは、皇帝が放棄した都を救う謂れはないと。早々に王女を国に帰すようにと要請してきました。ケチュアと縁を切るつもりです」


 クシは最後の希望も失い、途方に暮れた。


「キヌアから直接キリスカチェを説得してもらうのだ。王女の言葉ならキリスカチェも動くであろう」


 アマルが提案すると、クシは首を振った。


「今のキヌアにそのような負担はかけられない。それに、皇帝が子を宿したキヌアを置き去りにしたことが露見すればキリスカチェは激怒するだろう。報復に攻めてくることも考えられる……」


「我々は孤立無援だな……」


 リョケは頭を抱え込んだ。アマルも将軍たちも溜め息を吐くしかなかった。


「キリスカチェには、『王女は皇帝とともに安全な東の谷に避難している。状況が落ち着いたら国元に帰す』と伝えよ」


 クシはふたたび遣いの者に伝言を持たせると、そこに集う者すべてに向けて言った。


「援軍がいないのなら、クスコの兵だけで戦える工夫をするまでだ。少数でもひとりの兵士の力を十分活かせるような配備を考えればよい」


 クシは気持ちを切り替えて冷静にそう告げた。皆が動揺すればそれだけで敗北は見えている。軍の士気を高めていくことがクシの重要な役目になるのだ。


 ふたたびクシは新たな作戦を考え始めた。





注) 聖なる峰、また皇帝の避難した場所を、作品中で『都の東側』あるいは『東の谷』と表現していますが、これらのモデルとしている地域は実際にはクスコの北西に位置しています。

 しかし、クスコの東側を流れているビルカノタ川を北上していくイメージなので、その川沿いの地域を『東の地域』として括っています。




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