表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/91

7、 希望のともしび


7、希望のともしび




「キヌアさま、もう生徒は来ませんよ。キヌアさまもお支度をなさったほうがよろしいのでは?」


 キヌアの教室は閑散としていた。

 多くの者が戦わずして都を放棄しようとしているときに、武術を学ぼうなどという者はほとんどいない。

 しかしキヌアはいつものように中庭に出て斧を振るっていた。中庭にキヌアの姿を見つけて数人の指導者が顔を出したのだが、予想どおりの光景に指導者のひとりがキヌアにそう告げたのだった。


「教える者がいないなら、今日は貴方が私の相手をなさい」


 キヌアはその彼に向けて斧を突き出した。

 いつもどおりに過ごすことで少しでも冷静さを保とうとしているようだ。指導者はキヌアの健気な気持ちを汲んで「はい」と微笑むと、彼女に向き合った。


 ふたりはしばらく手合わせをしていたのだが、やがてキヌアの顔がだんだんと蒼ざめていき、額から異常なほど汗が噴き出しているのが分かった。


「キヌアさま、大丈夫ですか?」


 相手をしていた指導者は、キヌアの様子があまりにもおかしいので手を止めた。


「何でもない! 隙を見せたら負けよ!」


 キヌアは指導者に向かって思い切り斧を振り上げた。

 が、その瞬間、キヌアは振り上げた斧ごと後ろに倒れ込んでしまった。相手をしていた指導者も周りにいた者たちも、皆驚いて彼女に駆け寄った。

 倒れたキヌアに意識はなかった。



 キヌアがようやく目を覚ましたとき、彼女は自分の部屋の寝台に寝かされていた。心配そうに覗き込むティッカの顔がそこにあった。


「キヌアさま、ご気分はいかがですか?」


 キヌアは体を起こそうとしたが、自分の体がまるで岩になったように重く、身動きができなかった。


「キヌアさま、まだ無理はなさらないで、休んでいらしたほうがいいですよ」


 ティッカは子どもをなだめる母のように優しく言って、キヌアの胸元をとんとんと叩いた。


「私はどうしたのかしら」


「稽古中に意識を無くされたのです。さきほど薬師(くすし)にお体を診てもらいました」


「……そう」


 ティッカはキヌアの耳元に顔を寄せて小さな声で告げた。


「……薬師の見立てでは、キヌアさまは御子を身籠っていらっしゃるのだそうですよ」


 キヌアはしばらく沈黙したあと、天井を向いたまま「ええ」と答えた。


「ご自分で気付いていらしたんですね。何故今まで何もおっしゃらなかったのですか。それにどうして稽古を続けていらしたのですか?

 無理をなさると、御子のお命も、キヌアさまのお体も危険なのだそうですよ」


 ティッカは少し語気を強めてたしなめるように言った。ティッカに言われてキヌアははっとしたようだ。


「……とくに大事はないと思っていたのよ。これから気をつけるわ」


 キヌアは目を閉じて溜め息をつくと、お腹を守るようにそっと手を重ねた。そうしてみるとわずかに膨らんでいるのが分かる。

 ティッカはさらに小声でキヌアの耳元に囁いた。


「その御子はクシさまの子なのですね」


 キヌアは目を開けて天井を睨み、じっと黙っている。


「もちろん誰にも言いません。

 皇帝陛下が正気でなかったことは私とキヌアさまだけの秘密ですから。誰もがキヌアさまは陛下の御子を身籠っていらっしゃると思うでしょう。陛下ご自身も記憶が曖昧なのですから疑うことはなさらないでしょう。

 でも、クシさまにだけは本当のことをお話ししてもいいのでは? クシさまはきっとお喜びになりますよ」


「それはならないわ」


 キヌアは険しい顔でティッカを見た。


「公に認められない私たちの子どもでは、この子は皇族どころか異民族の私生児であってケチュアの民としても認められないのよ。

 クシが本当のことを知れば、彼のことだからきっとこの子のために無理にでもそれを覆そうとするでしょう。でも今までクシに信頼を置いていた者たちはそんな彼をどう思うかしら。快く思わない者が出てくるに違いない。

 クシは必ず戻ってきてこの都を救うために立ち上がるわ。クスコの希望はクシに託されている。でも窮地に立たされた今の都を救うのはたとえクシであっても容易なことではない。余計なことに意識を囚われては決して成し遂げられないわ。

 この子は紛れも無くクシの血を引いたケチュアの皇族よ。ならば誰もが認める皇族として育ててやりたいの。この国が混乱しているうちは陛下の子として生み、皇族として育てていくわ。

 この国に平和が戻りクシが皇位に就いたとき、彼には本当のことを話すわ」


「クシさまに誤解されてもいいのですか?」


「そうね。皇帝の子を宿している私が今までのようにクシに会うわけにはいかないわね。クシ自身も複雑な気持ちを抱くでしょう。

 でもその方が、彼は余計なことに気をとられずに国のことだけを考えられる。

 私はクシの子を授かっただけで幸せなの。クシと私の子ですもの。男であろうと女であろうと、きっと勇敢な心を持っているわ。将来立派な戦士になってクシの大きな力になるでしょう」


 そう言って微笑んだキヌアの顔が今までで一番美しく気高いと、ティッカは思った。


「クスコにいらしてからキヌアさまはどんどん変わられましたね。

 キリスカチェにいらした頃は、ときに冷酷さも感じられるほど強く自信に溢れた戦士だった。クシ皇子と出会って、キヌアさまが泣いたり沈んだり、幸せそうに微笑む姿を初めて見て私は驚きました。そして今は、御子さまを守るためには何も恐れない強さを持っていらっしゃる。

 そんな風に変わられてきたキヌアさまが私には眩しく、少し羨ましく思えます。

 私がクシ皇子に代わってキヌアさまと御子さまをお守りします」


 ティッカがキヌアの手を力強く握ると、キヌアは穏やかな笑みをティッカに向け、ゆっくりと頷いた。



 数日後、皇帝と皇太子に従ってクスコの民の大移動が始まった。


 結局、クスコに留まる者は、アマルとリョケ、ふたりの将軍と大神官、彼らに付き従う侍従と都を棄てることに同意しない数百人の兵士たち、そして出産のために奥の間に篭るキヌア、その世話をする数人の侍女とティッカのみとなってしまった。


 将軍や兵士の家族もみな都から避難することになっていた。

 貴族たちの移動に先立って、随分前から市民や郊外の農民もそれぞれ場所を見つけて移動していたので、もうクスコの周辺に残っている住人はほとんどいなかった。

クスコは廃村に囲まれた不気味な街になっていた。


 キヌアは皇帝の側近から、皇帝に従って都を出るように繰り返し説得されていたのだが、長旅をするには危険な状態だと薬師(くすし)に言わせて、ようやく彼らを説得したのだ。


 皇帝の輿を見送るキヌアの元に、皇帝の側近が何かを手に戻ってきた。


「キヌアさま、陛下がこれをキヌアさまにと。どうかご無事に御子を出産されて、一刻も早く陛下の元にいらっしゃいますようにとのお言伝(ことづて)でございます」


 側近の手には、皇族の男子が身につける黄金の耳飾りがあった。純度の高いその輝きからより皇帝に近い者に与えられるべき物であることが分かる。キヌアの生む子が男子ならば重要な地位を与えようという意味だ。

 同時にキヌアが子どもとともに皇帝の元に戻ってきたときには、正室に劣らない地位を与えられることにもなる。


 キヌアは皇帝がそれを託した真意を推し量った。

 皇帝はキヌアの前で狂態を晒す事に、一方の正気の中で罪悪感を感じていたのではないだろうか。

 また、ふたつの派閥が争っていることを憂いて、どちらにも属さない異民族のキヌアの子どもに最後の望みを託したのではないだろうか。


 はっと顔を上げ輿の上を見遣ると皇帝と視線が重なったが、通い合った視線を引きちぎるように輿は動き出した。


 キヌアは耳飾りを握りしめて、出発した皇帝の輿が小さくなっていくのをじっと見つめていた。





 ワイナは驚くべき速さで聖なる峰へと到着した。以前付けた目印はまだほとんどがそのままで残っていたので迷うことなく真っ直ぐに峰へと辿りつく事ができたのだ。

 聖なる峰の神々が一刻も早くクシに報せを届けよと導いてくれたかのようだ。


 到着したワイナからクスコでの大変動を聞いたクシは驚きを隠せない。


「まさかそのような状況に陥っているとは……」


 いくら(まつりごと)に無頓着なウルコであっても、よもやクスコの都を棄てて逃げ出すとは思いもよらなかった。あまりのことにクシは深い溜め息を吐かずにはいられなかった。


「クスコには今や軍もほとんど残っていない。皇子ひとりが戻ったとしても都を護ることは叶わないかもしれない。皇子も都を放棄して皇帝陛下の元へ身を寄せる決断をするなら、私が、まだ都に留まろうとする者たちを何とか説得して連れてこよう」


「ワイナ、何ということを言い出すのだ! お前まで怖気づいたのか」


 クシは逃げることを勧めるワイナを呆れた顔で見た。


「私はあらゆる手を尽くしてクスコを護るつもりだ。決して都を捨てることなどしない。ようやくクスコの都が私を必要とするときがやってきたのだ。もしも都とともに滅ぶことになっても本望だ」


「……そうだな。皇子にそんな愚問をするとは、私はどうかしていた」


 ワイナは険しい表情を緩めると、額をこつんと叩いて笑ってみせた。


「さあ、すぐに出発しよう」


 持ち物など何もない。常に身につけている護身用のキヌアのナイフくらいだ。クシはワイナを伴って聖なる峰を後にしようとした。


「坊、これを……」


 出発しようとするクシに、インギルが木彫りの小さな像を手渡した。聖なる峰の神殿に掲げてある黄金の神像を模したインギルの手彫りだ。


「ケチュアの民の守り神(ワカ)です。小さい物ですが、戦いのさいに掲げるには丁度良いでしょう。このワカが皇子とクスコを護ってくださるように、インギルは此処で祈り続けております」


「ありがとう、インギル。私が戻るまで此処のことを頼んだぞ」


 インギルはにっこりと頷くと、胸に手を当てて深々とお辞儀をした。


 クシは数ヶ月暮らした聖なる峰を後にした。

 新たな戦いに挑むクシを勇気付けるように、谷間に二重(ふたえ)の虹が美しく輝いていた。

 




第四部 完


第五部へと続きます。

物語はクライマックス、チャンカとの決戦へと向かいます。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

またお気に入り登録してくださった方、ありがとうございます。

引き続き楽しんでいただけたらと思います。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ