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6、 クスコ騒乱

6、クスコ騒乱






 クスコの街では、月日とともにいつの間にかクシの噂は消えていた。

 ハナンの者はすでにワイナからクシの無事を聞かされて冷静を取り戻しており、市民たちもクシがそのようなことで簡単に命を落とす筈はないと誰もが信じていたからだ。


 しかしクシはいつ戻ってくるのか全く見当もつかない。


 上に立つ貴族たちは何かにつけ民衆に負担を強いる。しかし揉め事や悪事をはたらいた者を厳しく罰することもなく、そのような行為が野放しになっている。都の規律は乱れる一方であり、拠り所のないクスコの民はこの国の行く末に不安を抱かずにはいられなかった。


 その不安をさらに煽るような出来事が起きた。

 ある日、体中に無残な傷を負った男がふらふらと街中に入り込んできて宮殿の前までやってくると、そこにばったりと倒れこんだ。

 番兵たちが駆け寄って見てみると、男の服にはクスコの貴族を示す紋様が織り込まれている。彼はワイナの後任で西の辺境の警護に赴いていた貴族だったのだ。

 任期を終えてもなかなかクスコに戻ってこないので、彼の家族は心配していたのだが、ウルコは捜索隊を出そうともせず、そのまま行方知れずになってしまっていた。


 男は宮殿で手当てを受け、何日かするとようやく体力が回復した。


 回復した男は大広間に呼ばれて皇帝とウルコに接見し、西での出来事を報告した。男の話を聞くうち、皇帝とウルコは……いやその場に立ち会っていた貴族たちすべてが恐ろしさで凍りついた。

 その話とは、こうだった。




 男が任務に当たっていた西の村が、ある夜突然、奇襲を受けたのだ。

 不気味な叫び声を上げながら、体中に刺青を施した異民族が村を襲い、容赦なく村人に手をかけた。女たちをさらい、健康な者は散々痛めつけられたうえ、とどめを刺さずに生け捕りにする。その他の者はすべて殺された。貧しい村から、それでも土器や農具、村人が崇める神体など奪えるだけの物を奪うと、建物に火を掛けて焼き尽くし、焼け残った泥レンガの壁に自分たちの紋様を刻んでその地を後にした。

 男は両腕と片足を深く傷つけられた状態で彼らに連れていかれた。うまく歩けずに倒れそうになると散々殴られた。捕虜がそれ以上歩けないと分かると彼らはその場で息の根を止める。男は不自由な体で痛みに耐えながら、必死になって歩いた。


 その異民族の陣は太陽の照りつける『北』に向かって数日歩き続けたところにあった。

 そこはかつて小さな農村だったのだろう。古い泥レンガの小屋がいくつか建ち並んでいた。その集落を取り巻くように無数の天幕が張られている。奪い取った土地に設けられた敵の仮陣だ。

 しかしその規模は極めて大きく、クスコの軍にも劣らない数の戦士がそこに集っていることが分かった。


 捕虜たちは泥レンガの小屋が密集する集落の中で最も大きい小屋に押し込まれた。

 小屋の中は、様々な国や村から連れてこられた『奴隷』たちがひしめき合っていた。ほとんど虫の息で横たわっている者もいる。奴隷が息を引き取ると、すぐに見張りが数人やってきて、その遺骸をどこかへ運び去っていった。


 まさに地獄の光景だった。

 そこに集められた者たちは『人』ではなく、この民族の崇める神への捧げ物なのだ。暗く狭く、異臭の立ち込める小屋の中で捧げ物になる日を待つだけだった。

 奴隷の仲間は毎日数人小屋から引き出されてどこかに連れられていく。彼らはその部族の本拠地の神殿に捧げられるために連れていかれるのだということを、一緒に捕らえられていた仲間が教えてくれた。


 ある日、数人の見張りがやってきて、男を彼らの『首領』のいる建物へと引っ張っていった。

 『首領』とおぼしき人物は『上座』から立ち上がって男の前につかつかと歩み寄ると、ぐっと顔を近づけてきた。顔中に彫られた青黒い刺青の中で鋭い眼光だけがぎらぎらと輝いている。

 『首領』は男の身につけている物をしげしげと眺め、それから男の顎を掴んで引き上げ彼の顔の隅々を見回した。しばらく男の顔を探ったのち、近くに(はべ)る者の方を向いて早口で何か語りかけると、また『上座』に戻ってドカッと腰を下ろした。


 『首領』の言葉を聞いた側近は、驚いたことにクスコの言葉で男に語りかけたのだ。


「トゥマイワラカさまは、お前の都の話を聞きたいとおっしゃっている。お前が都のことを語ってくれるのなら生贄として捧げることはせず、あの小屋から出して人らしい生活を送ることを赦してくださるそうだ」


 男は、この部族がクスコの情報を集めて侵略しようとしていることを察した。

 自分は間諜としての役割を課せられたのだと。クスコを守るためにはこのまま何も語らずに生贄になった方がましだと初めは思った。

 しかしどちらにしても、この部族はいずれクスコに攻め込むつもりなのだろう。それならば、事実と違うことを語って時間を稼ぎ、隙を見て逃げ出してクスコに急を知らせるほうがいい。


 男は『首領』の申し出を受け、それから毎日クスコの様子を語って聞かせた。しかし重要なことは隠し、ときに事実とは反対のことを教えた。


 やがてその魂胆は見抜かれた。最も魅力的な獲物であるクスコについて、彼らが何も調べていないということはなかったのだ。

 危険を感じた男は見張りの隙をぬって逃げ出した。時間を稼いだお蔭で体がほぼ回復していたのが幸いだったが、槍や投げ石の攻撃を受けてまたいくつも傷を負い、途中何度か捕まりそうになった。

 それでもなんとか敵をまくことに成功して故郷クスコにたどり着いたのだった。




「ざっと見積もっただけでも、戦士の数は我が軍と同等。しかしあそこが前衛の陣であると考えると、本拠地にはその数倍の軍がいると思われます。彼らは人身供儀に使う目的で人狩りをしているようです。奪われた土地は焼き尽くされて塩を蒔かれます。二度と作物が育たないように。豊かな土地を奪う目的よりも周りに勢力を知らしめ、恐怖を抱かせるためなのです。

 彼らがクスコを狙うのは、クスコがこの辺りで一番繁栄しており、クスコを征服すればこの一帯の部族は恐れをなして従うだろうと考えているからなのです」


 宮殿の広間には、皇帝とウルコのほかに将軍や神官をはじめ、大勢の要人が顔を揃えていた。アマルとリョケもその中にいた。

 老練の将軍アポ・マイタは、話を聞いてその部族について思い当たる節があったらしく、男に彼らの身なりや集落のあるらしい場所を詳しく質問した。その答えで将軍は部族の名を断定した。


「彼らは紛れも無くチャンカ族でしょうな」


 将軍の言葉に皇帝が深く頷いた。

 皇帝がまだ若い頃、西の辺境を越えて遠征したさいに、同じく西方から遠征して来た部族と衝突したことがあった。相手は少数であったが、なかなか手ごわい部族だった。手段を選ばぬその戦い方からその辺りでは非常に怖れられていたのだ。その土地では彼らを『チャンカ』と呼んでいた。


 チャンカは彼らの本拠地の近隣の村に神出鬼没で現れては住人を脅かし、金品を奪い、また彼らの国へ戻っていく、そんな盗賊の集まりのような集団に過ぎず、当時はクスコの大規模な軍隊に敵う相手ではなかったのだ。


 しかし、逃げ帰った男の話では様子がだいぶ変わっている。もう盗賊などと言えるものではなく、かなりの組織と勢力を誇る大部族のようだ。そして着実に領土を広げてクスコのある東方へと近づいてきているのだ。


 ウルコは男の話を聞いている間、ずっと落ち着かずに足を揺すっていた。小心者の皇太子にはあまりにも衝撃的な内容だったのだ。

 ハナンの貴族は、その『チャンカ族』こそがクシの言っていた西の脅威であると気付いた。

 畏れていた脅威がとうとう間近まで迫ってきたとき、今までウリンに対抗するために団結していたハナンの中に小さな亀裂が出来始めた。



 チャンカという部族の噂が、平和だったクスコの都を大きく揺るがせた。

 それから幾日もチャンカに対する話し合いが行われた。しかしチャンカを防ぐ手立てを考えられる者はいなかった。それよりもむしろ、話し合えば合うほど絶望的な意見を持つ者が増えていくのだ。


「皇帝陛下、もはや我々の手に負える相手ではありません。戦ったとしても降伏する時間を少し遅らせるだけに過ぎないでしょう。攻め込まれる前に使者を送って早々に降伏するべきです」


 誰かが声を上げると、大広間が一斉にざわついた。


「何を言い出すのだ! 敵がどのくらいの規模なのか、どれ程の力があるのか、まだ分からないではないか」


 ふたりの将軍をはじめとする軍の指揮官たちは弱腰になる貴族たちをたしなめた。


「しかし、短時間でひとつの村を滅ぼしてしまうのだ。侵出してきた先でかなりの数の部族を滅ぼしてきたに違いない。強大で残忍な部族であることは明らかではないか」


「降伏したからといって民の安全が約束されるわけではない。民や仲間が奴隷や生贄にされていくの黙って見ているしかないのだぞ。それならば例え全滅したとしても最後まで戦うほうが良いではないか」


 そのときだった。ウルコが突然席を立つと、席の前を行ったり来たりし始めた。

 側近がウルコを落ち着かせようとして彼の体に手を触れると、ウルコは思い切り彼を押し飛ばした。

 側近ははじきとばされて側に置いてあった金属製の食器を跳ね飛ばし、転がった。宮殿の石壁に金属のけたたましい音が響き渡った。

 その音は集う者たちの不安を余計煽り立てた。


「そのような部族を相手にどのように戦えばいいのだ……。命を粗末にしとうはない……。戦の準備をするよりも、此処を捨てて逃げることを考えたほうが利口だ……」


 ウルコは独り言のように同じことを何度も繰り返した。


「皇太子。本気でおっしゃっているのですか?」


 若い将軍ビカラキオが驚きの声を上げると、ウルコは真っ赤になって彼を怒鳴りつけた。


「そうだ! この都を明け渡して安全な場所に移るのじゃ。納得のいかない者はここに留まってチャンカ族の餌食になるがいい!」


 ウルコの目は血走って微笑みさえ浮かんでいた。その表情は常軌を逸しているように見えた。


「陛下も同じご意見なのですか?」


 ビカラキオ将軍の問いに皇帝は目を閉じて黙っている。


「ご高齢の父上に戦って命を落とせと申すのか! 父上もご一緒だ。皇帝は新天地で新しい都を築かれる。今すぐに遷都の準備を始めよ!」


 怯え切ったウルコはとうとうクスコを捨てる決意をした。

 皇太子の命令を受けてすぐに遷都の準備が始められることとなった。


 皇帝と皇太子が捨てようとしている都になおも留まろうという者など僅かだ。貴族も市民たちも、皆競って移動の準備を始めた。

 ハナンの貴族の中にも、皇太子に付いて都を出ると言い出す者が現れ始めたのだ。


「クシ皇子が戻れば、クスコを守ってくださる。もうしばらく待たれよ」


 説得する者に対して、


「いくら有能な皇子であっても、ろくに兵士も残っていない都を守れるものか」


 と言って旅立ちの支度を始める者がぞくぞくと出てきた。



 そんな中、ワイナは急いで東の峰にクシを呼びに向かった。







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