5、 理想郷
5、理想郷
聖なる峰で暮らすようになってどのくらいのときが経ったのだろうか。
山はいつも緑深く、湿った風はつねに暖かい湿気を孕み、季節の変化をあまり感じることはない。しかしクシがクスコを出た雨季の終わりよりは晴れた日が続くようになったように思えるのだが……。
ときの変化に囚われず、同じ日常は永遠に続くように感じられた。
その日、クシはいつものとおりに険しい峰の頂上にいた。
見晴台の大岩から眺める地形は変わる事はない筈だが、そのとき何故かそこから見る風景がクシの目には違って映っていた。
その日は朝から雲ひとつ無い晴天で、普段は霧に霞むことの多い山々の姿も、運が良ければその山々の間から僅かに望むことができる彼方の高山の雪をかぶった峰の頭も、何もかもがはっきりときれいに見渡せた。
太陽の光はどこにも等しく降り注いで、空の蒼、山の緑、雪山の白、それぞれの美しい色をくっきりと浮かび上がらせている。
クシはその光景を目にした途端、ここに来てから少しずつ頭の中で練り上げてきたある構想が、ひとつに結びついて形を成したことを感じた。
インギルが言うケチュア族本来の姿とはどのようなものか、すべての民が生活を脅かされることなく豊かに暮らせる国とはどのような国か……。
今まで思い描いた様々な構想が画を結び、クシの頭の中にひとつの国家を築き上げる壮大な計画が出来上がったのだ。
クシは大岩から飛び降り、険しい山道を一気に駆け下りていった。
「インギル!インギル!」
インギルは住まいにしている神殿の入口で酒造りをしていた。クシの興奮した声を聞いてインギルは手を止め、飛び起きるように顔を上げた。
「一体、どうなさったのです!」
尋常ではないクシの様子にインギルは慌てた。クシはインギルに駆け寄って両腕をきつく掴むと荒い息を吐きながら叫んだ。
「見えたのだ。私の理想とする国の形が。今、はっきりと」
「どういうことですか?」
インギルはクシの言おうとしていることがよく分からずに首を傾げた。
「来てくれ!」
クシは興奮しながらインギルを深い谷間を見下ろす崖のふちまで連れて行った。
険しい峰の頂上からクシが見ていた風景と同じものが目の前に拡がっている。その景色は此処で何年も暮らしてきたインギルの心さえも打った。
「なんと、今日は気持ちの良い日なのでしょう。こんなに清々しく晴れて遥か向こうの景色まで見渡せる日はそうそうありません。
ああなんと、神の山の白い峰までがはっきりと見える……」
インギルは地面に跪いて遠くに聳える雪の山の方角を向くと、両腕を広げて深呼吸し、次に身体を大きく曲げて地面にうつ伏した。神の山に最敬礼をしたのである。信心深いインギルらしい行動だった。
クシはインギルの祈りがひと通り終わるのを待って、話し始めた。
「インギル、大地は広くいろいろな土地があるものだな。
あの雪の頂にはどんな世界が広がっているのか、私には見当もつかない。
私は前に西の大平原に暮らしていたことがあるが、そこは作物を育てることができないひたすら乾いた土地だった。しかし広大な草原でたくさんのリャマを飼い、その毛を取って上質な織物にすることができた。
此処のように木々の多い場所では多くのリャマを放牧することはできないが、豊かな緑が溢れ、多くの獣たちが住み、食物に困ることはない。畑を作れば湿った空気と豊富な日の光で作物がよく育つ。
私は限りなく広い大地の実りをすべての民で分け合える国を創りたいのだ。知らない世界がひとつになってそこでしか手に入らないものをお互いに譲り合えば、民の生活はなんと豊かになることだろうか。
この森には食べ物や獲物が豊富にある。それを西の高原に暮らす人々にも分け、代わりに上質の糸を譲ってもらえば、お互いに豊かになれるのだ。
誰もが等しく豊かになれるそんな世界に暮らしてみたいと思わないか?」
「坊、なんという大胆な夢でしょう。インギルは此処の生活で十分満足ですが、そんな豊かさがあったら良いと望む者は、たくさんいるでしょう」
「いまこの大地に暮らす部族の多くが誰かの土地を奪うことで自分たちの暮らしを豊かにできると信じている。争いは絶えることを知らず、それによって人の数は減っていく。多くの敵を倒すことのできる強い戦士を志し、訓練を積んできた私が言うのもおかしいが、奪い合うことほど無益なものはないと思わないか」
「おっしゃるとおりですな」
「知らない世界に暮らす者同士が自分たちにない豊かさを奪い取るよりも、譲り合うことを憶えれば、お互いが豊かになれるのだ。こんな良いことはないでないか」
「しかし、古来から戦に勝利することはどの部族にとっても名誉なことです。なかなかそれを覆すのは難しいでしょうな」
「そうだ。皮肉なことだがその理想郷を創るには、自身が強大な武力を持って反対するものを制することもときに必要となるであろう。わが国を狙う部族と命掛けで戦うことも避けては通れないであろう。多くの犠牲をも覚悟しなくてはならないのだ。
ただいつかは必ず永久に繰り返す戦いの世を終わらせることができる。その先に豊かな生活が待っていることにやがて人々は気付いてくれるだろう」
「坊はその『与える王』になりたいとおっしゃるのですな」
「そうだ。
見よ、あの景色を。雪の頂も、緑の森も、あの先にある乾いた高原も、クスコの街も、照らしている太陽はひとつだ。大きな力を持つ太陽は、すべての者に等しく恩恵を与えることができるのだ。『太陽の子』と建前で称されるのではなく、本当に太陽のような力をもつ王になりたいのだ」
クシは目を輝かせて空を見上げた。そよ風に吹かれて山の頂に立つクシの姿は輝くばかりに美しく、インギルは思わずその足元に跪いていた。
「坊、何も畏れることはありません。今坊が気付かれたことは、すべてこの聖地の神々が与えてくださった知恵です。きっと坊を佳き方向に導いてくださいますぞ」
「インギル、私はクスコの街をたて直してのち、必ずここに戻ってくる。
あの朽ちかけた神殿を立派に建て直し、ここには私の別宮を建て、その周りに神官と巫女が暮らす街をつくり、いつも神に祈りを捧げることができるようにするのだ。太陽が常にクスコと世界を照らしてくれるようにと祈るために」
クシは尾根の周りを歩き回り、両手を広げて幻の街の配置を説明した。インギルにもクシの頭の中にある宮殿や街が見えたような気がした。
「坊、それまでわたくしがここを護ります。坊が『皇帝』となって戻ってこられるまで、必ず生きながらえて護り通しますぞ」
「頼むぞ。インギル」
谷間から吹き上がってきた風がクシの髪をかき上げ、空へと昇って行く。
「ここは本当に気持ちの良い風が吹く。ここに宮殿を建てたときには『風の宮殿』と名付けよう」
柔らかい風を全身に受けながら、空を仰いでクシはそう呟いた。