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4、 キヌアの教室


4、キヌアの教室



 カツ、カツ、カツン……。


 早朝の中庭に響く音でリョケは目を覚ました。空はまだ薄暗い。


「相変わらず、熱心だな……」


 ぼやいて再び寝付こうとしたがうまくいかず、結局起き上がってマントを羽織ると、中庭に行ってみることにした。

 朝もやの中に二人の人影が見えた。向かい合った人影は中庭の中心でゆっくり回るように歩きながら、、近づいたり離れたりしている。近づいたときにお互いの持つ石斧をかち合わせる乾いた音が、静かな宮殿に響いているのだ。

 リョケは中庭の隅に腰掛けてその二人の動きをぼんやり眺めていた。


「クシと、キリスカチェから来た側室か……」


 突然後ろから声がして、リョケは驚いて振り返った。兄のアマルが腕を組んで立って同じようにもやの中の人影を見つめていた。


 アマルはすでに独立して王宮の外に自分の館を構えている。将軍職にある有能なふたりの武将とともに、クスコの軍部を執り仕切る重要職に就いている兄は、このところやけに忙しいようだ。毎日のようにまだ夜の明けきらないうちから宮殿に出向いて軍部の会議に顔を出す。軍部とは違う役職にあるリョケには兄の仕事について余計な口出しすることはできないが、兄が早朝にここにいること自体、あまり穏やかな状況ではないということは察することができる。


「兄上。おはようございます。随分とお早いことで……。

 もう何日になりますか。ああやって毎朝稽古しているのですよ」


「クシも妙なことを考えたものだ。異部族の女に武術を教わろうとは……」


「女と言ってもキリスカチェの戦士ですからね。腕前は確かな筈です」


「しかしあの女はケチュアとの和平の証として皇帝陛下に嫁いできたのであって、武術の指導に来たのではない」


「そんなことはクシも彼女も百も承知ですよ。皇帝陛下の后であるのは事実なのですから、逃げ出そうとしない限り、彼女が何をしようと、とやかく言うことはできません。

 それどころか、クシのお蔭でかえって父上もほっとなさっているのではないですか? 何せあの女戦士を娶ったものの、どう扱ってよいのか分からず、未だに彼女に会おうともなさらないのですから。クシが彼女の相手をしてくれるのでキリスカチェの機嫌を損ねずに済んでいるのですよ。もちろん、クシは純粋に武術を教わりたいだけでしょうけど」


「なんという物言いだ、リョケ!」


「本当のことです」


 リョケは、すっかり老け込んでしまったかつては勇猛だった父王に苛立っているのだ。アマルにも同じような思いがないわけでもないが、あまりにもあからさまな事を言うリョケを睨みつけた。


「いくら自由が許されているとはいえ、皇子と側室が早朝に二人きりで会っているなど、ほかの貴族たちに知られたらどのような噂が立つか分かったものではない。クシにあまり派手なことをするなと申し伝えておけ、リョケ!」


 そう言い捨ててアマルはその場を後にした。リョケは顔を顰めて兄の後姿を見送った。

 アマルは冷静沈着で思慮深い。それを買われて今の重要職に就いているのだが、実は保身的で事を荒立てるのを好まないだけなのだ。あの兄にはウルコから王位継承権を奪おうという気概はなく、ウルコが皇帝の座に就いたあとも、何食わぬ顔で従順に仕えていそうだ。

 兄の姿が消えたあと、リョケは脇にペッと唾を吐き出した。



 クシは必死だった。


―― この戦士にはまだ敵わない ――


 向き合ってみると、ますます相手の強さを思い知り、今まで誰よりも強いと称されてきた自分が恥ずかしくなった。しかし同時にそれは喜びでもあったのだ。高い位置にいる彼女に追いつくという新たな目標ができたのだから。  

 必死になって斧を振り回すクシとは対照的に、キヌアは斧を持つ腕をダランと下げたまま、ただするするとクシの攻撃をかわす。そしてときどき自分の正面に来たクシの斧を自分の斧で軽く受け止める。しかし自分のほうからクシに攻撃をしかけることはしなかった。彼女が薄ら笑いを浮かべているようにさえ思えてくる。クシは余計に焦り苛立った。

 キヌアの視線が一瞬横に逸れた。その瞬間をクシは見逃さなかった。今までの苛立ちを全てぶつけるように、渾身の力をこめて斧を振り上げた。


 リョケの視線の先で、朝もやの中のひとりが「うっ」と声を上げて倒れこんだ。リョケは慌ててそちらに駆け寄った。クシが腕を押さえてうずくまっていた。


「なんと、クシが倒されるとは!」


「兄上、見ていらしたのか! 恥ずかしい」


 恥ずかしいというよりも、悔しいというのが強いのだろう。クシは唇を噛んで拳で地面を思い切り叩いた。

 キヌアは座り込んでいるクシを見下すような格好で立ち、彼の目前に斧を向けた。


「私の隙をついたと思ったのでしょうが、あなたの動きはすべて見えていましたよ。クシ皇子。

 焦れば焦るほど視野が狭くなるものです。戦いは力だけで勝てるものではない。全神経を研ぎ澄ませて自分の周りの空気を読み取ることが大切なのです。常に命がかかっていると思えば自然と感覚が鋭くなるものですよ」


「悔しいが、私には勉強することが山ほどあるようだ」


 クシはそのまま手足を投げ出して地面に転がった。


「少し休みましょう」


 キヌアも自分の斧を置こうとしたとき、


「キヌアどの、私と手合わせしてくれまいか」


 と言って、リョケがクシの斧を拾ってキヌアに向かって突き出した。


「ええ、どうぞ。手加減はしませんよ」


 キヌアはニッと笑って、またゆっくりと斧を構え直した。


 筋肉質のしなやかな体躯にぴったりと張り付くような服を着ている。キリスカチェ族が着る毛皮をクスコでしかも宮殿内で着ることは許されない。しかしクスコの女物の服といえば、裾も袖も長いものばかり。この稽古のためにわざわざ侍女に仕立てさせたのか、あるいは長い服の袖と裾を切って腰紐でぴったりと巻いたのだろうか。いずれにしてもその特別な服を着て、長い髪の毛をしっかりと纏め上げたキヌアは非常に好戦的に見えた。キリスカチェの伝統であり相手を威嚇する目的のある、眉間や頬や手足に刻まれた刺青が、余計に攻撃的に見せている。


「私はクシと違い、戦の覚えがある。こちらも容赦はしないぞ!」


 リョケはキヌアの迫力に気圧されないように凄んで見せた。クシよりも五つ年上のリョケは、確かに辺境の部族との小さな諍いに出征したことがあるのだが……。


 リョケは斧を担ぐように構えると、キヌアに突進していき、彼女の頭めがけて「やぁっ」と斧を振り下ろした。斧の刃先が額を掠めたかと思われた瞬間、キヌアは素早く身を引いた。

 全身の力を込めて斧を振り下ろしたため、リョケは勢いを止めることができず、躓いてよろけた。前のめりになったリョケの首筋にキヌアが肘てつを加える。リョケは目の前が真っ暗になりそのまま顔から倒れこんでしまった。

 すぐさまキヌアが倒れたリョケの両肩を掴んでグッと力を入れる。リョケはすぐに目を覚ました。


「兄上、なんと無様な!」


 泥だらけの兄の顔を見て、クシはお腹を抱えて笑い転げた。


「キリスカチェの戦士は聞いていた以上の腕前だ」


「腕前? 私の腕前をお見せする前に倒れておしまいに……」


「やあ、これは……そうであった。すまん!」


 リョケが頭を掻いて笑う姿を見て、キヌアも笑い出した。ひとしきり三人で笑い合うと、リョケがキヌアに切り出した。


「キヌアどの、貴女の指導をクシに独占させておくのはもったいない。ほかの貴族の子どもたちも指導していただけないか」


「私が? 私は子どもの相手などしたことがないので、できるかどうか」


「子どもと言っても、成人式を迎える直前の少年たちだ。ケチュアの未来の戦士を育てるために協力していただきたいのだ」


「兄上、その申し出はあまりにも大胆です。皇帝の側室である彼女に、公に武術の指導をしてほしいとは」


 クシが口を挟むと、リョケはクシを睨みつけた。


「大胆なのはお前の方だろう。いくら武術の練習とはいえ、側室と皇子が二人きりで会っていては、どのような噂を立てられるか分かったものではない。彼女が正式な指導者であれば、お前も堂々と習うことができるではないか」


「なんという下世話な勘ぐりだ。大人はそのようなことを疑うのか!」


 クシは横を向いて拗ねた。


「クシ、貴族たちがいまウルコを擁護する派と改革派に大きく分かれて反目し合っていることはお前も知っておろう。まだお前には理解できないのだろうが、われらを陥れようとする者たちはどんな些細なことも醜聞に仕立てようとするのだ。慎重に行動せねばならない」


 リョケはキヌアの方を向き直ると続けた。


「キリスカチェとケチュアが手を組んだのは、大国の脅威に備えるためだ。しかし貴女も気付かれたと思うが、われわれはしばらく大きな戦いを知らずに来たので若い世代は戦い方を知らぬ。今、大国に攻められればまともに戦える戦士はいないのだ。

 父王も皇太子もキリスカチェと手を組んだことで安心しているが、それは大きな間違いだ。貴女がここで戦士を育てればクスコに来た意味が大いにあるというものだ」


 それを聞いてキヌアは目を閉じ額に人差し指を立てて考え込んだ。しばらくの間そうしてから、ゆっくり顔を上げると言った。


「私にその大役が務まるか分かりませんが、お引き受けしましょう。しかしお二人にも私の侍女にも手伝ってもらわなければなりませんが」


「それはありがたい! キヌアどの、是非頼む」


 リョケはキヌアの肩を掴んで頭を下げた。キヌアは微笑んで頷くと、リョケとクシを見て言った。


「キヌアと呼んでもらって結構です」


しかしクシは難しい顔をして考え込んでいた。彼は兄の話の中にあった重要な部分を聞き流してはいなかったのだ。


「兄上、大国の脅威とは、もはや単なる危惧ではないというのですか」

 

「危惧に終わるかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれお前自身も現状を知る時が来るだろう」


 空が明るくなり、三人の姿を朝焼けが真っ赤に染めていく。やがて不穏な朱い太陽が静かにクスコの街全体を照らしていった。




 数日後、宮殿の中庭に貴族の少年たちが大勢集められ、キヌアの教室が始まった。

 面白いことに、婚礼の儀で蔑む様な目でキヌアを見ていた貴族たちも、クシを負かすことのできる女戦士から直々に自分の子どもを教えてもらえるとあって、競って子どもを参加させようとした。故にこの教室に反対する声など上がる隙はなかったのだ。

 すべてはリョケの巧みな触れ込みのお蔭だった。

 あまりの評判にキヌアだけでは到底手が足りず、侍女ティッカとクシとリョケもその対応に大わらわだ。

 派手なことをするなと伝えておいた筈なのに全く逆の状況になってアマルは頭を抱えたが、今更どうすることもできなかった。


「リョケ兄さまは、悪知恵にかけては天下一品なのだ」


 クシがキヌアに囁くと、キヌアは噴き出した。



「皇子、私にも手伝わせてもらえないか?」


 後ろから声をかけられて二人が振り向くと、成人の儀でクシと一緒に合格したワイナが立っていた。ワイナは成人の儀からそれほど経っていないというのに、見違えるような逞しい体つきになっていた。日に焼けた黒い肌がそう見せているのかもしれない。

 彼は儀式のあとすぐに、自ら願い出て辺境の視察団に付いて西の外れまで行っていたのだ。


「ワイナ、戻ったのか?」


 クシは喜んで親友に飛びついた。


「ああ、ちょうど昨日帰ってきたところなのだ。この面白いことに皇子も絡んでいると聞いてね。是非私も参加したいと思ったんだ」


「それは心強い!」


 クシがワイナを紹介すると、キヌアは


「ええ、よく存じ上げています」


 と言って笑った。それもそのはず、キヌアは成人の儀の様子をすべて見ていたのだから。クシとともに合格した赤い羽根の少年を知らない筈はない。しかしそんないきさつを知らないワイナは不思議な顔をした。


「勇敢な青年ワイナの噂は、キリスカチェまで届いていたそうだよ」


 冗談めかしてそう言うと、クシはキヌアの方を見て肩をすくめて見せた。



 クスコの宮殿に活気が戻ってきたのは何年ぶりだろうか。戦いを忘れ、意味も分からずに形式だけの稽古をしていた少年たちは、部族を身をもって守ろうとしてきた戦士キヌアの気迫に触れ、意欲が湧いたらしい。今まで嫌々訓練を受けていた少年たちの目が皆輝いていた。

 そんな少年たちを見て、クシやリョケやワイナも身の引き締まる思いがした。自然と指導にも熱が入る。

 中庭に元気な子どもたちの掛け声がこだまする。自分の子どもを見守る親たちだけでなく、子どものいない貴族や貴婦人たちもその様子を興味深々に見に集まってきた。

 キヌアを侮蔑していた貴婦人たちも、自分たちとは違う特技を持つキヌアに対して見る眼が変わったようだ。逆に憧れるような眼差しで彼女を見つめていた。


 毎日賑わう中庭の様子を見ていて、面白くないのはウルコだ。ただでさえ、クシの成人式から『ウルコさまの式のときとは大違いだ』と噂する声を耳にして苛立っていたのだ。

皇帝には「側室が勝手なことを始めたのですが、あのまま放っておいて良いのですか」と告げたが、関わるのが面倒な父王は「皆が必要だと思うのなら、それでいいのではないか」と全く煮え切らない。

 ウルコの視線は常に、キヌアの教室でも中心的な存在であるクシに注がれていた。


「あいつがすべての元凶だ。この平和なクスコに余計な揉め事を持ち込む。いつか思い知らせてやらねば」


 キヌアの教室が開かれてから特に、ウルコのクシに対する恨みが募っていった。今やクシを陥れる計画を練ることで彼の頭の中はいっぱいだった。



 ウルコの気持ちを他所に、キヌアの教室は連日大賑わいだ。

 生徒たちの一番の楽しみは稽古のあとに行われるクシとキヌアの合わせ稽古だった。少年たちの指導が終わると、クシの指導を兼ねてキヌアとクシが合わせ稽古をするのが日課になっていた。生徒たちはその試合の観戦を心待ちにしているのだ。小さな観客たちに囲まれて対戦するふたりは緊張を隠せない。少年たちは皆、憧れのクシに勝ってほしいと応援する。

 しかし何度対戦しても、クシが一方的に攻撃をしかけ、キヌアがそれをかわして最後に一撃を加えるという態勢は変わらなかった。大勢の小さな観客がいる手前、クシに恥をかかせまいとしてキヌアが負けてみせることもあった。少年たちはクシが勝つと大歓声を送ったが、クシにとってこれほど屈辱なことはなかった。しかし、屈辱感を味わう度にクシの腕は少しずつ確実に上がっているのだった。

 いつかキヌアに追いつき追い抜こうと、クシはひたすら練習に励むのだった。











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