3、 キヌアの祈り
3、キヌアの祈り
クスコの都ではしばらく、クシが都を出奔したことに気付くものはなかった。
砦の工事は技術者たちの指導によって滞ることなく行われ、彼らの総監督をアマルが引き受けており、キヌアの教室に手を貸したり、ハナンの貴族たちを取り纏める役目はリョケが請け負っていたため、クシの不在にとくに不都合を感じるものはいなかったのだ。
砦の労働者やハナンの貴族たちは、クシがまた新たに何かを計画して奔走しているのだという程度にしか捉えていなかった。
しかしさすがに長いことクシの姿が見えないとなると、どうしたのかと不審に思う者が出てくる。
そんなある日、ハナンの貴族のひとりがアマルのところへやってきておどおどとした様子で訊いた。
「アマルさま、クシさまはどちらにいらっしゃるのでしょうか……」
「クシに何か用か?」
「いえ……。クシさまについておかしな噂を聞いたのです」
「何だ?」
「宮殿の遣いで東の谷に出かけた兵がクシさまをお見かけしたと……」
「……ああ、実はいま、クシは所用で東の谷のリマック公の館に行っておるのだ」
「それが……。リマック公の館に向かう渓谷でクシさまが山賊に襲われ亡くなられたというのです。兵士たちも巻き込まれて命からがら逃げ延びましたが、クシさまをお助けすることは叶わなかったと。兵士たちは皇子さまを見捨てた罪で投獄されているそうです」
クシが東の谷に向かったのを知るのはアマルとリョケふたりだけのはずだ。クシの行方を知るはずのない兵士が出会ったというのであれば、出まかせとは考えにくい。
アマルは急に眩暈を覚えてよろめいた。
貴族が慌ててその身体を支える。
「……滅多なことを言うものではない。兵士の勘違いとも考えられる。リマック公の館に遣いを出せばはっきりするだろう。それまでほかの貴族たちにもおかしな噂を信じるのではないと伝えておけ」
弱々しく答えるアマルに不安を感じながらも、貴族は「はい」と頷いた。
しかしリマック公に遣いをやったアマルに追い討ちをかけるような報せが届いたのは、その後幾日も経たないうちだった。クシはリマック公の館には一度も顔を出していないという報せである。
所詮真偽などは問わない人の噂を留めておくことは難しい。いくら信じるなといわれてもいつの間にかほとんどの貴族がクシの噂を知っていた。
クシの最期を見届けた者もいないが、その無事を確かめた者もいないのだ。そうなれば自然と悪いほうを信じるのが人の常である。
やがて貴族たちの間にクシの生存を絶望視する声が聞こえ始めた。
改革を訴えていたハナンの貴族たちは、クスコの改変というクシの夢を支持し、その壮大な目標を実現するために、ウリンや皇太子の所業に目を瞑って我慢してきたのだ。その精神的支柱がいなくなってしまえば、彼らは何処を目指せばいいのだろうか。何時まで耐えなくてはならないのか。
大きな希望を失い、その不安と苛立ちはふたたび皇太子とウリンの取り巻きたちを打倒することに向かおうとしていた。
「もう無理です。クシ皇子のお知恵が無いのであれば、われわれは力づくで皇太子を失脚させる方法しか知らない!」
「そうだ。クシ皇子のお心の中に解決策があると信ずればこそ、われわれは我慢してきたのだ。しかしその希望を失ったいま、もはや決起するしかない!」
再び革命の方向へとハナンの貴族たちの意見は傾き始めていた。
しかしアマルやリョケが難色を示すことは知れている。そこで今度は拠点を郊外の館に移し、アマルやリョケの知らないところで革命の準備が進められようとしていた。
貴族たちの動きを薄々感じ取っていたアマルとリョケも、彼らの動きを止める手立てを知らなかった。
キヌアがクシの話を聞いたのは、ウルコの口からだった。
クシを追い出すことに成功したウルコは、次の新月の晩、性懲りもせずキヌアの部屋に侵入しようとしたのだ。
突然入り口の掛け布を押し上げて入ってきたウルコに、ティッカはキヌアを庇うように素早く立ちはだかり斧の先を向けた。
しかしキヌアは後ろから手を伸ばしてその斧を押さえつけ、ティッカの身体を自分の脇に引き寄せて言った。
「ティッカは皇太子に斧を向けてはならないわ。貴女が罰を受けておしまいよ。
でも私がやれば、自分の部屋に忍び込んだ不審者を撃退したことは正当だといえるわ。さらにみだりに後宮に入り込んだ皇太子の罪も暴かれることでしょう」
キヌアはティッカの手から斧を取り上げると、ウルコに向かって突き出した。
斧を突きつけられ、ウルコは手を挙げて降参の意を示したが、その目は不敵な笑みを浮かべている。
「蛮族の娘は気が荒くて敵わぬわ! お前のどこに魅力があるのかわからぬ。父上もクシも変わった趣味をしておるものよのう。はじめからお前なぞに興味はないわ。クシの悪趣味がどのようなものかこの目で見たかっただけよ。
それよりも、お前のその高慢な鼻をへし折ってやるのに丁度良い話を持ってきたのだ。
クシが死んだぞ。東の渓谷で下賎な山賊に襲われてあっけなくな。付き従っていた兵士どもがその現場を見たのだ。間違いはない。大罪を犯してそれを誤魔化そうとするから、神がお怒りになったのだ」
ウルコはひぃひぃと下卑た嗤い声を立てた。しかしキヌアは向けた斧を下ろさずに冷静に言い放った。
「クシが死んだのなら丁度良い! 今この場で貴方を切り殺して、自分も死ぬことができる!」
言うが早いか、キヌアはさっと斧を肩の上に振り上げてウルコににじり寄った。
ウルコの声が甲高い悲鳴に変わった。後ずさり、躓いてしりもちをついたウルコは、片手を突き出して必死にキヌアを制した。
「待て! 待て、待て! 私は関係ない! クシの後を追うなら勝手にしろ! もう二度とこんなところへ来るものか!」
捨て台詞を吐いて、ウルコは慌ててキヌアの部屋から転がり出た。部屋から逃げ出したウルコが愉しげに嗤う声が廊下から響いてきた。
ウルコが去ったあとしばらく同じ姿勢のまま身動きもしなかったキヌアとティッカだが、やがてティッカがそろそろとキヌアの方を向き、声を震わせて言った。
「まさか、クシさまが亡くなるとは……」
しかし、キヌアはティッカに穏やかな笑みを向けると言った。
「クシが死ぬわけがないわ。すべて皇太子の出まかせよ。もしクシに何かあれば私にはすぐ分かる……」
そう静かに告げたあと、床に斧を置いたキヌアはゆっくりと寝台まで歩いていき、静かに腰を下ろした。そして高窓を見上げると小さく歌を口ずさみ始めた。
馴染みのある旋律を聴いてティッカの中に懐かしいものが込み上げてくる。
歌……というよりも、鳥のさえずりのような、吹き抜ける風のようなその声は、キリスカチェの伝統的な歌謡だ。
戦士たちが戦に出陣する前、勇壮な儀式を行って士気を十分に高めたあと、その謡を一斉に口ずさむ。
高揚した気持ちを落ち着け冷静に戦いに挑むためでもあるが、戦に出れば必ずや犠牲が出ることを覚悟して、この後二度と故郷の地を踏むことが叶わないかもしれぬ仲間たち、あるいは己への鎮魂歌にもなる。
しかし魂の不滅を信じる彼らにとって、それは追悼を意味するものではなく、肉体を離れた魂が復活し、再び仲間に巡り会うことを願うものであった。
高く低く複雑な音を綾なす旋律。キヌアがどのような思いでその旋律を奏でているのかティッカは推し量った。
あくまでもクシの無事を信じ、再会を願うためのものなのか。クシの死が明らかになったとき命を捧げる覚悟を決めるためのものなのか。
キヌアの穏やかな表情を見れば、おそらく前者を意味するものなのだろうとティッカは信じた。ふと謡うのを止めたキヌアは、高窓のほうに顔を上げたままで、胸に手を置き目を閉じた。
高窓の向こうの星空に祈るように、キヌアは長いことそのままの姿勢でじっとしていた。
クシの死の噂がクスコの街を駆け巡り、ハナンの貴族たちがいよいよ蜂起のときと、具体的な策を持ってアマルを訪ねたとき、ワイナがようやくクスコに辿り着いた。
アマルの屋敷で数人のハナンの代表がアマルに詰め寄っていた。ワイナはその場に折りよく飛び込んできた。
「ワイナ!」
渋面でアマルの横に立っていたリョケが、入り口に現れたワイナの姿をいち早く見つけて叫び、彼に駆け寄った。ワイナはリョケに頷いて見せたあと、リョケだけでなくその場にいるすべての者に聞こえるように声を張り上げた。
「皆の者!クシ皇子は無事だ。今は東の聖地に篭り、祈りを捧げている。
皇子は聖なる泉で神託を受けたのだ。やがて皇子がケチュアの民を率いる存在になるであろうと。クスコが皇子を本当に必要とするときが来るまで東の聖地で祈りを捧げながら期を待てと。
早まってはならない。お告げを信じて時期を待つのだ。いよいよという時が来たら私が皇子を迎えに行く!」
騒がしかった部屋がワイナの言葉で一気に鎮まり返った。やがて安堵の溜め息があちらこちらで聞こえてきた。
アマルがゆっくりと立ち上がると低く静かな声で告げた。
「今はクシが我々に託していったことをやり遂げるのが先だ。クシが戻ってくるまでにあの要塞を完成させることに力を注ごうではないか」
冷静を取り戻した貴族たちは黙って頷いた。