2、 インギル老人
2、インギル老人
インギルの育てていた作物は、自分の腹を満たすよりも神殿に捧げる供物にするのが主だった。時には周囲の森に入って獲物を捕らえてはそれも供物として捧げる。
インギルの生活はすべて神に祈りを捧げることが中心であり、それはまさに森の隠者の生活だった。
そんなインギルの生活に則って、クシの日課も、朝、昼、晩と、太陽と大地に祈りを捧げることが主になった。
クシはインギルの農作業と酒造りの手伝いを申し出たが、「これには長年のやり方がありますから、坊はお好きなことをなさっていてくださいませ」とやんわり断られてしまった。それがインギルの心遣いだとクシには分かったので、それ以上強引に手伝いを申し出ることはできなかった。
食事の支度と神殿の掃除だけは何とか交替で任せてもらったものの、時間は有り余っていた。
何もすることがないときは深い谷間を見下ろす断崖のへりに腰を下ろして、ときには尾根の先の険しい峰の頂上まで登り一番見晴らしの良い場所にある大岩に座って、周囲の景色を眺めて過ごす。
それらの場所から眺める景色は毎日目にしても決して飽きるものではなかった。
深い渓谷を流れる急流が霧を巻き上げ、谷間に雲を作る。低い雲はクシのいる峰とほぼ同じ高さか、その下方で流れていく。それはまるで空を流れる白い河のように眼前をゆったりと横切ったり、こちらに迫ってきてすべてを飲み込んでいく。やがて雲は薄い靄になり、その隙間から太陽の光が差してくると、まだ下方の谷間にわだかまっている雲に陽の光が当たっていくつもの美しい虹を映し出す。
その靄がすっかり晴れると、周囲を囲む山々の緑が一斉に輝き出し、山々の遥か彼方に聳えている高山の美しい白い頂の頭までもくっきりと見えるようになる。
夕暮れが迫るころにはまた、俄かに靄が立ち込めてきて、今まで目にしていた物を何もかも覆い隠し、一面の白い世界へと変えてしまう。
ときに細かい雨粒がクシの体に降り注ぎ、こびりついた汚れをきれいに洗い流していってくれる。
クシは天から落ちてくる澄んだ水を浴びるその瞬間が一番気に入っていた。
ワイナは無事にクスコに着いただろうか、ハナンの者たちは早まったことを起こさずにクシの帰りを待っていてくれるだろうか。
残されたキヌアはその後、ウルコによって辛い目に遭わされてはいないだろうか……。
ひとつひとつ心配事を挙げていけば心が苦しくなり、とても穏やかではいられない。時間を感じさせない生活がかえって無力な自分を露見させ、罪悪感を誘った。
しかし、やわらかく冷たい雨がクシの身体を濡らして冷やすたびに、そのような迷いや不安が少しずつ少しずつ彼の中から流れ出ていくのを感じた。
一日一日の時間は、ゆったりと流れていった。
来る日も来る日も、ただ祈り、ただ景色を眺めて過ごすクシだったが、やがてクシは自分の中に新たな思いが少しずつ芽生えてくるのを感じていた。
ある夜、クシはインギルと夜の祈りを終えてから太陽神像の前で杯を傾けていた。
毎夜、日が暮れると神殿の奥で酒をかわしながらインギルの昔語りを聞く。
何年も人と会話することのなかった老人は、いくら語っても語りきれないという程、饒舌だ。ほとんど一方的に、そして時の流れなどまるで無視した昔語りを突発的にいくつも披露するのだ。
しかしクシの知らない古い時代の、しかも宮殿では習わなかったクスコの歴史を知るインギルの話は大変貴重で、まだ幼かったクシが語ってもらえなかった話まで多くのことを知ることができ、クシはいつも興味深く聞いていた。
しかしその夜は話のネタもとうとう底をついてしまったらしく、インギルは珍しく無口であった。ふと、クシはずっと確かめたかったことを思い出し、インギルに語りかけた。
「インギル、お前は知っているのであろう。母上の亡くなった原因を。私はずっとそれを知りたかった。教えてくれまいか」
インギルの表情がさっと変わり、酒気を帯びて赤くなった目を真っ直ぐにクシに向けた。
しばらくの間があって、インギルはいつもとは違う重い口をそろりと開いた。
「とうとう、その話をしなければならない時が来たのですな。
分かっております。坊にはその真実をお伝えしなければならないことを。
実は勇気のなかったインギルは、今まで他の話で誤魔化して心の準備をしていたのでございます。お許しくださいませ……」
ただ幼くて理解できなかった母の死の原因を知りたいという、息子としての純粋な気持ちで訊いたことが、何やら重大なことに繋がりそうだと悟って、クシのほうも姿勢を正した。
「坊の母君、皇妃ロント・カヤさまは、それはそれは美しく聡明な方でした。出自はハナンの中でも最も古く伝統のある家柄であり、まさに皇女の鑑といえるお方でした。
しかしとても謙虚な方で派手を好まず、必要以外に公衆の面前にお出ましになることはなく、皇帝陛下を陰でひっそりと支えていらっしゃったのです。
表に立つことを好まれなかったため、宮殿内では皇妃さまは病弱なのだと噂されていたのですが、決してそのようなことはなく、大変健康な方でした。皇妃さまの性格と、聡明でいらしたために皇妃が表立って事を起こすことが良い結果を招くことはないということを重々承知していらっしゃったのだと思います」
クシはインギルの話を聞きながら遠い記憶に残る母の姿を思い起こした。確かに言葉少なく優しい笑顔で自分を見つめている姿ばかりが思い起こされる。
クシは幼かったので母の優しい姿ばかりが印象に残っているが、兄たちはよく「母上に叱られるぞ!」と言ってびくびくしていることがあった。優しい反面、毅然としたところもあった人なのだろう。
派手を好まず……言われてみれば、部屋には皇妃のために特別に仕立てられた目を見張るような美しい衣装や装飾品がありながら、いつも控え目な色の服を身につけ、装飾品も僅かしか身に付けていなかった。
それでもとても美しい人だったと記憶している。
「きれいな色の服を着たら、かあさまはもっときれいに見えるのに」と言ったら困ったように微笑んでいたことも思い出した。
「アマルさまがお生まれになった頃、皇帝陛下は南の領地の視察に出ていらっしゃいました。
宮殿に戻られたとき、南の領地で出会ったという身寄りのない娘を連れておられました。娘の両親は以前宮殿に仕えていたので娘も宮殿で暮らしていたことがあり、所作や言葉遣いは貴婦人のそれとは違わないほど上品で優雅なものでした。さらにその見目は皇妃さまとは対照的に派手やかで、誰もが振り向くような華がありました。
皇帝陛下はこの娘を後宮に迎え入れて、どの側室よりもご寵愛を注がれておりました。 やがてその側妃との間に皇子が生まれました。しかしその後から陛下のお気持ちは側妃から遠のいてゆきました……」
インギルは言葉を切って、杯を口にした。途端に静寂が訪れ、遠くのほうから獣の叫び声がこだまするように響いてきた。
酒をごくりと喉の奥に流し込んで、インギルはまた続きを話し出した。
「多くの側妃がいらっしゃっても、やはり皇帝陛下が大切にされているのは皇妃さまでした。おふたりは本当に仲睦まじく、その後もリョケさま、クシさまがお生まれになって、三人の皇子さまをもうけられた。これでクスコの皇室は安泰と思われておりました。
しかし、クシさまがお生まれになったあと、皇帝陛下は急に皇妃さまに冷たく当たられるようになりました。その一方で、ふたたびあの側妃に夢中になられたのです。
公の場にはお出ましにならない皇妃さまに代わって、陛下のお傍で民衆に笑顔を振りまくのはあの側妃の役目となりました。確かに人目を惹く美貌を備えた彼女は陛下の隣で笑っているだけで場が華やぎ、民衆も貴族もおふたりの姿に魅了されました。
やがて陛下は重臣たちの反対を押し切って彼女にハナンの皇族としての地位を与え、その息子を後継者とすることを宣言したのです……」
「それがウルコだと言うのか……」
「左様でございます。後継として選ばれたのはウルコ皇子、側妃とはウルコ皇子の母、コルケ・カーニャ妃でございます」
クシは思わず俯いて服の裾を握り締めた。その様子を見てインギルはクシに忠告した。
「坊、これから先の話は、ますます坊のお心を乱すでありましょう。インギルは続きをお伝えするのを躊躇います。坊に覚悟がおありでないなら、今日はここまでにしておきましょう」
「いや、大丈夫だ。覚悟はできている。続きを聞かせてくれ」
クシはふたたび顔を上げると真剣な顔でそう言った。
「……わかりました。
その前に、皇子さまたちがお生まれになる以前に起こったある事件についてお話せねばなりません。
ビラコチャ帝は即位されてすぐに、クスコの北側の地を平定されるために出陣されました。熾烈な戦いの末、その地の部族を屈服させたのですが、陛下の留守にクスコで反乱が起こりました。
シンチ・ルナという貴族がビラコチャ帝の留守を守る側近たちを倒して皇帝を名乗ったのです。シンチはウリン派の皇族で、一部のウリン派の貴族たちがこの反乱に加担したものと思われます。クスコは内戦状態となりました。しかし、ビラコチャ帝を皇帝と認める者が圧倒的であり、劣勢を悟ったウリンの貴族たちは次々とハナンに降伏していきました。
ビラコチャ帝の遠征先にもこの知らせは届きました。陛下が戻られれば反乱派はただでは済みません。とうとうシンチは味方を失くして孤立し、ビラコチャ帝によって家族もろとも処刑されました。しかしシンチの娘がひとり処刑直前に行方をくらましています。おそらくウリンの者が手引きしたのでしょう。
それから月日が経ち、この事件は語られなくなりました。いや、語ることを禁じられたのです。
逃走したシンチの娘の顔は知れておりますが、強力な力を持つ呪術師ならばその容貌を変えることも不可能ではありません。南の地方には呪術師が多く、わざわざ彼の地に修行に行く者もいるほどなのです。
インギルには真実は分かりません。
しかしもしコルケ妃がシンチの娘だとしたら、南の地で得とくした呪術を使って陛下を惑わし、宮殿内に入り込むことが先ずはじめの目的だったのでしょう。しかし呪術が解けて陛下のお心が離れはじめた。そこで陛下には媚薬を皇妃様には毒薬を盛ったとも考えられます。貴族の中に協力者がいれば、そのくらいは簡単なことでしょう。陛下のお心がコルケ妃へと傾いていくのと時を同じくして、あれほど健康であられた皇妃さまのお体が弱っていかれました。
皇妃さまのお体の状態からインギルは毒が用いられたのではないかと疑っておりました。そしてコルケ妃とその周辺を探り、毒は見つからなかったものの、コルケ妃が幾人かのウリンの貴族と内通していたことを知ったのです。その後インギルは何度か刺客に襲われたことがございます。
しかし結局真実を見出すことは叶わず、とうとう皇妃さまはお亡くなりになりました。主人が亡くなれば、その傍遣いも命を捧げなくてはならない。コルケ妃とウリンにとっては一石二鳥。よもやこのように生き延びるとは思いもしなかったでしょう。秘密は永遠に葬り去ることができたはずなのです」
「…………」
クシは唇を噛み締めて苦悶の表情を浮かべた。クシが衝撃を受けるであろうことを承知で話したインギルも、後悔を感じてぴたりと押し黙った。杯を握り締めたまま、ふたりは俯いて向き合っていた。やがてクシが顔を上げた。
「わかった。話を聞く限り私もインギルの察するとおりなのだと思える。
しかし、コルケ妃がわざわざハナンの家系に入ったのは何故だ。ウリンを再興したいのなら、ウリンを名乗るべきであろう」
「ウリンを名乗って表立った真似をすれば、真っ先に疑われましょう。語られずともあの事件を記憶している者は多いのですから。ハナンを名乗ってウリンを取り込めば、ハナンも手が出しにくくなります。それにコルケ妃の目的はウリンの再興などと大それたものではなく、もしかしたら単にシンチの復讐だったのかもしれない。それを一部のウリンの貴族が利用したのかもしれません」
「ウルコの愚かな振る舞いは画策されたものなのだろうか」
「それは分かりませんが、結果的には彼らに有利に働いているのは間違いありません。
坊、悔しいとは思いますが、焦ってはなりませんよ。神は坊の行く末をご存知なのです。今はこの地で神の息吹を感じ、坊の進むべき道をしっかりと教えていただくのです」
インギルはクシの手を取ってきつく握った。老人の手は氷のように冷たく、熱くなりかけていたクシの身体を冷ましていった。インギルは泣き出しそうな目で縋るようにクシの顔を覗いた。
インギルはクシがこの話を聞いて冷静さを忘れ、無謀な行動に走ってしまうことを怖れているのだ。それに気付いてクシはインギルに大きく頷いてみせた。
「……大丈夫だよ、インギル。早まったことはしない。それに復讐などを考えては、結局コルケ妃と同じ立場になってしまう。
私は時を待つ。この地で自分の為すべきことをしっかりと見極める」
※反乱を起こした貴族の名はカパックと記録されています。
でもその名は使いたくない!ので勝手に付けました。
シンチ・ルナとは『恐るべき人』という意味です。
似たような名前ばかりで物語に仕立てようとすると非常に困ります。
また、クシの母親の名を『ロント』と表記し直しました。以前に出てきた箇所も訂正してあります。