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1、 聖なる峰



1、聖なる峰




 朝もやの中に、緑深い尾根の影がうっすらと見える。鳥のさえずりの中に、水脈から引いてきた水が木のといを伝って石の甕に流れ落ちる音がコロコロと心地よい音を響かせている。それ以外には何の音もない。

 まだ日が昇り切らないうちに、こうして自然の音を耳にしながら、薄墨色の朝霧に霞む景色を眺めるのがクシの日課になっていた。


 そうやって何日が過ぎていっただろうか。もう記憶もおぼろげになるほど長い時が経ったように思える。



「坊! 坊ちゃま!」


 背中に呼びかける声を聞いて、クシは振り返った。

 霧の中から片足を引きずるようにして、ゆっくりと老人が近づいて来た。


「坊、またここにいらしたんですか。朝ごはんですよ」


「ああ、今行くよ」


 クシが答えると、老人は安心したように微笑んでまた霧の中に姿を消した。




 クシは泉のお告げを聞いたあと、ワイナとともに渓谷を上流に向かって歩き続けた。

 道は険しく、ときに見上げるような大岩が立ちはだかってその先にはとても進めそうにない場所にも行き当たった。来た道を引き返して抜け道を見つけ、また行き止まりに突き当たっては迂回路を探し、その度に目印を新しく付け直しながら、ひたすら奥地へと進んでいった。


 迂回路に逸れる度に道は高度を増していき、いつの間にかふたりは険しい山を登っていたのだ。山道を上がること数日、ある日突然視界が開け、目の前に緩やかに下っていく尾根が見下ろせた。

 尾根はその先の鋭く尖った峰に続き、その険しい峰の向こう側には遥か彼方にまで折り重なるようにして続く山脈が見渡せた。

 ふたりのいる尾根の左右の斜面は断崖のように深く谷に落ち込み、その下には激しく水しぶきを上げる急流が垣間見える。流れは右裾から目の前の険しい峰の向こう側を回り込み、ふたたび左裾へと姿を現してまた背後へと続いていた。


―― 蛇行して回り込んだ流れに囲まれるようにして聳えるふたつの峰

   …………それらは天を仰ぐ神の横顔を成す ――


 確かに、眼前の峰の形は高い鼻を思わせ、横たわって天を仰ぐ人の顔に見えなくもない。


 クシとワイナがそこがお告げの場所であると確信したのは、緩やかな峰の片隅と険しい峰の頂上に、木々の隙間から石積みの小さな建物が覗いているのを見たからだ。

 木や蔦の合間に一部顔を覗かせているその建物はなかなか立派なものらしく、ふたりはそれが神のために建てた神殿であることを察した。


 早速神殿に向かおうとするが、そこに行くまでの道はほとんど無いに等しい。長らく人が歩いていなかったのだろう、木々が低い枝を伸ばし、さらにそこに蔦が頑丈に絡み付いて、彼らの行く手を阻んでいた。

 ワイナが斧で大きな枝を払い、クシがナイフで蔦を切りながら、ようやく神殿の近くまでやってきた。

 神殿の前までやってくると、意外にもその正面は人の手によってきれいに草が掃われていた。さらにその一画には耕した畑があり、数種類の作物が植えられていた。


 クシとワイナは警戒しながら建物の中を覗いた。

 がらんとした薄暗い空間からコトリと音がして、何かが奥の暗闇から近づいてきた。ふたりが後ろへ引くと、それはゆっくりと光の中に姿を現した。


 人だった。

 腰が曲がって片足を引きずっている老人だ。ぼろぼろになってかろうじて体に貼り付いているような服の上に、麻の繊維を荒く織ったような上着を羽織っている。

 しかし彼が下に身につけている服を見てクシは驚いた。クスコの紋様が織り込まれていたからだ。

 老人はふたりに近づいて来て、ふたりの顔を何度も交互に見比べた。そして最後にクシの顔をじっと見つめると、急に嬉しそうに顔をほころばせた。


「お待ちしておりました。ようやくいらしてくださった」


 老人が流暢なクスコの宮殿の言葉でそう告げたことに、クシはさらに驚いた。


「貴方は一体……」


「私はずっとここで貴方がいらっしゃるのを待っていたのですよ。坊……」


『坊』と呼ばれて、クシの心に懐かしい感触が蘇ってきた。随分前に誰かにそう呼ばれていた記憶がある。遠い遠い昔に……。


「……インギル?」


「思い出してくださいましたか? 坊!」


「本当にインギルなのか? 幻ではないのか?」


「ええ、ええ。本物でございますよ!」


 老人は涙目で微笑みながら、皺だらけの骨ばった手でクシの手を包んだ。手の甲から腕にかけて花を模ったような幾何学模様の刺青が浮かんでいる。クシはその刺青を見てさらに懐かしい思いがこみ上げて来た。


「ああ、本当にインギルだ!」


 クシは体を屈めて老人の小さな体を抱きかかえた。


「坊は、よう、こんなに大きゅうなられて。でもインギルにはすぐに坊だと分かりましたぞ」


 インギルというその老人は、昔、クシの母親である皇后に仕える宦官(かんがん)だった。幼い頃のクシは、実母よりも乳母よりも彼を慕っていて、いつも彼の後を付いて歩いていた。手をつなぐと子供の目の高さにその刺青が見えるので、クシは顔よりもその刺青で彼だということを判断していたのだ。


「何故こんな山奥に?」


「ああ、それは大変長い話になります。まずは中に入って長旅の疲れを癒されたほうがよろしい。さあ」


 インギルに促されて、クシとワイナは石積みの建物に入って行った。

 初めは暗くて中の様子はまったく見えなかったが、インギルが火を熾してたいまつに点け掲げたので、中の様子がはっきりと見えるようになった。


 その石積みは、外からは大方が土や草木に埋もれているように見えたが、中の空間は非常に広く、狭い入り口からは想像できないほど、奥の方まで部屋が続いていた。

 天井は見かけよりもずっと高い。クスコの建物は石積みの壁の上に藁で屋根を葺いてあるが、そこは藁を葺くまでもなく自然の木や蔦が頑丈な屋根を作っていた。木の根の天井はところどころ隙間があり、木漏れ日が差し込んで部屋の中に何本も光の筋を作っていた。


 一番奥の部屋までやってくると、そこはどの部屋よりも広く大きく、正面の壁には、黄金でできた太陽神のレリーフが掛けられ、きれいに磨きぬかれて眩しい光を放っていた。


 インギルは、その太陽神の前にゴザを敷いてふたりに勧めると、隅に置かれた大甕から木製のカップに酒をすくった。それを数滴地面に垂らして大地の女神に祈りを捧げると、クシとワイナに酒を勧める。


「まさかこうやって、坊と酒を飲める日がこようとは」


 インギルという老人は、目頭を押さえた。


「ご老人、ここには貴方ひとりしかいないのですか?」


 ワイナが訊いた。


「ええ、私ひとりでございます。私がここへやってきたとき、この神殿は朽ちかけて森に埋もれる寸前でした。私は周りの草木を掃い、石壁を磨き、そしてこの神像を磨きました。それからずっとここをひとりで護ってきたのです」


「この神殿は誰が建てたのだ?」


「さあ、私には分かりかねますが、ケチュアの国が出来た頃よりここにあったのでしょうな。遥か昔ここはケチュアの聖地として崇められていて、その後忘れられてしまったのでしょう」


「それで、インギルは何故ここに来たのだ?」


 クシが先ほど聞きそびれた質問をすると、インギルは急に姿勢を正してクシに正面を向けた。


「おそらく都では、インギルは皇帝陛下と皇后陛下を裏切った重罪人でありましょうな」


「どういうことなのだ?」


「坊はまだお小さかったのでお分かりにならなかったでしょう。

 皇妃さまが亡くなられたとき、一番お傍でお仕えていた私は本来この命を捧げなくてはならなかったのです。

 しかし命を捧げる間際になって、私は急に恐ろしくなり逃げ出した。

 敬愛する皇妃さまのために命を捧げることがあのときに何故できなかったのか、老いるだけの体を庇って逃げ出すなど、なんと恥ずかしいことをしたのだろうかと、逃げ出したあとに悔やみましたが、もう都に帰ることはできませんでした。

 あてもなく彷徨ううちに、澄んだ美しい泉を見つけ、そこに身を投げようと考えました。しかし、いくら沈もうとしても浮かび上がってきてしまいます。途方に暮れて泉のほとりに座っていると、どこからともなく声が聞こえたのです。

 この先にある聖なる峰で暮らし、やがてクスコの救世主となる者が現れるのを待つように、と。お前はその為に命を長らえたのだ、と。

 その声が教えたとおりに進んで行って辿り着いたのがこの峰でした。私は朽ちかけた神殿跡の一部を住まいに変え、小さな畑を作って何年も何年もひとりで待ち続けていました。

 そしてようやく待っていた方が現れた。しかし、まさかそれが坊であったとは……」


 インギルはクシの手を握って嬉し涙を流した。


「泉というのは、この渓谷を下っていったところにある泉か?」


「ええ、左様で。ご存知でしたか?」


「私もその泉の底で拾った光る石に教えられてここへやってきたのだ。ここで待っていれば国が私を必要としたときに都から迎えが来ると」


「では紛れも無く坊がクスコの救世主なのですな!

 しかしクスコを救う者が必要だとは……。クスコには一体何が起きているのでしょうか?」


 クシは今のクスコの事情をインギルに語って聞かせた。インギルはその話に耳を傾けながらじっと目を閉じ、眉間に皺を寄せた。


「ケチュアの民は本来、自然を崇拝し、自然とともに生きる穏やかな農耕の民であったはず……。

 しかし多くの部族が生き残りをかけて領土を取り合うこの世の中では争いを避けて通ることはできません。他の部族との争いが繰り返されるうちに武力に長けたものが力を持ち、人々を従えるようになります。その権力が暴走していけば、やがて同じ民さえも苦しめることになる。

 ここを聖殿として崇めていた時代は、神を畏れ、自然を畏れ、王でさえも謙虚に生きていたのです。傾きかけた都を救うには、ケチュア族が本来の姿に戻るしかないのでしょうな」


 クシはそう語るインギルの姿をじっと見つめた。

 クシの知るインギルは、男性としての機能を取り上げられ、男として見ればどこか弱々しい印象があった。だからこそ幼いクシは、女性のように、いやそれ以上に繊細で優しいインギルを慕っていたのだが。

 今、目の前にいるインギルは、あのときより年老いて体も弱っているのだが、その目の輝きは鋭く、記憶の中の彼よりもずっと男らしく逞しく感じる。この聖地がインギルに本来の姿を呼び戻させたのかもしれない。


「光る石は私がこの地で祈りを捧げれば王として必要なことを教えてくれると言っていた。この地はそれだけ神の近い場所なのだな」


「ここは天に近く、何にも遮られることなく太陽の光を浴びることが出来る場所です。

 坊、神が何かを教えてくれるかどうかは分りませんが、この地に居ればきっとご自分の考え方が変わっていくことでしょう。私がそうでしたから。クスコから迎えが来るまで、ここでゆっくりと心を落ち着けられるとよろしい。私は喜んで坊のお世話をさせていただきます」


 インギルはようやく自分の役目を果たすときが来たと張り切った。



 数日経って、ワイナが目印を頼りにクスコへと戻って行った。都ではおそらく、ウルコが『クシは死んだのだ』と触れ回っているだろう。ハナンの貴族たちを安心させるためにも、ワイナはクシが無事であることを早く知らせなくてはと焦って旅立って行った。


 こうして聖なる峰での、クシとインギル老人のふたりの生活が始まったのだ。








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