7、 泉のお告げ
7、 泉のお告げ
クスコから東の道を真っ直ぐに進んで行くと、やがて険しい山に挟まれた深い渓谷が現れる。
乾いた西の地とはまったく違う緑深い湿った密林が山肌を覆って、どこまでも続く。
渓谷に沿って北上すれば、年老いた貴族が住む館があるはずだ。クシとワイナはしばらくその館に世話になることにしていた。
目的の館が見えてくるかと思われたとき、クシの足元に石槍が飛んできて足先をかすめて地面に突き刺さった。
クシもワイナも素早く辺りを窺う。間を置かずに槍が次々にふたりを狙って飛んできた。
槍をかわしながら、クシはキヌアにもらったナイフを取り出し、ワイナは背中の斧を抜く。
やがて鬱蒼と茂る林の奥から数人の戦士が姿を現した。その戦士たちの姿にクシはわが目を疑った。
「クスコの兵士?」
クシとワイナが素早く背中を合わせて応戦する態勢を取ると、兵士たちはその周りをぐるりと取り囲んだ。
兵士たちは斧を振り上げ一斉に襲い掛かってきた。
ワイナの斧は相手の斧をはじき返してはその威力でなぎ倒し、クシは斧をかわして相手の懐に飛び込んでは身体を傷つける。
はじめのうちは難なく兵士たちを倒していったふたりだが、四方から後を絶たずに襲ってくる彼らを相手にしていては身が持たない。いくら腕に覚えのあるふたりでも一度に数人を相手に戦っていてはとても勝ち目はなかった。
クシは戦いながら周りの地形に目を走らせた。渓谷はその先で二股に分かれており、左は広い河原、右は木々が覆う暗く狭い流れになっている。
「ワイナ、右側の渓谷に走っていくぞ!」
合図とともにふたりは狭い渓谷に向かって走っていった。
上から手を広げるように覆いかぶさる枝の間を素早くくぐり抜けていく。後から追ってきた兵士たちは、それをかわすのに苦労して段々とふたりから引き離されていった。
兵士たちとの距離を十分に離して、クシとワイナが左右の繁みに分かれて飛び込んだ。 最後まで追ってきた兵士もふたりを見失い、やがてすごすごと引き返して行った。
兵士がいなくなったことを確認すると、クシとワイナは繁みを抜け出て河原に下りた。
「皇太子の手先の者だろうな。皇子をここで始末しようと考えたのだ」
クスコを出た以上、クシの安否を知る者はいない。ここでクシを始末すればウルコにとっては好都合だ。ウルコは必ずまた追手を仕向けるに違いない。
「館に行くことはできないな」
ふたりは仕方なく狭い渓谷沿いの道をそのまま奥へと進んで行った。
どのくらい進んだだろうか。そこはどの辺りなのだろうか。川の音と鳥や動物たちの声がうるさいほどに響いているが、それは容易に人を寄せ付けない場所であることを感じさせた。
やがて夕暮れが迫り、ふたりは河原に枯れ枝を集めて火を焚き、そこで野宿をすることにした。
豊かな森では獲物を狩ることはたやすかった。
食事を終えて焚き火に枝をくべながら、クシは兄弟にも言うことができなかった都を追われたいきさつをワイナに話した。
ワイナは黙って聞いていたが、クシの悔しさが伝わったのか何度も深い溜め息をついた。
「私は分からなくなった。いずれは皇帝の座を取り戻すなどと大きなことを考えていたが、どうやらクスコは私を嫌っているらしい」
唇を噛み締めて俯くクシをワイナは慰める。
「何を弱気になっているのだ。皇子らしくもない。西の地に追放したのも今回のことも、すべて皇太子の仕業ではないか。彼が玉座にいる限りは皇子に対する風当たりは強いのだ」
「しかし、不注意からウルコの策に嵌って二度も故郷を追われ、愛する人ひとりを守ることさえできない私に、これから何ができるというのか。自分が情けない……」
深い森が人の気を狂わせるのだろうか。すっかり威厳と自信を失ってしまった皇子の姿に、ワイナの方も不安を感じた。
少しの間ふたりは黙って焚き火が弾けるのを見つめていたが、細くなる火を棒で突いて熾しながらワイナが静かに口を開いた。
「皇子、私と出会った頃を覚えているか?」
「ああ、私が武術の教室に入ったときだな。まだ七つだった」
「そうだ。私は一応先輩だったからな。はじめはほかの者たちと一緒になって新米をからかったものだ」
「そういえば、初対面はチビとからかわれたな!」
クシはその頃を思い出し、ふふんと鼻を鳴らして笑った。
「皇子はどんなにからかってもまったく動揺しないので、私たちはそのうち相手にしなくなったが、その頃いちばん年長だった奴が皇子を泣かせてみせると、皇子に付きまとってはあらゆる手でいじわるを働いていた」
「そうだ。あいつはまるで恋人のようにどこへ行くにもくっついてきたな。チビで大した力も無いくせに生意気だと言っては突いてきた」
「逆に皇子が奴をけしかけたことがあったな。
街外れの丘の上に奴をおびき寄せ、本気を出せばそこに立っている大岩を一晩のうちに転がすこともできると宣言した。しかし麓の住人に危害が及ぶからそれはできないと。
奴は事を大きくして皇子に恥をかかせてやろうと、教室の仲間を皆集めて住人に触れ回るように命令した。宮殿の神童クシがここは危険だと予言した、すぐに逃げろと。信じた住人が急いで他の場所に避難しようとして都は大騒ぎになった……」
「そういえば、そんなことがあったな」
「その晩、突然豪雨がクスコの街を襲い、次の日の朝、丘の上から流された大岩が民家を押しつぶしていた。奴が、大岩を転がして家を潰したのは皇子の仕業だと言っても誰も信じなかった。逆に彼らを救った神童クシの名はクスコの街で一躍有名になった」
「あいつがしつこくからかうので強がってついた嘘が、たまたま本当になっただけだ……」
「いや、皇子は気付いていたのだろう? あの丘の大岩の下の地盤が緩んで危険であったことと、風の向きからその夜は急激に天候が変わることを……。しかし、幼い少年がひとりで騒いでも誰も信じない。
奴に一矢報いるのが目的ではなかったのだ。住人を救うためにたまたま纏わり着いてきた奴を利用したのだ。それに気付いて私は衝撃を受けた。幼いながらも鋭い判断力をもった人物。将来、この皇子はクスコを担う人になるかもしれない。そうなったら皇子に仕えたいと思った」
「はは。それでワイナは何かと私に親切に接してくれるようになったわけだ」
「そうだ。しかし私だけではない。皇子の武術の腕の上達ぶりは他の者など到底及ばず、仲間うちで起こる騒動を、皇子がその知恵でつぎつぎと解決するのを見るうちに、やがて武術教室の誰もが皇子に一目置くようになっていた」
「しかし、揉め事に首を突っ込んでばかりいる私は、父上から疎まれたよ」
「あのときから、私は将来皇子を支えるようになりたいと武術の鍛錬に励んできたのだ。辺境を視察して見聞を広めることも、皇子の目となり耳となることを望んでいるからだ。その皇子が弱気になって都を棄てるというのなら、私は仕える先を失くして路頭に迷うではないか」
「随分と高く買ってくれたものだな、ワイナ。でもすまないが、そなたの見立て違いだったと諦めてくれ」
ワイナがどんなに慰めようとも、今のクシはひどく頑なに心を閉ざしていた。
奔放で恐い物など知らず、常に自信に満ちていた皇子が、ひとりの女性を愛することで慎重さとともに怖れも覚え、その人を守りきれなかったことが、その脆くなった心に容易に塞ぐことのできない深い傷を与えてしまったのかもしれない。
ふたりはそのまま言葉もなく焚き火を見つめていたが、いつの間にか夜の森の音を子守唄に深い眠りについていた。
「皇子、良いところを見つけたぞ」
ワイナに揺り起こされて、クシは目覚めた。
森はすっかり姿を変えて、朝の清々しい光の中で緑の葉を輝かせていた。夜とは違った陽気な鳥の声が響き渡っている。
眠っている間に昨夜の不安な気持ちはだいぶ薄らいでいた。
「あの向こうに澄んだ泉があるのだ。私は先に水浴びをしてきた。皇子も汚れを落としてくるといいぞ」
そう言って、ワイナは河原から少し上ったところに見える繁みの方を指差した。
鬱蒼とした繁みを分け入っていくと、急に眩しい光が目に飛び込んできた。
森の中にぽっかりと口を開けたような円形の空間から清々しい青空が見えた。そしてそこから差し込んでくる光が、鏡のように平らな水面で反射して周りの木々を下から照らしていた。
そこにあったのは、さざなみひとつない、底の方まではっきりと見透せるような澄み切った泉だった。
クシは服を脱ぐと、泉に入って泳いでみた。クシの周りにだけ小さなさざなみが広がり、手をかくとチャポンと小さな水音がした。
仰向けになって空を見上げると、クシの心と体がどんどん清められていくようだ。
もう一度、体を返して底を覗いたとき、底の方で何かが光っているのが見えた。太陽の光を反射している水面からは分からなかったが、その物は確かに泉の底で自ら光を放っていた。
クシはその光に向かって潜っていった。水面からは浅いように見えた泉だが、潜ってみると思いのほか深い。クシが必死で水をかいても、なかなかその光には行き着かなかった。
ようやく光の正体が見えた。水晶のような透明の石だった。持ち上げて見ると両手に抱えるほどの大きさがあった。
石を抱えてクシは水面まで一気に浮かんでいった。
岸辺に上がり傍らに石を置くと、クシは体を乾かすためにそこに座った。
しばらくその石を眺めていたが、相変わらず、透明の石は中から弱々しい光を瞬くように発している。見れば見るほど不思議な石だった。
日が高くなってきたせいか、鳥や獣の声が一段と賑やかになってきた。ときどき風が吹きぬけて森の木々を揺すり、ざああと激しい音をたてる。
やがてクシは、その賑やかな音の中に聴き慣れない音が混じっていることに気がついた。
最初はぶうんぶうんという虫の羽ばたきの音かと思った。やがてそれはうおんうおんという唸り声に聴こえてきた。よく耳を澄ましていると、それが人の声だと分かった。
ワイナがいるのかと後ろを振り返ったが、いない。辺りを見回して、ようやくその声の主が傍らに置いてある石だということに気付いた。
石はそのときには、はっきりと人の言葉を発していた。クシの分かる言葉だ。そして自分の名前を呼んでいる。
《クシ。クシ皇子》
クシは思わず返事をした。
「はい」
《クスコの皇子よ。わしはお前の行く末を知っている》
『わし』と名乗った石が急におどろおどろしい生き物に見えて、クシは石から遠のいた。
《お前はわしの預言を聴くために、この地に喚ばれたのだ》
喚ばれた……。
クスコを追われ、半ば自虐的な気持ちであったクシは、それを聞いて見えない大きな力が自分を操っているように思えてぞっとした。
《お前がこれから向かっていく川の上流に、蛇行して回り込んだ流れに囲まれるようにして、ふたつの峰が聳えている。緩やかな稜線の峰がその先に鋭く聳える峰へとつづき、それらは天を仰ぐ神の横顔を成す。
そこは眼下に虹を見下ろす聖なる地だ。
そこには古代の神殿がある。これからお前はそこに赴き、そこで暮らし、神殿に仕えながら神の信託を仰ぐのだ。神はお前に、国を治めるためにお前が何を為すべきかを教えてくれる。
やがて都がお前の力を必要とするときがやってきて、お前を迎えに来るだろう。そのときこそ都に戻り、都を守るために力を尽くすのだ》
クシは呆然と光る石を見つめていた。その言葉が終わると石の光は消え、薄汚れた白っぽい石になっていた。
クシはおそるおそる近づいて石を突付いた。石はもう何も変化しなかった。
それを持ち上げようとすると、水から揚げたときよりもずっしりと重くなっており、少し持ち上げたところで手が滑って転げ落ちてしまった。
石はそのまま岸の斜面を転げ落ち、また泉の底に深く沈んでいってしまった。
川辺のワイナのところに戻ってきたクシは、今自分に起きた出来事を話した。
「きっとこの辺り一帯が聖地なのだ。われわれはすでに聖なる場所に足を踏み入れたのではないだろうか。
その中でも最も神聖な場所がその峰なのだろう。神が導いてくださっているのだ。是非ともそこに行くべきだな」
「しかしこれ以上奥に進んでしまったら、クスコへの道が分からなくなってしまう」
「そうだな。時間がかかっても、目印を付けながら進んでいかなくてはならないな」
彼らを奥地へと招くように、突然吹いてきた強い風がふたりの背中を押しやった。
「皇子、貴方は矢張りクスコの皇帝となるべき存在なのだ。しかし、そのためにはじっくりと機が熟すのを待つしかないのだ。
焦ってはいけない。クスコは必ず皇子を迎えに来る。私がそれまでクスコと皇子の橋渡しをするからな」
クシはワイナの言葉にゆっくり深く頷くと、川の上流を見据えて歩き出した。
第三部 完
第四部へと続きます。
ここまでお付き合いいただいて、ありがとうございます。
いよいよクシがマチュピチュに向かいます。
書きたかった部分にようやく入ってきました。
最近中だるみ気味になってきたので、
また気合を入れなおして書き続けていきたいと思います。
引き続き、よろしくお願いいたします。