6、 星空の誓い (その2)
「おや?」
ウルコは違和感を感じて呟いた。
後宮のいちばん奥、キヌアの部屋の前までやってきたのは初めてだが、その様子は尋常でないことを直感した。
辺りは真っ暗だった。後宮の入り口に立っていた番兵はここにはいない。いたとしても皇太子に逆らうことなど出来ないのだから同じことだが、それにしても無防備だ。
たいまつをかざしてようやくキヌアの部屋の入り口を見つける。
「殿下、キヌアさまはもうすっかりお休みなのです。突然驚かせて騒がれたら、ほかに聞こえて騒ぎになりましょう。どうか諦めてくださいませ」
侍従たちはずんずんと進んでいくウルコに、代わる代わる縋り付いて説得した。
しかしウルコはまったく聞く耳を持たず、部屋の入り口の掛け布を押し上げて中へ踏み込んだ。たいまつをゆっくりとかざして中を見回したが、そこはもぬけの殻だ。後から飛び込んできた侍従たちも首を傾げる。
ウルコは侍従を振り返り、眉間に皺を寄せて言った。
「なんと、父上は側室を直々にご自分のお部屋に招かれているようだ。どうりで父上がお部屋にいらっしゃったはずだ。残念だのぅ」
侍従たちは体の力が一気に抜け、倒れそうになるのをお互いに支えあった。
「もう今宵はおとなしくしておるわ。しかしこのまま帰っても眠れそうにない。少しひとりでこの辺りを歩いてから帰る。お前たちは先に帰って休め。
何、心配するな。誰もいない庭を歩いて気が済んだら帰るだけだ。ここからではほかに寄り道することもできないであろう」
ウルコの言葉に侍従たちは素直に喜んだ。もうすでに眠気と疲労が限界まで来ていたのだ。
侍従たちがいなくなると、ウルコはにやりと笑ってまたキヌアの部屋の方へ歩みを進めた。
ふたたび中を調べると、奥のたいまつ掛けには消されたたいまつが残っており、触ってみるとまだ温かかった。入ってきたばかりのウルコのたいまつのものではない、長いこと焚かれていたようなたいまつの香りが部屋に充満していた。
また念入りに部屋を物色し、隅に置かれた男性用のマントに気付いた。
そこに織り込まれた文様は持ち主をはっきりと示していたのだ。
キヌアはクシの肩越しに、紅い大きな星が流れるのを見た。
「クシ……(凶星が……)」
言い掛けたキヌアの口をクシの唇が塞ぐ。クシの温かな息を吸い込んで眩暈を覚え、目を閉じたキヌアは、今さっき見たもののことを忘れた。
先ほどクシに話したことは、ある部分は真実であって一方は虚構だと、キヌアは自分で思っていた。
白い羽根の皇子に興味を持ったのは確かだ。ケチュアの民にもなかなか面白い者がいるものだと思い、白い羽根の皇子の傍でならこの都の暮らしも悪くないと、皇子の近くに行きたいと星に願ったことも。
しかし彼を心の底から欲したのは、クシが帰還してキヌアを負かしたあの試合だった。
探していた理想の男。自分を負かせるほどの強さを持った男が現れ、それがクシであったことに衝撃と安堵を覚え、同時に叶うことのない想いを嘆いた。自分の置かれている立場を振り返れば、この先は心を殺して生きていくしかないのだと覚悟を決めたことも。
しかし、今その人は自分の腕の中にいる。そしてその人の腕に抱かれている。
未だに夢の中を彷徨っているのではないかと錯覚する。醒めないでほしいと強く願いながら、キヌアはクシに縋りつく。クシの口付けを全身に受けてまた眩暈を覚え、夢とも現実ともつかないまどろみの中を彷徨った。
クシは、星明りだけの薄暗闇の中ではぼんやりと蒼白く見えるキヌアの肌を見つめ、そこにいるのが今まで自分の憧れ続けたキヌアとは違うような気がしていた。
初対面の強烈な印象は彼女と過ごすうちに薄れていき、彼女の中の儚さや無邪気さを目の当たりにしてきた。
キリスカチェという特異な性質を持つ部族が、戦士としての彼女を完璧に築き上げたのだろうが、それは虚像であって本来の彼女ではないのかもしれない。
しかしキヌアがその生き方を誇りに思っている以上、その素性を知りそれを曝いてしまうのは罪深いことのように思う。
ましてや自分は彼女の強さに憧れ、その後ろ姿を追い続けてきたというのに、彼女を負かしたときから立場は逆転し、侵してはならない領域に踏み入ってしまったのだ。
腕の中のキヌアは儚く、頼りなく、そうしていないと溺れてしまうのかと思うほど必死になってクシに縋り付いてくる。
戦士の矜持を持たない素の彼女は、しっかりと支えていないと崩れてしまいそうに脆く思えて、その身体に回した腕にクシは一層力を込めた。
空を流れる星の数が増していく。
風は凪いでいて辺りにほとんど音は無く、ふたつの吐息だけが微かに響いていた。
やがて、キヌアは閉じた瞼の向こうに鋭い閃光が走ったような感覚を得て、はっと目を見開いた。
クシの肩越しに、今度は眩い蒼の星が流れていくのを見た。
今まで凪いでいた風が吹き始め、ふたりは身を起こした。
ほてった素肌が急速に冷めて悪寒を感じたのだろう。両腕を抱え込むキヌアの背に、クシは身体の下に敷かれていた服を引き抜いて拡げ、掛けてやった。
キヌアの身体をその服ごと両脚の間に抱えて、クシはキヌアの耳元に囁く。
「もう、決して離れることはない。星が証人だ」
ふと、キヌアはさっき目にした紅い星のことを思い出した。
何も言葉を返せず空を見上げれば、流星群がさっきよりもずっとその数を増して盛んに流れ続けていた。
しかし、紅い星を見ることは二度となかった。
「星が生き物の眼なら、あれは生き物たちの涙ということか。 何をあんなに嘆いているのだろう?……でも、綺麗だ」
興味深そうに流星群を見上げるクシを振り返り、キヌアはさっき見たあの紅い星は決して悪いものではないと信じようとしていた。
ふたりの間に新しい何かが始まるお告げなのだと。
「きっと私たちの嘆きをすべて取り去ってくれているのよ」
「それなら吉兆だな。かなり都合のいい説に思えるが、信じることにしよう!」
クシはくすくすと笑って、キヌアの肩を抱きすくめた。
じゃれあうように口付けを交わし、ふたりはまた揃って夜空を見上げた。
もうすぐ夜が明けるという頃に、ふたりは丘から戻ってきた。
抜け穴から宮殿に入りキヌアの部屋の入り口に回り込んだ時、ふたりは思わず立ち竦んだ。
そこにはウルコが待っていた。
「ほう。今宵はなんという面白い夜なのだ。人気者の皇子が蔭でとんでもない罪を犯しているところを発見するとはな」
ウルコはクシに近づいて、顎の下から覗くようにして彼の顔を見た。クシはウルコを睨み返すと平静を崩さずに言った。
「殿下こそ、何故この時間にここにいらっしゃるのですか。側室の部屋に忍び込もうとしていたのですか?」
「自分のやっていることを棚に上げて何を言うのだ。お前たちの罪ほど重いものではないぞ。
それに私の場合は、側近がここへ忍び込んだので、それを探しに来てお前たちを目撃したと言ってもいいのだ。側近が罪を被って処されるまでだ」
「なんとひどいことを。皇太子はその地位を利用して側室たちの部屋に忍び込んでいるという噂があるのです。今夜のことを話せば、どこかで殿下の罪も曝かれますよ」
ウルコは嗤い出した。
「噂に過ぎぬ。みな私についてろくな噂を立てないので私は苦労しているのだ」
そう言うと、いかにも困ったように眉間に皺を寄せてみせたが、やはり可笑しくてたまらないという風に、また嗤い出した。
そしてクシの襟首を掴み上げ、憎々しげに睨みつけた。
「私の心配をしている場合ではないぞ。この事態をどうすればいいだろうな、クシ。
お前に期待している者たちは、さぞがっかりするだろう。偉そうなことを並べて人を信用させていた者が、蔭で皇帝の側室をたぶらかしていたとは。皆、裏切られたと激怒するだろうな。
それに……」
ウルコは首を伸ばし、クシの肩越しに彼の後ろに立っているキヌアを覗いた。
「その側室の罪はお前よりも重いぞ。皇帝を欺いて他の男と通じた罪は何よりも重罪だ。死罪は免れないだろう。ただの死罪ではない。もっとも軽いものでも、裸で街中を引き摺り回し、最期は生き埋めだ」
「待ってくれ!」
クシはウルコの手を振り払うと、キヌアを庇うように抱き寄せた。
「私はどんな罰を受けても構わない。どうかキヌアだけは赦してほしい」
今まで平静を保っていたクシが動揺する姿を見て、ウルコは心の中でほくそえんだ。今こそクシを追い出すチャンスだ。
「それほどまでにその女が大切か。まあ、私も悪魔ではないからな。ひとつだけ救う道を与えてやろうではないか。
お前は今夜のことを誰にも話さずに都を出て行くのだ。東の別荘に療養に行くとでも言って、クスコから出て行け。そして二度と戻ってきてはならぬ。そうすれば今夜見たことは無かったことにしてやろう。その側室も罪に問われることはない」
クシが頷こうとすると、キヌアがクシの腕を掴んで言った。
「クシ、私が罪を償うわ。でもあなたは駄目。あなたに期待している者達を裏切ってはいけない。
クシのために命を捧げられるなら、私は幸せだわ」
「キヌア、貴女だけに罪を着せて私が平気でいられると思うのか。そんなことは決して望まない。都を出たからといって生きていけないわけではないのだ。そのくらいで済むのならその方がいい。
それに……」
クシはキヌアに耳打ちした。
『生きてさえいれば、誓いは必ず果たすことができる』
クシはキヌアから離れると、ウルコを見据えて言った。
「わかりました、殿下。私は都を出ていきます。その代わり今夜のことを誰にも言わないと神に誓ってください。そしてキヌアの罪も問わないと」
「ああ、よかろう。私はお前さえいなければそれで満足なのだ。お前の不在に今夜のことを話したとしても別段面白くはないからな」
勝ち誇ったようにウルコは高笑いした。
突如、クシが都を出ると言い出したので、アマルとリョケは驚いてクシを問い詰めた。
「何を言い出すのだ! お前はハナンの者たちの期待を裏切るのか。われわれはお前を皇帝に据えることを期待し、尽力してきたのだ。今やりかけている砦の工事はどうなるのだ。自ら協力者を募っておきながら、途中で投げ出すとはあまりにも無責任ではないか!」
当然のことながらふたりは激怒し、ハナンの貴族たちの怒りも免れないだろうと責め立てた。
「どうか、今は理由を聞かずに行かせてください。でもワイナを伴って行きます。彼にクスコとの連絡を取ってもらうようにします。クスコに何かあればすぐに戻ってきますから。
工事の方の体制は整っています。私がいなくてもうまく回っていくでしょう。兄上たちには彼らの監督をお願いしたいのです。それから、キヌアの教室のほうにも力を貸してやってください。あの教室でひとりでも多くの戦士を育てていくことには重要な意味があります」
散々文句を言っていたふたりだが、真剣にそう告げてから兄たちの前に跪き、床に頭を擦り付けるクシの姿を見て黙り込んだ。クシが口を閉ざすとは、よほどのことがあったのだろう。兄たちは段々と怒りがおさまって、逆に何か重要なことを必死で隠そうとしているクシが憐れに思えてきた。
「……理由を聞くことはできないのだな。どうやらお前も不本意のようだ。これ以上、引き止めるのは無理なのだろう。
あとのことは引き受けた。しかしクスコに何かあればすぐに喚び戻す。そしていつかは必ず王座に就いてもらうからな」
アマルとリョケの前に跪いたまま、クシは深く頷いた。
数日後、クシはワイナとともにクスコを出発した。
街の人々はふたりが狩りにでも出かけるのだろうと思い、「どうぞお気をつけて」と気軽に声をかけてきた。
東の渓谷に向かう道に続いている橋を渡ろうとしたときに、後ろからティッカが追ってきてクシを呼び止めた。
「クシさま、キヌアさまから言付かってきた物がございます」
ティッカは小さな布の包みを開くと、中身をクシに見せた。黒曜石を鋭く尖らせた刀身を硬質の木にしっかりと括りつけたナイフが出てきた。キヌアが彫ったものなのだろう。
ティッカはそれを手渡して、深々と頭を下げた。
「クシさま……私が余計なことをしたばかりにクシさまもキヌアさまも追い詰めることになろうとは……。私はただ、キヌアさまの想いが伝わってほしいと願っただけなのです。
それにあの夜、私が番をさぼらなければこのようなことには。どうか……どうかお赦しください……」
ティッカは深くうな垂れ、嗚咽しながらようやく言葉を紡いだ。クシはティッカの肩に優しく手を置いて、その顔を覗きこんだ。
「何を言っているのだ。私はティッカに感謝している。ティッカが引き合わせてくれたから私は彼女に想いを伝えることが出来た。彼女と想いが通じていることが何よりの幸せなんだよ。
あの夜は、例えティッカが番をしていたとしても、侍女が皇太子を止めることなどできなかったであろう。仕方のないことなのだ。
キヌアに『ありがとう。いつか必ず迎えに来る』と伝えておくれ」
ティッカは少し顔を上げて「はい」と小さく答えたが、すぐにまた深く頭を垂れ、クシを送った。