6、 星空の誓い (その1)
6、星空の誓い
ある新月の晩、ティッカは外廊の石の柱に寄りかかって、うとうとと居眠りをしていた。
はっと気付いて視線を上げると、正面に見える高い塀を軽やかに乗り越えて、誰かがティッカの方へ走ってくる。暗くて顔はよく見えないが、がっしりと逞しい体つきをした青年だ。青年はティッカの前にやってくると、そっと手を差し伸べた。
(さあ、一緒にこの国を出よう)
ティッカが戸惑っていると、青年は無理やり彼女の手を掴んで引き起こそうとした。
(待って。キヌアさまを置いてはいけない!)
自分の叫び声に驚いて、ティッカは目を覚ました。
辺りはしんと静まり返って誰かがいる気配はない。
少し離れたところに見えるキヌアの部屋の窓からはぼんやりたいまつの灯りがもれているが、ほかの部屋や廊下には誰もおらず、みな暗闇に沈んでいた。
こんな風に廊下でひとり、番をする新月の夜をいくつ迎えただろうか。
新月の晩はキヌアの部屋にクシがやってくる。そのときティッカは番兵にいろいろと理由を付けてはキヌアの部屋の前から立ち退かせて、代わりに自分が番をしているのだった。
クシを待つときのキヌアは本当に幸せそうだ。少女のように無邪気に目を輝かせて、そわそわと落ち着かない仕草で彼を待っている姿がいじらしくも思える。
初めのうちはそんなキヌアの様子を見ているだけで幸せな気持ちになれたのだが、いつの間にか自分にもそんな幸せがやってきてほしいと望んでいたらしい。少しキヌアに妬いているのかもしれない。
ふと、先ほどの夢のなかの青年が見知った顔に似ていたことに思い当たる。
(私はなんて身の程知らずなことを……)
誰も見てはいないのに、ティッカは真っ赤になり、折り曲げた膝の上に額を押し付けた。
(今まで誰かがここを通ったためしはないわ。私がいなくても大丈夫よね)
急に疲れを感じたティッカは、ほかの侍女たちと共有している大部屋に戻って休むことにした。
ウルコは自分の宮殿で眠れない夜を持て余していた。数人の侍従が眠い目をこすりながら仕方なくつき合って、石の盤に刻まれた溝に小石の駒を進めていく、すごろくのようなゲームに興じていた。
「退屈だのう。何か面白いことはないだろうか。父上の側室たちの顔も見飽きたしなあ」
ウルコは突然ゲームを止め、駒の小石を手でもてあそんで溜め息を吐いた。もうゲームなどにまるで関心はなかった。
「ウルコさま、今夜は天気が良いようですので、表に出て星空でもご覧になったらいかがでしょう」
ウルコの機嫌がこれ以上悪くなるのを恐れて、侍従のひとりが苦し紛れにそう勧めた。
ここ数日、雨季の長雨が続いていたが、その夜は久々に良い天気だった。澄んだ空には降るような星空が広がっている。星を眺めても大して面白くはないだろうが、ほかにすることも思い当たらないウルコはとりあえず表に出てみた。
ウルコの宮殿は、皇帝の住む本宮殿と向かい合わせになるように建てられている。正面を出ると一段高い位置にある皇帝の部屋がよく見えた。
「おや、珍しく父上がお部屋にいらっしゃるようだな」
毎夜、皇帝はキヌアの部屋にいるので、いつもは皇帝の部屋の前には番兵がいるだけで人が出入りする気配はない。しかしその夜は、入り口にたいまつが煌々と照らされて、召し使いたちがせわしなく出入りしていた。
「陛下は、新月の夜はいつもお部屋にいらっしゃるようですよ」
「ということは、あの蛮族の娘は今ひとりか」
ウルコは急に楽しげに片眉を上げた。
「殿下、お戯れはお止めください!」
侍従のひとりが、ウルコの考えていることを察して注意した。そして最初に口を滑らせた侍従を肘で突付いた。突付かれた侍従は、はっと気付いて口を押さえたが遅かった。
「父上が陶酔している娘の顔を間近に眺めることが出来るかもしれぬ。こんな退屈しのぎはないぞ」
これまでも、ウルコが側室の部屋に忍び込んだりクスコの街で暴れたりするたびに、その尻拭いをさせられてきた侍従たちは、うんざりとした顔でお互いを見た。
ここのところ騒ぎを起こすこともなく平和な日々を過ごしてきたというのに、またウルコの悪い虫が騒ぎ出したのだ。
「殿下、キヌアさまだけはお止めください! 皇帝陛下が一番大切にされているお方です。いくら殿下とはいえ、どんなお咎めがあるかわかりません」
「何、あの様子では、父上は今夜は部屋から一歩も出ないだろう。見つかりはしない」
言うが早いか、ウルコはさっさと本宮殿の門をくぐって行ってしまった。侍従たちがあたふたとその後を追いかけた。
「クシ、星を見に行きましょう」
クシの胸にもたれかかっていたキヌアが顔を上げて高窓を見て言った。
「そういえば、今夜は久しぶりに星がきれいに出ているな」
クシも高窓を見上げる。雨季に入ってから、雨や曇りが多くてこんなに澄んだ星空になったのは久しぶりだった。
特に新月の晩は天気が悪いことが多く、クシがやってくるときにはいつも夜空に霞がかかっていた。
「高台に上ったら、きっときれいに見えるわ」
キヌアは立ち上がってクシの手を引いた。
ふたりは小さなたいまつに灯りを移すと、抜け穴から宮殿の外に出た。
誰にも見つからないように足音を忍ばせて街の中を通り抜けていく。
すでに誰もが寝静まった時間で通りに人の目はないが、簡素な上衣と腰布だけの男と、髪を垂らして帯も巻かない夜着姿の女が、仄かなたいまつの明かりをかざしてすうっと通り過ぎていくさまを見た者がいたとしたら、おそらくふたりを幽霊か精霊ではないかと勘違いしただろう。
密やかに街を通り過ぎ、都の外へと続く橋を渡り、小高い丘を上る。
丈の短い柔らかい草に覆われた丘は滑りやすく、手を取り合いながらようやくのことで頂上に着くと、ふたりは並んで腰を下ろし、天空を見上げた。
たいまつの灯りを消すと、いまにもこぼれ落ちてきそうな満天の星が現れた。
空をぎっしりと埋め尽くす星の数があまりにも多く、小さなものは複数で固まって光を発し、その姿をひとつひとつ見分けることなどできない。
彼らの正面から中空を通りその背後へと、いちばん多くの星が集ってひときわ白く輝く『星の帯』が続いている。河の流れようなその白い帯を中心として、夜空全体が自ら鈍い光を放っているように白々としている。薄明るく輝く夜空を背景に、大きな星はその手前でさらに眩しい赤や青や黄の光を放っていた。
キヌアが空を仰ぎながら呟いた。
「幼い頃から思っていたわ。星って、生き物の眼のようだって」
「あれがすべて眼だって? それは不気味だな。あんなにたくさんの眼がいっせいに私たちを見つめているのか?」
「ええ、私たちを無数の生き物が見張っているの。だから、星の下で嘘をつけばすぐにばれてしまうわ」
キヌアはまるで本気で信じているように言う。クシはついおかしくなって笑いながら言った。
「そうだな。そう考えると、ぜったいに嘘はつけない!」
突然キヌアはクシの肩を掴んで後ろへと押し倒した。
仰向けになったクシの身体を力強く押さえつけて、キヌアはクシの鼻先に息がかかるほどに顔を近づけてきた。彼女の長く波打つ髪がクシの周りに降ってきた。
掠れた声でゆっくりと彼女は囁きかける。
「逆を言えば、星の下で話したことはすべて本当になるのよ」
キヌアは怖いくらいに真剣な表情をしていた。つられてクシも真顔に戻って彼女を見上げた。
「……クシ、あなたが私を知るよりも早く、私はあなたを見ていたわ」
「成人の儀のときに?」
「そうよ。あの日、白い羽根を付けた勇敢な皇子に一瞬で心を奪われてしまったの。
それまで私は絶望の淵にいたわ。クスコに嫁ぐことは故郷を守るための生贄になることだと思い、その後は心を殺して生きていくのだと覚悟を決めていたの。
でも成人の儀であなたに惹かれ、あなたの傍で暮らせれば幸せだと思い直したのよ。
その晩、私は星空に願ったの。あの白い羽根の皇子の傍にいられるようにと。
それは本当になったわ」
「怖いな。私は知らないうちに貴女の願いと星の魔力に引き寄せられていたというわけか」
「その通りよ、クシ。
それから……リュウゼツランにまじないをかけて、あなたを西の地から喚び戻したのも、この私……」
キヌアは薄っすらと笑みを浮かべた。クシをからかうつもりなのか、それはまるで彼を嘲笑うような表情だった。
キヌアが何故そんな話を切り出したのか真意を量りかね、クシはしばらく黙って彼女の顔を見つめていた。
次第にその笑みが少し哀しげな色を帯びてくる。僅かな星明りの下でも、クシにはその微妙な変化が見て取れた。
「……でも、まさか想いを伝えることまでできるとは思わなかった。逆に、願ったとおりになっていくことが今はとても怖いの。
クシ、私はこれからもずっとあなたの傍にいられるのかしら? 皇帝の側室でありながら、あなたを愛していくことは大きな罪ではないのかしら……」
彼女の声が震えているのが分かった。クシの頬に小さな雫が降ってきた。クシはそっと手を伸ばして彼女の下瞼をなぞった。
「キヌア、星の魔力が消えても、私の気持ちは変わらない。
心配しなくていい。私はこれから先も貴女の傍にいる。それに、私が皇帝であれば貴女は罪の意識など持たなくて済むだろう。時間はかかるかもしれない。でも私は必ず皇帝になって貴女を后に迎えると、この星の下で誓うよ」
クシの指が掬いきれない雫がいくつもこぼれて彼の頬を濡らしていく。キヌアは最後にきつく眼を閉じて大粒の雫を眼から搾り出すと、再び眼を開けて泣き笑いのような表情を浮かべた。
「分かったわ。わたしはあなたを信じて待つことを誓う。星の下で誓ったんですもの。あの眼たちが証人よ」
そう言うとクシに顔を寄せて軽く口付けをした。再び顔を離したキヌアにクシは困ったように言った。
「貴女は本当に怖い人だ。破ることのできない誓いを私に立てさせるために、わざわざここへ誘ったのか」
自分を押さえつけていたキヌアの両腕を掴むとクシは、今度は彼女の身体を反転させ、上からその両肩を押さえつけた。先ほどと逆の体勢になって、クシがキヌアの顔を覗きこむ。
「どこで誓ったとしても同じだ。今の言葉に決して嘘はない。ずっと思っていたことだ」
先ほどよりも深く長い口付けを落とし、クシはキヌアの身体をしっかりと抱きしめた。
ふたりはお互いの誓いを確かめるように、星空の下でひとつに溶け合った。重なるふたつの影の上に、耀く夜空からぱらぱらといくつもの星が舞い降りてきた。
チリのアタカマ高地で見られる星空は、物凄い数の星で夜空全体が白く輝いているようなのだそうです。
インカの人々は、星の数が多すぎて『星座』を作るという発想が生まれず、逆に星の中に見える暗黒星雲の形を動物になぞらえて見ていたそうです。
次元の違う話ですね。