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3、 戦士の娘

3、戦士の娘



 キヌアは重いショールをうらめしそうに眺めていた。立ち上がると首に幾重にも重ねられた装飾品が肩に食い込んでくるようだ。自分はまるで縄で縛られた家畜のようだとさえ思う。高窓の向こうに広がる青空を見つめて長い長い溜め息をついた。


『姫さまのお気持ちも分かりますが、もうキリスカチェの生活はお忘れになって、早くクスコの生活に慣れることです』


 ここに来てからというもの毎日同じ溜め息を聞かされている侍女のティッカが諭した。


『ティッカはもうここに慣れたというの?』


『ええ、ここもなかなか楽しいところですよ。それは故郷で高原を走り回っていたときのような開放感は得られませんが、ここには本当にいろいろな人間がいて、毎日新しい発見がありますから』


 ティッカは、キヌアがキリスカチェにいたときから仕えている娘だ。王女と侍女の間柄とはいえ、キリスカチェは上下関係に厳しくないため、まるで親友か姉妹のような関係だった。

 ティッカにも、今までの自由を奪われ狭い空間に閉じ込められてしまったキヌアの憂鬱は痛いほど分かっていたが、キヌアに早くクスコの生活に慣れてほしくて、無理に強がって見せた。


『どこへ行ってもすぐに慣れるあなたがうらやましいわ。私はこの数日でもうすっかり年を取ってしまったような気がする……』


 ティッカの慰めの言葉も虚しく、キヌアはさらに長い溜め息をついた。



 婚礼の日から数日が経った。あの日身に纏っていた毛皮はその日のうちに取り上げられて、代わりにひどく重い分厚い布を体中に巻きつけられてしまった。足くびまである長いスカートが脚に絡み付いて前に進むことさえ儘ならない。いつも後ろにきつく束ねて持ち上げていた縮れっ毛を無理やり引き伸ばして垂らしているため、首や体にまとわりついて鬱陶しいことこの上ない。

 さらにキヌアに与えられた部屋は四方を石で囲われて穴ぐらのようだ。陽の光は常に一筋しか差し込んでこない。寝るときにしか建物の中に入らなかったキリスカチェの生活とはまるで違っていた。

 儀式のときに大広間で顔を合わせた皇帝とは、それ以来まったく会うことはなかった。


『何もお部屋の中に閉じ篭っていることはないのですよ。せめて外に出てみてはいかがですか?』


 心配してティッカがいろいろと提案をする。


『こんな服を着ていては走るどころか歩くことさえ儘ならないわ。この髪も邪魔で仕方ないし。それに外に出ようとすると番兵がいちいちどうしたのかと聞いてきて、面倒なのよ』


 あのはつらつとしたキヌアが数日で変わってしまったことに、ティッカのほうが溜め息をつきたくなった。


『キヌアさまは皇帝のお后なのですよ! 番兵が何と言おうと自由に行動していいんです!』


 そう叫んでティッカはキヌアのショールを剥ぎ取ると、強引に手を引いて部屋の外に連れ出した。

 案の定、番兵がどうしたのかと聞いてきたが、ティッカは「あなたごときに関係のないことです!」と言い切って取り合わなかった。番兵があっけに取られているのを見て、キヌアは小気味良くなってケラケラと笑い出した。


 迷路のような宮殿の通路を走り抜けながら、ふたりはスカートの裾をビリビリと裂きはじめた。そして切り裂いた布を使って長い髪を束ねあげる。スカートの裾が無くなり、邪魔な髪を纏めると、カモシカのように軽やかに動けるようになった。故郷の高原を走り回っていた懐かしい感触が蘇ってくる。

 やがて狭い通路が途切れ広い中庭へと出た。中庭は青々とした草が生えているだけで、ほかに何もない空間だった。普段貴族たちが武術の練習のために使っている場所だ。

 ふたりは大声で笑いながら中庭の真ん中に走りこんでいって勢いよく転がった。倒れこんだ衝撃でたくさんの草がふわっと舞い上がった。草まみれ土まみれの格好でそのままゴロゴロと転がりながらふたりは笑い続けていた。


『ああ楽しい! そうよ、私は皇帝の后なんですもの! どんなことをしても許されるはずだわ! ねえ、ティッカ』


『そうです。キヌアさまはそうでなくては』


 ようやくいつものキヌアに戻ったのを見て、ティッカは嬉しくなった。中庭はかなりの広さがあるが、周囲を石の建物に囲まれた限られた空間だ。しかし今まで石壁の中に押し込まれていたキヌアにとって久しぶりに味わう開放感だった。

 

 ひゅううう


 そのとき空を切る音がして何かが飛んできた。幼い頃から武術の訓練を受けてきたキヌアは、とっさに身を翻してそれをかわした。その『物』は、キヌアのすぐ後ろに落ち、ボコッと鈍い音を立てて土ぼこりを舞い上げた。それは狩猟や戦いで使われる綱の両端に石をくくりつけた(ボーラ)と呼ばれる武器だった。誰かがキヌアを狙って投げたのだ。

 キヌアは素早くそれを拾い上げ、瞬時に投げた相手がいる方向を見定めて投げ返した。その一瞬でキヌアには自分を狙った敵の影が見えていた。やがて広い中庭のはるか向こうで小さな人影が動くのが見えた。


「何者!」


 ティッカがキヌアを庇うように立ちはだかると、大声で叫んだ。

 小さな人影は観念したのかゆっくりとこちらに近づいてきた。ティッカはキヌアを守りながらその人影に目を凝らす。次第にその姿がはっきりしてくると、ティッカが驚きの声を上げた。


「クシ皇子!」


 片手でボーラをくるくると回しながら近づいてきたクシは、名を呼ばれてその場に立ち止まった。


「私を知っているのか?」


「聡明で有能と名高い皇子のことは聞き及んでいます。その皇子がこのような悪ふざけをなさるとは! しかも皇帝陛下のお后を狙うなどと正気の沙汰ではありませんよ。それともこれがクスコの流儀なのですか!」


 ティッカは憤慨して、まくし立てた。


「さすがはキリスカチェの戦士だ。私はその腕前を見たかった」


「だからといって寛いでいるところを狙うとは何と卑怯な!」


 ティッカは怒りでワナワナと震え出した。キヌアはティッカを落ち着かせようと、彼女を優しく抱えるようにして自分の横に立たせた。


「皇子、どういうことです?」


 まだ覚えたてのクスコの言葉を思い出しながら、キヌアはクシに直接問いかけた。

 ケチュア族の者が遠縁にいるティッカはクスコの言葉にも精通している。だからティッカが通訳も兼ねてキヌアの供をしてきたのだ。しかしキヌアはここに来てはじめてクスコの言葉を覚えた。簡単な言葉なら聞いて理解できるほどにはなったが、話すのは容易ではない。


「戦士の実力は不意を狙われたときに発揮される。

 キリスカチェ族は老若男女誰もが優れた戦士だと聞いている。その中でも特に(天の女王)の娘は有能だと……」


 クシが回していたボーラを止めると、その腕に血が滲んでいるのが分かった。キヌアの放ったボーラはクシの腕をかすっていたのだ。相手の顔も分からないような距離でキヌアは命中させるでもなく外すでもなく絶妙なタイミングで相手に狙いを定めていたのだ。相手が敵だと確信できていれば間違いなく急所を狙っていただろう。


「私を試して何を……」


「別に何も……。ただ有能なキリスカチェの戦士の技をこの目で見てみたかっただけだ。

 ついでに、成人の儀で私を探っていた理由も知りたかった」


 キヌアはさっと表情を変え、隣のティッカを振り返ると肩を竦めて見せた。


「気づかれていたのね」


 ようやく落ち着きを取り戻したティッカがキヌアに代わって説明した。


「キヌアさまは婚礼の前にクスコの様子を見に来られたのです。ちょうどケチュア族の成人の儀が行われており、あの儀式でいまのケチュアの軍事力を窺い知ることもできました」

 

「それでどう思われた?」


 キヌアは視線を下に落としてしばらく考えていたが、顔を上げると口先でふふっと嗤って言った。


「まるで子どものお遊戯のようだった」


「キヌアさま!」


 歯に衣着せぬキヌアの言葉に、ティッカがハラハラしながらキヌアとクシを何度も交互に見た。クシは唖然としてキヌアを見つめた。キヌアは構わずに続ける。


「キリスカチェではあれくらいの試練に耐えられない弱い者は生き残れない。ケチュア族は平和な一族だ……」


 それを聞いてクシは大声で笑い出した。


「やはり君は素晴らしい戦士だ。クスコにはそんな疑問を持つ人間はひとりもいないよ。……そう、この国は平和に慣れすぎて本当の試練を知らないんだ」


 笑ってそう言いながら、最後には悔しそうに目を伏せた。


「この国ではあなたは変わった存在ね。儀式の内容はともかく、あなたの能力には感心した」


「いいや。私は未熟だということが今日よく分かったよ……」


 クシが腕を押さえた。さっきボーラを回していた腕が腫れあがっている。キヌアの投げたボーラはクシの腕にかすり傷だけでなく、かなりの衝撃を与えていたようだ。


「まあ、手当てを!」


 ティッカがクシの腕を取ろうとしたが、クシは体をねじって腕を隠してしまった。


「このくらい、大丈夫だ。

 敵が反撃できないように、あの距離で、そして一瞬で確実に腕を狙うことができるとは。そんな戦士が存在するとは思わなかった。

 お願いがある。どうか私にキリスカチェの武術を指南してほしい」


 クシはキヌアの正面に来て跪き、頭を下げた。


「そんなこと、無理です。キヌアさまはケチュアとキリスカチェの架け橋となるために皇帝陛下に嫁いできたのです。皇帝陛下の許可無く勝手なことができるはずないじゃないですか!」


「ほう。勝手に部屋を抜け出し、服を破って、宮殿中を飛び回ることは陛下が許したというのか?」


 ティッカは「うっ」と唸ってキヌアを見た。キヌアはケラケラと笑い出した。


「皇帝は……父上は何も言うことはできまい。君を后に迎えたものの、年老いてすっかり臆病になってしまった父上は、勇猛な戦士である君もキリスカチェ族も怖いのだ。

 それに君も、これから毎日宮殿の中に篭って暮らしていくことなどできるのかな?」


 キヌアは暗い石壁の中でじっとしている自分を想像して吐き気がしそうになった。


「わかった。その話、受けましょう」


 クシの顔が輝いた。


「その代わり途中で逃げ出すことは許さないわよ」


 久しぶりにキヌアの目が戦士の鋭い光を宿した。


「キヌアさまがここで活き活きと暮らすにはそれが一番良い方法でしょうね……」


 ティッカはそう言って苦笑いするしかなかった。





 


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