4、 鷹の砦 (その1)
4、鷹の砦
「クシを知らないか?」
リョケが朝稽古に顔を出して近くにいた指導者を呼び止めて訊いた。
「それがここ数日、いらしていませんね」
「そうか。このところ日中は宮殿にいないようなので此処なら会えると思ったが……。至急話したいことがあるのだが、困ったな」
しばらく稽古の様子を眺めていたリョケは、キヌアの手が空いたのを見計らって彼女のところに行き、同じ質問をした。
「……知らないわ」
彼女は不機嫌そうに短く答え、ふたたび指導に入ってしまった。
クシがキヌアの部屋を訪れてのち、クシは一度も朝稽古に顔を出していない。お互いの想いが通じたからこそ普段どおりに接することが難しいと感じていたキヌアは、クシが来ないことで救われていた。
余計なことに気を逸らさずに稽古に打ち込めると思っていたとき、突然クシのことを訊かれて、彼女は戸惑った。動揺を悟られないために、素っ気ない返事でやり過ごすしかなかったのだ。
もちろん、そんな経緯や複雑な心境があることなど誰も知らない。
「何か、随分と面白くなさそうだな……」
リョケがキヌアの態度を見てそう呟くと、先ほどの指導者が彼なりの憶測を述べた。
「クシさまに負けてからずっと苛立っておられるようですよ。今までキヌアさまが誰かに徹底的に負かされることなどありませんでしたからね。よほど自信を砕かれてしまったのでしょう。あまりクシさまのことには触れないほうがよろしいかと……」
同時にキヌアに合わせ稽古を挑む生徒たちの短い悲鳴がつぎつぎと聞こえてきた。
大勢の生徒が一列に並び、順々にキヌアに挑んでいくのだが、いともたやすくいなされ、自らの勢いで転んでしまう者や、軽く叩かれて蹲ってしまう者ばかりだ。
リョケには、キヌアはいつもどおり十二分に手加減をしているように見える。違うのは、いつもは優しく声を掛けるキヌアにいっさい笑顔が見られないことだ。その鋭い視線を真正面で受ける生徒たちは、それだけでひどく緊張し、うまく斧が振るえないらしい。
「あのくらいでひるむようでは戦場では役に立たん。優秀な戦士を育てるにはキヌアの機嫌を損ねるのがいちばん手っ取り早いかもしれんな」
そう冗談を言って笑ったあと、リョケはふと先だってのクシの言葉を思い出した。
―― ひとつは都の周囲の防衛を強化すること。次に戦える者を多く育てること…… ――
「そうか! クシの居所に思い当たったぞ」
突然そう叫んで、リョケは慌ただしく中庭を立ち去ってしまった。残された指導者は呆気にとられてリョケの後姿を見送った。
クシは、丈の短い乾いた草が強い風になびいている小高い丘の上に立っていた。
辺りはところどころに大きめの石が無造作に転がる草地だ。その周囲を広く囲むように巨石を組み合わせた立派な石垣が長々と続いている。つまり頑丈な石垣に囲われた広大な広場のような場所だ。周囲を取り囲んでいる石垣は直線ではなく、ギザギザとした獣の牙のような形になっている。
そこは古代の祭祀場の址と言われる神聖な場所だ。荘厳なその石垣に囲まれた空間では、歴代の皇帝たちの即位式も行われてきた。
何段にも重ねられた石垣の最も上の段に登ると、そこからは麓の風景が一望できた。眼下に広がるのはクスコの都である。
太陽を背にして北の方角から都に向かって立つ。
クシの立つ丘の両脇から、ふたつの河が左右に迫った山の裾をなぞるように、まっすぐに南へと流れていく。河は遥か彼方で合流し、ひとつの流れとなってさらに南東の山間へと続いていく。二つの河の間の、縦長の歪な三角形の土地に発展したのがクスコなのだ。
東から昇りはじめた太陽は、やがてこの丘の中空にやってきて都に満遍なく光を注いでいく。だからこそ遥か昔からこの場所が神聖視されているのかもしれない。
その場所は鷹の丘とも呼ばれていたが、石垣の上に立って都を見下ろしたとき、クシはその名に得心がいった。
そこからの眺望はまさに天空を飛ぶ鷹の目のそれだ。丘からの鳥瞰は都の隅々までを余すところなく映し出していた。
クシはただその景色を愉しみに来たのではない。真っ直ぐに指を向け、都の形をなぞっていく。
東から南に向け、南を通り、西を回る。三方には山が迫り、その下には河が流れ、それらが天然の要害となる。数箇所に渡された橋を渡らなければ都へ入ることはできない。
ここ数日実際にその川沿いを歩きその足でも確かめてきたのだ。
残る鷹の丘だけは、北側の大地から都に行きつくまでに何も遮るものはなかった。この奇妙な形の石垣が障害となるだろうが、それも河に比べれば大したものではない。そのうえ石垣は途中で途切れ、その隙間に遮るものはまったく無い。
クシは敵の侵入を想定して都の周辺の地理を調べていたのだ。
今まで部族間の争いといえば、ほとんどがそれぞれの領土の境界線をめぐる争いであったが、西の地で聞いた噂の部族は、他部族の土地を奪い取ることに執着しているようなのだ。まだ敵の影が見えないうちに、都の護りを固めておくことは決して取り越し苦労ではなかった。
クシは上段の石垣のへりに胡坐をかき、今まで調査したことを整理して良い策を搾り出すために静かに瞑想した。
「危ないわ。降りていらっしゃい!」
突然、下から響いてきた高い声にクシの思考が遮られた。目を開くと石垣の下でひとりの少女がこちらを見上げていた。
長い腰巻スカートに鮮やかな柄の帯、厚い肩掛けを羽織り、その端を金属のピンで留め合わせたその姿は貴族の娘のものだ。細かく分けて編まれた三つ編みの束がいくつも肩に掛かっている。三つ編みの先に付いた薄紅色の石の飾りを揺らしながら少女はまた声を張り上げた。
「話があるのよ。降りていらっしゃいよ!」
何故か彼女の声色に刺々しさを感じる。否定は許されないような雰囲気を感じ取って、クシは仕方なく立ち上がった。
かなり高さのある石垣を、足場を探しながら鹿のようにぴょんぴょんと渡り、あっという間に少女の前に降り立った。
少女は先ほどの声と同じく、険しい目をクシを向けた。
長いスカートの裾が泥で汚れている。動きにくいその格好でこの丘の急斜面を必死で上ってきたのだろう。それほどまでに重大なことを伝えに来たのだろうか。
「暢気なものね。わたくしは貴方のせいでひどく迷惑しているというのに」
「ええ、と。一体どちらの姫君でしたか?」
クシはその話を聞く前に、まず少女が誰なのかを確かめねばならなかった。少女はまた高い声を張り上げた。
「呆れた! 幼いころ、散々からかって遊んだ妹の顔を忘れたというの?」
「……アナ? アナワルキか?」
クシと、兄弟姉妹のなかでは年の近いアナワルキは、幼い頃いつも一緒だった。
正しくは仲間と遊ぶクシの後をアナワルキが一方的に付いて回っていたのだが。三つほど年下ではあるが、アナワルキにとってクシは仲間であり、時にライバルとして見ていた。
ときどきそんなアナワルキを足手まといに思ったクシが、わざと身を隠して意地悪を働くことがあった。しかし気の強いアナワルキは泣き喚きながらも必ずクシの姿を見つけ出したものだ。
仲が良いのか悪いのか分からないが、そんなことには関係なく常に一緒にいたふたりだった。
しかし今のアナワルキをクシが分からないのも無理は無い。幼い頃は一緒であっても、十になる前に男子は武術や学問を習得するために、女子は貴婦人としての所作を身につけるために、その生活を分かたれてしまったからだ。
「ようやく分かったのね。
良いこと、クシ。幼い頃は確かに貴方の後ばかり追いかけ回していたけれど、流石に大きくなってまで貴方の後を付いて回ろうとは思わないわ」
「何のことだ?」
「貴族や神官のあいだで、わたくしがクシの后になるという話が広まっているのよ。クシは知らなかったのかしら」
「いや、まったく知らなかった」
「わたくしがリョケお兄さまにそのことを訊ねたら、直接ふたりで話をするようにと言われて、此処に貴方がいることを教えてくださったのよ」
アナワルキは服の裾を払いながら深い息をひとつ吐いた。
革命を起こすと意気込んでいたハナンの貴族たちは、クシの説得によってその矛先を失った。それならばクシを皇帝に立てるために先ず相応しい后をあてがおうと考えたのだ。
皇妃に相応しい皇族であって、さらに年が近いという条件を鑑みれば、自然とアナワルキの名が浮かぶ。
「わたくしはクシの后になるつもりはないわ!
わたくしにはずっと前から想う人がいるの。でもその方にはすでにお后がいらっしゃる。皇女たるものが、側室に身を貶すなど考えられないわ。そこでわたくしは一生その方を想って独り身を通そうと心に誓ったの。独り身で通すなら、神殿の巫女になるのが一番よね。だからわたくしは神殿に仕えようと思っているの。
こんな話が持ち上がらなかったら、わたくしは神官にそのことを願い出るつもりでいたのに」
言葉遣いや所作はだいぶ貴婦人らしくなり、恋の真似事なども覚えたらしい。しかし実際にそぐわない突飛な発想をするところなど、背伸びをしてもまだまだ幼さが抜け切れない妹の姿にクシは思わず微笑んだ。
クシに張り合おうと必死になって追いかけてきた勝ち気な妹の姿がありありと蘇ってくる。
「恋が叶わないから神殿の巫女になるという話はもう少しよく考えたほうがいいと思うが、私はアナを后に迎えるつもりはないよ。それどころか今は后を迎えることなど考えられない。宮殿に帰ったら勝手に話を持ち上げた貴族たちに私からよく言っておこう」
「良かったわ! だってわたくしがクシの后だなんて、想像がつかないもの!」
アナワルキは口に手を当てて『ほほ…』と小さく笑った。しかし泥だらけのスカートの裾が彼女らしさを物語っている。
「折角だからアナ、とっておきの話を教えてあげよう。付いておいで」
クシは石垣に登らなくても、クスコの街を一望できる場所までアナワルキを連れていった。
「ここから都の形をよく見てごらん。この丘は頭、南で二つの河がひとつに重なる流れは尾、西側の山が途切れる辺りは脚、そして都の中心は胴体だ。この都は跪いて太陽を見上げるピューマの形をしている。私たちは今、巨大なピューマの頭に乗っているのだ。クスコは巨大な獣神に守られている。
私はいつかこの都の形を整えて、獣神の姿を美しく蘇らせたいのだ」
アナワルキは活き活きと話すクシの姿を少し醒めた眼差しで見つめた。
「いつかクシの奥方になる方は大変ね。いつまでも幼い頃のように大きな夢ばかりを追っている貴方に付いていかなくてはならないんですもの。その方に同情するわ」
そんな憎まれ口をききつつも、アナワルキは幼い頃と変わらない壮大な夢物語を語る兄の姿を懐かしんでいた。この兄はいつか幼い頃の夢を本当に実現させてしまうのかもしれないと思うのだった。