3、 革命前夜
3、革命前夜
アマルの屋敷に増設された大広間は、宮殿のそれと比べても見劣りしないほど立派なもので、数十名の貴族たちが一同に会しても十分に余裕があるほどだった。
その立派な大広間はいまや、クスコの暗部でこの国の在り方を根底から覆そうとするハナンの貴族たちの溜まり場となっており、毎夜、怒号とともに過激な議論が飛び交うようになっていた。
仲間が寄れば寄るほど始まりは温和だったはずの集会が極端な方向に傾き出し、やがてそこに集うのはすぐにでも武器を手にして飛び出していきそうな血気にはやる者たちばかりとなっていた。
しかし、その夜は珍しく穏やかだった。いつにない人数が集っているにもかかわらず、広間中が和やかな雰囲気に包まれ、誰の顔にも笑顔が浮かんでいる。
今までの険悪な雰囲気はおそらく、それぞれの抱える不安を解消する策が誰にも見出せないことへのジレンマだったのだろう。
しかし彼らの不安を取り払ってくれる希望が現れたのだ。人々の心に荒れ狂っていた不安はその希望の光が見えたことでなりを潜めていた。
希望とは、西の地から帰還したクシ皇子だ。
流刑になる前の皇子の神童ぶりと、半永久的と思われた刑期を大きく縮めて奇跡的に戻ってきたことで、皇子に対する期待は過剰なまでに膨らんでいた。
これまで誰もが解決し得なかった問題を、たったひとりの皇子がすべて解決してくれるという妄想を、そこに集う誰もが信じて疑わなかったのである。
しかし彼らの期待というのは、クシが彼らの先頭に立って明日にでも宮殿に攻め込み、ウルコを失脚させてくれるだろうという勝手な思い込みだった。
大広間に三人の皇子が揃うと、集まった者たちはみな興奮して歓声を上げた。
「国を担っているウルコ皇太子とその取り巻きたちは私利私欲に目がくらんでまともな政治を行っていない。皇太子の家系は名ばかりであり、本来ハナンは良識ある者たちを生み出す家系であるのだ。
神はクスコを救うためにハナンの正統な皇子クシさまを喚び戻されたのだ。ようやくハナンの希望である三人の皇子が揃ったのだ。
われわれはこの機会を待っていた。いまこそ名ばかりのハナンの無能な代表と、それを操って我が物顔に振舞う悪どいウリンの取り巻きどもを排するときだ!」
貴族のひとりが叫ぶと、集う人々から大きな歓声が上がった。
異様な熱気が大広間を埋め尽くす。クシはその様子を見て背筋が寒くなった。
きっかけは正当な怒りだったのかもしれない。しかし大勢が寄り集まるとその怒りは異常なほどに燃え上がり、目標を見失ってすべてを焼き尽くしてしまうのだ。
将軍や神官たちが次々と熱い演説を繰り返し、そのたびに集った者たちの喚声が高くなっていくのを、三人の皇子は上座から冷ややかな目で見つめていた。
「アマルさま、われわれはこれ以上手をこまねいているわけにはいきません!」
三人が揃うまでは……と返事を渋っていたアマルに、最初に声を上げた貴族が詰め寄った。
アマルは腕を組んで目を閉じ、難しい顔をしていた。
「もしも……」
クシが口を開いた。その途端今まで怒号のような喚声を上げていた貴族たちがいっせいに鎮まった。
「もしも現皇帝と皇太子から政権を取り上げるため革命を起こしたとして、その後、我らとこの国はどうなると思われるのか」
「アマルさまも同じようなことをおっしゃっていました。クシさま。
確かに内紛を起こせば貴族たちは分裂し、今までのようなクスコの社会は成り立たなくなります。我々が勝てばウリンは半数以上の者を失うことになるでしょう。ウリンに加担しているハナンの者も同じく排除される。
しかし、ここに集うハナンの者たちは有能な者ばかりです。少数であってもここにいる貴族だけで国を動かしていくことは可能。さらに皇子たちが導いてくだされば何も問題はありません。
アマルさまは失敗して革命派が捕らえられたときのことも案じていらっしゃいましたが、精鋭揃いのわれわれだ。堕落したいまのウリンの者どもに負けるはずはありません」
皆が「そうだ、そうだ」と声を揃えた。
「問題はウルコとその取り巻きだけなのだ。表立って改革を支持することのできないウリンの中にも重要な役目を担っている有能な者もおろう。同じ宮中で分裂し多くの貴族を排除するというのは、この国にとって大変危険なことだ」
「しかし、今ウリンを動かしているのは皇太子ウルコに傾倒する者たちです。ウリンの者はみな皇太子側にあると言っても過言ではありません。汚泥を取り除くにはその周りのきれいな土も大きく削り取らねばならない。多少の痛みは覚悟せねばなりません」
「私が危惧するのは国内のことではないのだ。
私は西の地で暮らしていたときに、北方から勢力を広げてきている部族の噂を聞いた。そして実際に逃げ出してきた奴隷を見たのだ。焼き尽くされた村の話も聞いた。それは小さな部族同士の諍いなどではなく、かなり大きな勢力が北西から侵出してきているという証拠なのだ。
遠く離れているからといって、この国に彼らが侵出してこないとは言いきれない。
ケチュア族はそのむかし、この辺り一帯でもっとも大きな脅威であったアヤルマカ族を統合し、さらにキリスカチェ族とも手を結んだことで、もうこの国に敵う敵はいなくなったものと安心している。その安心がすっかり備えを甘くしてしまったのだ。
このうえ味方同士が争えば、ほかの国が攻め込む機会を容易に与えることにほかならないのだ。混乱に乗じて攻め込まれれば、この国は簡単に滅んでしまうだろう。
皇太子は確かに身勝手で政治には関心がないようだが、父上がいらっしゃるうちは表向きは皇太子を立て、ハナンとウリンが協力し、危機への備えを整えていくことが一番重要なことなのではないかと私は思うのだ」
「皇子は遊牧民の生活が根付いて随分とプライドが低くなってしまわれたようですな。
今こそハナンの代表を気取るあの『でくのぼう』を引き摺り下ろし、貴方のような有能な皇子が王座に就くべきなのです。現れてもいない敵への備えなどといって、いつまで我慢して『無能な者』に跪いていなくてはならないのか! まずは王座を奪回して、あとは思うようになさればよろしいではないですか」
「王の役目は、国の民を思い、国の行く末を案じることだ。自分のプライドなどを後生大事にしていては王としては失格だ。王座に就かなくても、私は王にふさわしい役目を果たすことができる」
クシに抗議していた貴族はううむと言って口を閉ざしてしまった。
広間が一度静まり、そしてまたざわつき始めた。
「クシ皇子、危機に備えるために何をされようとおっしゃるのですか」
「ひとつは都の周囲の防衛を強化すること。次に戦える者を多く育てること。そして近隣部族との絆を固くすることだ」
「しかし、そのような表立った行動を皇太子と側近たちが許すでしょうか」
「もともと政治になど興味のない者たちなのだ。うまく理由を付け、面倒はこちらがすべて請け負うと言えば、わざわざ反対することもないであろう」
多くの者がクシの言葉に感心して頷いていた。
「われわれが地道にクスコのために働いていけば、皇太子が即位する前にウリンの良識ある者たちも味方につけることができるかもしれない」
「そのように悠長なことをおっしゃって、まさか永久に陰の王の地位に甘んじていかれるおつもりではありますまいな」
年かさの貴族が少し意地の悪い口を聞いた。するとクシは立ち上がって声を張り上げた。
「私を誰だと思っている! ビラコチャ皇帝と皇后ロント・カヤの子。正統なハナンの血筋を受け継ぐ者だ。皇位は本来、我ら三兄弟のひとりが引き継ぐべきもの。必ずこの手に戻してみせる。
しかし、そのために犠牲を出してはならない。大切なのは時期なのだ。今優先しなければならないのは、クスコを守ることだ」
広間が静まり返った。圧倒されて立ち尽くす者の中から、しばらくすると何人かが自然にクシに向かって跪いた。そしてそれにつられるように次々と跪く者が増えていき、やがて広間に集った者がみな跪いて頭を垂れた。
クシの両側に座っていたアマルとリョケが静かに立ち上がった。リョケがクシに囁いた。
「皇位を継ぐ者は三兄弟のうちから選ばれるのではないぞ、クシ。真に皇帝に相応しいのはお前だ」
クシがリョケを振り返ると、リョケはニッと笑ってアマルに目をやった。アマルが微笑んで頷く。
「その通りだ。お前が皇帝になるべきだ」
クシは正面に向き直って大広間を埋めつくすようにして跪いている貴族たちをゆっくりと見回したあと、自身を納得させるように大きく頷いた。