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2、 ルクマの実 (その2)



 次の日の朝早く、ティッカはひとりで中庭を訪れた。

 まだ朝靄が晴れきれていないにもかかわらず、もう何人もの生徒たちが元気な掛け声とともに鍛錬に励んでいた。

 ティッカはその中にいるはずの人物の姿を探そうと、ゆっくりと流れていく薄白い靄の向こうに必死に眼を凝らした。

 中庭の中央に人だかりが出来ている。数人の指導者が集って何やら話し合っていた。稽古の打ち合わせをしているのだろう。そのなかにクシの姿もあった。

 やがて靄がすっかり消えて視界が晴れると、クシの方でも中庭の隅で稽古を見つめているティッカに気付き、嬉しそうに駆け寄ってきた。


「ティッカ、久しぶりだな!」


「クシさま、ご無事でお戻りになって何よりです」


「ありがとう。また会うことができてうれしいよ」


 クシは懐かしむようにティッカに笑いかけた。すぐにティッカの周りに目を走らせる。


「キヌアさまですか?」


「ああ、今朝は随分と遅いようだな」


「ええ、少しお体の具合が優れないようなので、お部屋でお休みになっています」


「そうか。以前のキヌアなら考えられないことだが……。

 そういえばどこか具合が悪いように見えたな。何か病でも患っているのか?」


 キヌアのやつれた顔を思い出し、クシは心配した。


「いいえ。別に。少しお疲れになっただけでしょう」


「なら、いいのだが……」


―― 側室としてつつましく暮らすことに重きを置いているのであろう ――


 クシの頭にふとアマルの言葉が過ぎる。クシに完敗したこともあって、キヌアはもうこの稽古には出てこないかもしれないとクシは不安になった。

 クシが黙り込んで考えていると、突然ティッカがクシの腕を掴んで建物の陰に引っ張って行った。

 そして唐突に訊いた。


「クシさま。

 クシさまは、キヌアさまのことをどう思っていらっしゃいますか」


 ティッカが何を知りたいのかが分からず、クシは戸惑いながら答えた。


「どうというと?

 ……彼女は優秀な戦士であり、私にはいつまでも尊敬する師だよ。キヌアのいないこの教室はやはり活気に欠ける」


「いいえ。そういうことではなく……。

 つまり、今まで女性としてキヌアさまのことを考えたことがおありですか?」


 出し抜けにあからさまな問いかけをされて、クシはティッカに自分の胸のうちを見透かされたと思い、うろたえた。途端に鋭い視線でティッカを睨みつけると、低く途切れ途切れに答えた。


「何故……そんなことを訊くのだ……。

 キヌアは皇帝の側室。私には義理の母に当たる人だ……。そのように考えることなど……」


 そこまで言って言葉を切り、目を逸らした。

 ティッカの知っているクシは、いつも真っ直ぐに相手を見てはっきりと物を言う。そのクシが言葉を濁し、視線を外した。明らかにうろたえているその様子から、ティッカは、クシの方でもキヌアに想いがないわけではないと悟った。

 確信を得て、ティッカは慌ただしくクシから離れると、深く頭を下げた。


「大変失礼なことをお訊きしました、皇子。でも……」


 そしてまたクシに近づいていくと、小声で続けた。


「ここだけのお話ですが。私はキヌアさまのお相手がクシさまだったらどんなに良かったかと思っているのです。いまのキヌアさまがあまりにもおかわいそうで……」


 クシが複雑な表情で再びティッカを睨む。


「キヌアはいま、幸せではないと?」


 ティッカは慌てて首を振った。


「いえいえ。こんなことを考えていることが知れたら、私は処罰されます。どうか、このことはクシさまの胸のうちに留めておいてください!」


 ティッカはクシに何度も頭を下げた。

 気になる言葉をティッカの方から投げかけておきながら、問いかけたことには答えてくれなかったことで、クシの不安が大きく膨れ上がっていった。

 そんなクシの気持ちを顧みようともせず、ティッカはあっさりと話題を変えた。


「そうそう、クシさまがお戻りになったらお渡ししようと思っていた物があるのです。大切な物ですので、外でお渡しするのはどうかと思い、キヌアさまのお部屋に置いてあるのです。稽古を終えたらキヌアさまのお部屋に直接いらしてくださいませんか」


「キヌアは具合が悪くて休んでいるのだろう? それ以前に私が皇帝の側室の部屋に入ることなどできないよ」


「キヌアさまなら少しお休みになれば大丈夫ですよ。

 キヌアさまのお部屋にいらっしゃるのは簡単です。お部屋の裏手にある石塀が一部外れているのです。私たちはときどきそこから脱け出しては、野山を走ってくるのですよ。塀づたいに宮殿の裏手に回りこんでその抜け穴から入れば番兵に気付かれることはありませんから。

 『あれ』は、ほかの誰にも見られないようにクシさまにお渡ししないといけないので。どうか……」


 クシが返事を返す前に「お願いします」と言って、ティッカは駆け去ってしまった。

 突然心をかき乱されたうえ、強引に部屋に呼びつけられて、クシはティッカにひどく苛立ちを覚えた。しかし何か重要な物なら早く受け取らねばならない。キヌアの様子も気にかかる。

 仕方なくクシはティッカの言うとおりにすることにした。




 宮殿の裏手には低い崖が迫っていてほかからの視線を遮っているが、崖と塀の間にはひとりが余裕を持って通り抜けられるくらいの路地が出来ていた。

 キヌアとティッカが野山で遊びたい一心で壁の穴を抜け出て、この路地を楽しそうに走り抜けてくる姿を想像すると、自然と可笑しさがこみ上げてくる。戦士としては優秀でも、いつまで経っても少女のような人だとクシは微笑んだ。

 長く薄暗い路地のだいぶ奥まで進んだとき、足元に、這えば通り抜けられるほどの大きさの穴がぽっかり開いていた。穴をくぐり抜けるとちょうどキヌアの部屋の真裏に出た。

 壁を回りこんでそっと表側を覗くと、石畳の長い廊下には、見渡すかぎり常駐しているはずの番兵の姿は無く、しんと静まり返っていた。

 クシは部屋の周囲に気を配りながら、背中から素早くキヌアの部屋に滑り込んだ。

 背中ごしに驚いた声が響いた。


「クシ! 何故ここに?」


 振り返るとキヌアが驚いた顔でこちらを見つめていた。

 戸惑ったのはクシの方だ。キヌアはティッカからクシが来ることを聞いていなかったのだろうか。

 クシはどう説明していいのか分からず、無言のまま彼女を見つめた。


 長い癖毛を腿の辺りまで垂らして、柄のないゆったりとした部屋着の裾を引いている。 無造作で質素だが、飾らない素朴な美しさが神話の世界の女神を思わせた。

 きつく髪を結い上げて、ぴったりと体に合う服を着ている活動的なキヌアと同じ人とは思えなかった。


「どうしてここに入って来られたの?」


 キヌアは怪訝そうにもう一度訊く。クシは何と答えていいのか分からず、逆にキヌアに訊いた。


「ティッカはどこに?」


「ティッカ?」


 クシはキヌアが答える前に慌てて部屋の中を見回した。


「ティッカなら急用が出来て夕暮れまで戻れないとか。さっき慌てて出て行ったわ」


「ティッカが私をここに呼んだのだ。秘密の抜け穴を私に教えて……」


「わざわざ、あれを教えたの? ティッカったら!」


 キヌアは顔を真っ赤にして頬を手で押さえた。


「なんていい加減なんだ。自分で呼び出しておいて、忘れてしまったのか!」


 朝からの苛立ちも手伝って、ティッカへの怒りがどうしようもなくこみ上げてきた。しかしぶつける本人がいないのでは仕方ない。クシは大きな溜め息をついてその怒りを吐き出した。

 意識を逸らして何とか平静を取り戻そうと、まずはキヌアの体を気遣う。


「キヌア、体の具合はもういいのか?」


「具合? 別になんともないわ。

 今朝は珍しく寝坊をしてしまったのよ。昨日の夜遅くまでティッカと話し込んでしまって」


 キヌアははにかみながらそう言って笑った。それを見てクシの押さえていた怒りがまた湧きあがってくる。


「なんということだ! すべてあいつにからかわれたのか! 渡したい大事な物があるというのも嘘か!」


 クシが声を荒げたので、キヌアは慌てて必死に取り繕った。


「渡したい物? そうだったわ。多分あれのことよ!」


 キヌアは、壁の方を指差した。キヌアの指差す方に石壁を台形型にへこませた飾り棚があり、そこにきれいに畳まれた着物が一式置いてある。鮮やかな色の織り模様が入った頭巾と肩掛けだ。

 見覚えのあるその柄を目にした途端、クシはハッとした。今までの怒りが消え、クスコを発つ前の楽しい日々が蘇ってくる。クシは吸い寄せられるように飾り棚に近づいていった。

 その背中にキヌアが説明を加える。


「狩りの日に借りたお母さまの着物よ。クシが帰ってきたら返しましょうと以前からふたりで言っていたの。私たちだけであの部屋に返しに行くには勇気がいるもの」


「これはキヌアに譲ったんだよ。誰もいない部屋で埃を被っているより、誰かが着てくれたほうが母上も喜ぶだろう」


「クシは優しいのね」


 クシがキヌアを振り返ると彼女はやんわりと微笑んだ。何故かその笑顔を見ているのが苦しくなり、クシはふたたび着物に目を遣った。

 そのときクシは、畳まれた着物の上に小さな実が置いてあることに気付いた。少し突起のある丸い実で、ひび割れた緑の皮から黄色い果実がのぞいている。

 クシはその実を手に取った。


「キヌア、この実はいったい?」


「あら、そんな実があったかしら? 気付かなかったわ。

 きっとティッカが置いていったのね。お礼のつもりなんでしょうけど、ひとつだけなんて気が利かないわね」


 クシはその果実を見つめたまま、キヌアに訊いた。


「ティッカはクスコの昔語りなどに詳しいのか?」


「そうね。ティッカの育ての母親はクスコの貴族の出だったそうよ。私も彼女からこの国の昔語りをいくつか聞いたことがあるわ」


 それを聞いてクシは考え込んだ。

 

 その果実はルクマといった。

 遥か昔、この大地を創った神は、その姿をみすぼらしく変えて世界をめぐり、粗野な人間たちに秩序をもたらした。その旅の途中、ひとりの美しい女神を見かけ彼女に恋をした。しかしみすぼらしいなりでは姿を見せることはできず、密かにルクマの実に想いを込めて彼女の前に落とした。

 その実を食べた女神は、創造神の子を宿したというクスコの伝承があるのだ。


―― キヌアさまのお相手がクシさまだったらどんなに良かったかと ――


 それはティッカからのメッセージだ。

 キヌアに少しでも想いがあるのなら彼女に正直にそう告げよと。そして彼女の心を少しでも救ってほしいと。

 今朝は冗談のように誤魔化していたが、ティッカはクシの気持ちを見抜いている。そしてキヌアの幸せを願う気持ちは切実だったのだ。

 クシはルクマの実を握ったままキヌアを振り返ると、まっすぐに彼女の目を見つめた。


「どうかしたの? クシ」


 クシが急に深刻な表情になったので、キヌアは心配そうに見つめ返した。


「この後宮にいて、キヌアは今、幸せか?」


 俄かにキヌアの表情が翳った。


「何故そんなことを訊くの? あなたには関係のないことだわ」


 キヌアは視線を逸らして深い溜め息をついた。

 そのキヌアの様子を見てクシは心を決め、静かに話し始めた。


「キヌア、聞いてほしいことがある。


 私は西の地に追放されたときに、オルマという少女に助けられた。彼女はリャマを追う遊牧民だった。

 遊牧民とともに暮らしながら、クスコでは考えられない生活を経験した。

 だんだんと彼らの生活に馴染んできたとき、家族のように過ごしてきたオルマから、夫婦になって遊牧民としてずっと一緒に暮らしてほしいと言われたのだ。

 私はそのとき、クスコに帰ることをあてなく期待しているより、そのまま遊牧民になってあの地で暮らしていくのもいいのではないかと思った。

 オルマとも気が合ったから悪い話ではなかった」


「そうなの……」


『何故そんな話を聞かなければならないの?』と言いたげにキヌアは苛立った表情で素っ気なく返事をした。


「しかし、どうしても受け入れることができなかったのだ。

 理由はただひとつ。貴女への想いを断ち切ることができなかったからだ」


 キヌアは驚いてクシを見た。


「貴女はあくまで父上の側室だ。だからそれまで貴女への想いを意識しようとはしなかった。してはいけないと思っていた。

 しかし本当は、婚礼の儀で貴女を見たときから心を奪われていたのだ。

 皮肉なことにクスコを離れて初めてその想いの強さに気付き、そしてどんどん膨らんでいった。彼の地で私は、貴女に再会することだけをずっと願ってきたのだ。そしてこうしてまた逢うことができた。

 キヌア、貴女が父上の側室であっても構わない。私は貴女を愛している」


 意を決してすべてを告白したあと、クシの心の中には安堵とともに不安が広がってきた。

 想いを告げた代償は、もう以前のように気軽に顔を合わせられる関係ではなくなるということだ。キヌアがクシの想いを受け入れてくれないのなら、ふたりは二度と会うことができないだろう。

 クシの告白を聞いたキヌアは、クシを見つめたまま動けずにいた。何か言おうとして薄っすらと口を開いたが言葉にならず、そのまま唇を噛み締めて下を向いてしまった。


 しばらく沈黙の時が流れた。


 クシがキヌアの返事を諦めて小さな溜め息を吐いたとき、キヌアは顔を伏せたままゆっくりとクシに歩み寄ると、その胸のなかに顔を埋めた。 

 クシは胸にひんやりと冷たいものを感じた。キヌアはクシの胸の中で泣いていた。

 そして震える声で小さく呟いた。


「私も同じ想いだったわ。でも認めてしまうのが怖かったの」


 それを聞いてクシはキヌアの頭を包み込むように抱えると、囁いた。


「父上に大切にされて貴女が幸せなら、それで良かったんだ。貴女の幸せを願ってこの想いを諦めることもできる。

 でも今のキヌアはとても悲しそうで見ていられない。

 キヌア、待っていてほしい。いつか必ず私が貴女を幸せにしてみせる」


 キヌアはクシから少し身を離して涙の顔を上げると、こっくりと頷いた。

 クシはキヌアの顔にかかる髪を優しく払うと、涙で濡れた瞼にそっと口づけをした。




 もう日も暮れるころ、ティッカはキヌアの部屋の前に戻ってきた。後から番兵が疲れた顔で付いてくる。


「大変な一日だったわね。ご苦労様。

 でも、お蔭でいたずら好きの猿が隠してしまった大切なピンを見つけることが出来て大助かりよ。うっかりしていてピンを猿に取られたなんて、キヌアさまに叱られてしまうわ。ぜったいに内緒よ」


 そう言って手に持った青銅のピンを振ってみせた。


「わかりました。無事に見つかって何よりです!」


 汗まみれの番兵は嬉しそうに笑った。まだ年端もいかない素直な少年兵を騙したことは心苦しいが、これもキヌアのためなのだ。

『ごめんなさいね』とティッカは心の中で謝った。


 キヌアの部屋はしんと静まり返っていた。薄暗い廊下に、部屋の入り口からぼんやりとたいまつの灯りが漏れている。


「ただいま戻りました。キヌアさま?」


 部屋の外からティッカはキヌアに呼びかけてみた。

 しばらくして小さな声が返ってきた。


「ティッカ。お帰りなさい」


 その声を聞いてティッカはそっと部屋の中を覗いた。

 キヌアは寝台に座って高窓を見上げていた。そのままの姿勢でキヌアが訊いた。


「随分と遅かったのね」


「ええ、ちょっと用が長引いて……」


「クシが怒っていたわよ。あなたがここに呼んだんですって? それなのに勝手にいなくなってしまうから」


「申し訳ありません」


 ティッカはクシが来たことを知って安堵すると同時に、クシがメッセージに気付いたのかどうか心配になり、飾り棚を見た。

 着物は畳んだまま置いてあるが、その上のルクマの実は無くなっていた。


「もうすぐ、陛下がいらっしゃる頃ね」


 キヌアがティッカを振り返って微笑みかけた。


「キヌアさま、大丈夫ですか?」


 キヌアはゆっくりと立ち上がってティッカの方へやってくると、ティッカを優しく抱きしめた。


「ありがとう。ティッカ。私の気持ちを知っていてあの人をここへ呼んでくれたのね。

 あの人と想いが通じたのよ。新月の夜にまたここに来ると約束してくれたの。だから私、どんなことでも耐えられるわ」


今度はティッカが嬉し涙を流す番だった。


「良かった。キヌアさま」

 




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