2、 ルクマの実 (その1)
2、ルクマの実
その夜は新月で、月明かりのない夜空には無数の星が何にも邪魔されることなく派手やかに輝いていた。澄んだ夜空にまたたく星の数があまりにも多く、夜空全体がぼんやりと薄い光を放っているようだ。キヌアの部屋の小さな高窓からもそんな星明りが白く差し込んでいた。
先ほどから身じろぎもせずただじっと高窓を見上げているキヌアの姿に、水差しの水を換えようとして入ってきたティッカは少し異様なものを感じ取った。
「新月の夜は星が一面に輝いてきれいね」
ティッカが心配そうに見つめていることに気付いたからか、高窓に目を遣ったままキヌアが呟いた。
キヌアの長身をたっぷりと包み込めるほど長い夜着に身を包み、ゆるやかに波打った髪をまとめずに無造作に垂らしている。長い艶やかな黒髪は彼女の座っている寝台までも覆っている。
好戦的な服に身を包んでいるときのキヌアとは別人のようだ。
たいまつの灯りに照らされて、顔に落ちる陰影が小刻みに揺れ、キヌアの横顔が泣いているように見える。無防備な彼女の姿が頼りなさげに見せているのかもしれないが、確かにここのところのキヌアは元気が無く、物思いにふけっていることが多いことをティッカは思い出した。
「キヌアさま、そういえば新月の夜はいつも陛下はいらっしゃらないですね」
「そうなの。月明かりがないと暗いので、お部屋を出るのがお嫌なんですって」
「まあ、小さな子どもみたいに……」
ティッカは、娘のような年のキヌアの前で、幼い子のような発言をする老皇帝の姿を想像して苦笑したが、キヌアはまったく表情を変えずに相変わらずじっと星を見上げている。
「キヌアさま、どうかなさったのですか?
ここのところ、やけに沈み込んでいらっしゃるように見えるのですが……」
その途端、キヌアがすがるような目でティッカを振り返った。
たいまつの灯りのせいではなかった。キヌアの目はやはり潤んでいた。
「どうなさったのです?」
ただならぬ様子に、ティッカは駆け寄って跪き、キヌアの膝に手を置いてその顔を見上げた。
「ティッカ、あなたにだけなら話しても赦されるかしら……。
これはこの国にとって、とても重要なことなの。もしも他の者に知られたりしたら大変なことになるのよ。でも私の胸のうちに仕舞っておくには、あまりにも荷が重過ぎて……」
そう言ってキヌアは顔を手で覆って俯いた。
ティッカは慌てた。「少しお待ちを」とキヌアに告げて急いで部屋を出ると、廊下を念入りに見回した。
キヌアの部屋は後宮の一番奥にあり、この部屋に用が無い限り人は通らない。はるか向こうの廊下に番兵が立っているだけで他に人影はなく、ティッカは安心して部屋に戻ってきた。
「キヌアさま、大丈夫です。お話になって」
キヌアは膝に置かれたティッカの手に自分の手を重ねると強く握った。
「皇帝陛下のことなの。
陛下は、もう一年くらい前から私のことが分からなくなってきているのよ」
「……どういうことですか?」
「私を、ご自分のお母様……皇太后さまだと思っていらっしゃるようなの。しかも、ご自分はまだ幼い皇子だと錯覚していて」
「つまり……」
「少し気がふれていらっしゃる……」
「しかし側つきの者たちは、陛下のご様子がおかしいことに気付いてはいないではないですか?」
「今のところ、私とふたりきりの時だけ幼いご自分に戻るようなの。
初めてここにいらしたときに、私が陛下の母君によく似ているとおっしゃっていたのは覚えているわ。だからその頃は、お母さまの思い出話や幼い頃のお話を聞いていただけだったのよ。
そのうち、段々とまるで幼子になったように振舞うようになって……。冗談ではなく、陛下の目は本当に幼い子になったようなの。このままいったらそのうちご自分が誰だかも分からなくなるわ」
ティッカは蒼ざめた。
まだ誰しもが認める後継者が定まっておらず、激しい権力争いのあるこの国で、皇帝の気がふれていると知られれば必ず大きな争いが起こる。それゆえキヌアは誰に言うこともできずに密かに狂気の帝の相手をしてきたのだ。
それなのに、皇帝の寵愛を一心に集めているというやっかみから、ほかの側室から数々の嫌がらせを受けることもあった。
「私はお傍に居ながら、何も気付かずに……」
ティッカは自分を責め、それを償うように憐れな女主人を優しく抱き締めた。
するとキヌアは張り詰めていたものが一度にはじけたかのようにわっと泣き始めた。
キリスカチェにいた時もクスコに来てからも、ティッカがキヌアの泣く姿を見るのは初めてだった。弱い面をさらけ出すことを最も恥としているキリスカチェ族の、王の娘たる者が泣き顔を見せるなどあってはならないことだ。
しかし今、そのキヌアがティッカに全身を預けて激しく嗚咽している。キヌアの抱えている苦悩はティッカの想像する範囲を大きく超えていることが分かる。
クスコに嫁いだ宿命がキヌアをこんなにも弱くしてしまったことに、ティッカは腹立たしさを覚えた。
どのくらい時が経ったのか分からないほど、キヌアはティッカの腕の中で泣き続けていた。
長い時間ののち、溜めていた重荷が少し下ろせたのか、やがてひっくひっくとしゃくりあげる程度に泣き声が治まってくると、キヌアはティッカからそっと身体を離した。
涙の顔を掌で拭いながら、キヌアは静かに話し始めた。
「あの人が教室に姿を見せたわ」
「え?」
突然キヌアの話に湧いてきた人物に一瞬見当がつかず、思わず訊き返したティッカだったが、すぐに誰を指しているのかを察した。
「……ええ、そうですってね。ようやくお会いすることができたのですね!」
「久しぶりに手合わせをしたら、私が負けたのよ。
彼は見違えるように逞しくなっていた。彼に敵うものはクスコにはもう誰もいないわね」
そう話して微笑んだキヌアの目は、無邪気に輝いている風にもどこか切なさや淋しさを帯びている風にも感じる。今の今まで悲嘆に暮れていたキヌアが、何故突然クシのことを持ち出し微笑んだのか……。
ティッカはハッとした。自分はとんだ思い違いをしていたのだ。
思わずキヌアの身体を抱き締める。キヌアはされるがままティッカの胸に顔を預けてじっとしていた。
キヌアの癖のあるやわらかい髪を優しく撫でながら、ティッカは故郷キリスカチェでの出来事をつらつらと思い返していた。
キヌアの婚礼が決まった日、キヌアは母である『天の女王』と激しい口論をしていた。ティッカは女王の部屋の垂れ幕の外でそのやりとりを聞いていた。
「冗談じゃないわ。お母さまは私に死ねとおっしゃるのね。
異国の宮殿に押し込められて知らない者に囲まれて暮らすなんて。とても生きている心地はしないわ!」
「莫迦なことを言うのではありません。貴女は一族の運命を背負っているのですよ。自分が好もうと好まざろうと、王族の娘としてこの縁談を受け入れる責任があるのです。
貴女の使命はケチュアの皇族に嫁ぐこと。キリスカチェの民を守る最も重要な役目なのです」
幼い頃から側にいたティッカはキヌアの夢を良く知っていた。
―― 亡き父、偉大な王カリのように、自分もその名を広くとどろかすような偉大な戦士になりたい。先ずは自分の腕を磨き、一族を守って率いていくのが使命なのだ ―― と。
強い瞳で将来を語っていた少女が一転、異国の王の寵妃として、戦いを忘れて一生を送れと命ぜられているのだ。
ティッカはキヌアに同情したが、キヌアがどうしてもそれを受け入れなければならない立場にあることも理解していた。
偉大な王カリの亡き後、混乱に陥った国を救ったのはキヌアの母『天の女王』であり、同時にキヌアの姉『地の女王』であった。ふたりの女王のもとでキリスカチェは以前の勢力を取り戻しつつあったが、その周辺ではさらに強力な勢力がつぎつぎと興っていた。
ケチュア族の皇帝ビラコチャとカリはかつてともに大きな敵と戦った盟友であり、カリが存命中は強固であったふたつの部族の信頼関係も、カリの死によって細く頼りないものとなっていた。
キリスカチェを脅かす勢力を威圧するためにはクスコの後ろ盾がどうしても必要であり、そのいちばんの近道が姻戚関係を結ぶことであった。
キリスカチェには、成人した女子は片胸を切り落とす慣習がある。子孫を残すために必要な乳房を最低限にして身を軽くし、より敏捷に戦えるようにするためだと謂われているが、定かなことは分からない。
ともかく、その儀式を済ませればキリスカチェでは大人の女性、一流の女戦士になった証とされていた。
しかし、キリスカチェでは成熟した女性である証も、他部族に嫁がせるには相応しくない。
なんと不幸な運命だろうか。キヌアはその儀式を迎える直前であった。そこでこの若い王女が候補に上がったのである。
「ましてや、あの国の男は戦い方も知らず、着飾ることだけを考えている腰抜けばかりだというじゃないの! 私に勝てるくらい強い男じゃなくては嫌よ!」
女王の部屋から響いてきたキヌアの叫びに、ティッカはひどく責任を感じた。
幼い頃に両親を亡くしたティッカは親戚筋に当たる名だたる武将の家に引き取られた。 武将の妻は、かつてケチュア族とともに戦った際に功績を上げた武将に贈られたケチュアの姫君だった。ティッカのことを本当の娘のようにかわいがっていた彼女は、異国での孤独を紛らわすためにティッカにケチュアの言葉を教え、よく故郷の歴史や伝承を語って聞かせていた。
ティッカはその異国の話が大好きで、それらをすっかり覚えてしまった。
王女キヌアの側付きに召されたとき、キヌアに珍しい異国の話を聞かせてあげようと、よくケチュアの話を語っていたのだ。
―― ケチュア族は美しい着物や装飾品を身に纏うんですよ。女性は色鮮やかな長い衣の裾を引いてしずしずと歩き、男性でさえ、長い布を羽織って頭や胸に石や羽根を飾っているのです。そんな人々が集うだけでその場が耀いているように美しいんですって! ――
そのときはキヌアも楽しそうに聞いていたが、まさかそのような誤解を抱いてしまったとは……。
ティッカがその後どんなに誤解を解こうと努力しても、頑なな心を持ってしまったキヌアは聞く耳を持たなかった。しかしキヌアが意地を張るのはケチュアに対する偏見からではなく、理想の戦士となることを諦めざるを得ない悔しさからだったようにティッカには思えた。
結局、キヌアは納得しないままに婚礼の準備が進められ、嫌がる王女はたびたび逃走を繰り返した。
やがて、これ以上抵抗しても無駄だということがキヌアにも分かったらしく、自分の運命を受け入れる覚悟を決めたように見えた。
婚礼の数日前、数人の兵士と侍女を従えてキヌアはクスコへと出発した。幾晩か野営を敷き、クスコまではあと一日というところで、キヌアが従える者たちに言った。
「一足早く、クスコの街を見てみたいの。ティッカとともに先に行くわ。あなたたちは予定通りに進んでちょうだい」
有無を言わさない行動だった。
無理やり駆り出されたティッカは、キヌアに従ってクスコまでの道を寝ずに歩き続けた。
キヌアとティッカがクスコの街に到着すると、ちょうど『成人の儀』が行われていて、街中がお祭り騒ぎだった。ふたりは、街外れの林の陰に潜んでその様子をそっと覗いた。
人々の視線はただ一点、ひとつの険しい山の頂上に向けられている。山の上に並んでいるのは少年たちだ。彼らはほら貝の合図で一斉に山を駆け下りてきた。街中の人々がその少年たちに熱狂的な声援を送っているのだ。
「おかしな行事ね」
キヌアは不思議な顔でその様子を眺めていた。
「ケチュア族の男子は、この式を卒業できなければ大人になることはできないのですよ」
「こんな子ども騙しの様なこと、簡単じゃないの」
「それは、キヌアさまのようなキリスカチェの一流の戦士なら簡単なことでしょうけど……。
それに、見ているのと実際にやるのとでは大きく違うものですよ。麓で待機する兵士たちはみな武装しているのに、あの少年たちは丸腰なんです。大怪我を負うのは覚悟でしょうね」
「ふぅん。そんなに大変なものかしらね」
莫迦にしたように鼻を鳴らすキヌアにティッカは苦笑いした。
はじめはさして興味もなさそうに眺めていたキヌアだったが、やがて真剣な眼差しで食い入るようにその様子を見つめるようになった。そしてティッカの肩に手を置いて体を乗り出し、興奮したように言った。
「見てティッカ。あの白い羽根の少年の動きを。
攻撃する兵士をすべて余裕でかわしていくわ。あんなに足場の悪いところでも絶妙なバランスで難なく走り抜けていく。それに、驚くほど速いわ!」
今までとは打って変わってキヌアの目が輝いていた。
キヌアは白い羽根の少年の動きを瞬きもせずに見守っている。夢中になっているキヌアにつられて、ティッカも手に汗を握りながら少年の動きを見守った。
襲い掛かる兵士たちをかわして軽やかに走り抜ける少年の姿は、山肌に沿って飛ぶ白い鳥のようだ。
やがて白い羽根の少年は誰よりも早く到着した。人々が熱狂して彼の名を叫び始める。
―― アウキ・クシ ――
「キヌアさま、あの方はクスコの皇子ですよ。皆がそう呼んでいます。
確かに、ケチュア族にはひとり有能な皇子がいるという噂を聞いたことがあります」
キヌアは儀式が終わった後も、担がれて街を練り歩く白い羽根の少年の姿を黙って見つめていた。
随分遠いにも関わらず、その視線に気付いたのか、ふと少年がこちらに視線を移した。
ティッカはキヌアを引っ張って慌てて木陰に身を隠す。
「私はケチュア人のことを誤解していたようだわ……」
キヌアは小さくそう呟くと、そのまま黙り込んでしまった。それを聞いてティッカは婚礼を迎える前に誤解が解けて良かったと胸を撫で下ろした。
その後引き返したふたりは、クスコのすぐ手前で輿入れの列に合流し、何事もなかったようにクスコへと入城したのだった。
ティッカは記憶を辿り終えて確信した。
あのとき、それまで戦うことしか興味のなかった王女が、白い羽根の少年に初めて恋を覚えたのだ。
キリスカチェでは一番有能な者が跡を継ぐ。キヌアは白い羽根の皇子がこの国の跡継ぎであり、自分の結婚相手なのだろうと思ったのかもしれない。
しかし実際クスコにやってきて、相手が老皇帝だと告げられたとき、キヌアは動揺の色を見せなかった。
キヌアが一度決めたことを覆すことはしない性格だからだろうが、それ以上に誰の后であろうと、想いを寄せるクシ皇子の国で過ごせることが幸せだと思い直したのだろう。
キヌアの想いが天に届いたのか、偶然にもふたりは出会い、毎日稽古で顔を合わせる仲になった。皇子とともに稽古に励んでいたときのキヌアは輝いていた。
だからこそ皇子が都を追われたとき、ひどく憔悴していたのだ。
皇子が戻ってきたことが、今辛い立場にいるキヌアの唯一の救いだ。クシ皇子がいれば、キヌアは『皇帝の寵愛を受ける幸せな側室』の役を演じていくことができる。
キヌアはティッカの腕の中でいつのまにか静かな寝息を立てていた。
キヌアの癖のある髪をほぐすように撫でながら、ティッカは『本当にそうだろうか』と自問した。
逞しい男性になってキヌアの前に現れた皇子に対して、キヌアはこれから先もただ憧れている存在でいいと思うのだろうか。彼に想いを伝えることもなく、老いて正気を失った皇帝の世話だけをしていくのだろうか。
おそらく皇子が戻ってきたことによって、キヌアの中で堪え続けていた感情の堰が崩れ去ってしまったのだ。
キヌアのまなじりに残る涙の痕を見つめながら、ティッカはあることを決意した。