1、 帰還
1、帰還
寝返りを打つと同時に手が石壁の冷たさに触れて、クシは眠りから一気に引き戻された。
見開いた眼に飛び込んできたのは高い藁葺きの天井とそれを支える無機質な石積み。高い位置に開けられた小さな窓から朝の光が細く差し込んで石壁に小さな台形型を映し出している。
横たわる背中に藁の柔らかさや暖かさがないことで、クシは自分の居場所をようやく実感した。
「帰ってきたのか……」
慣れ親しんだロハの小屋でないことが嘘のようだ。寂しさと安堵が同時に込み上げてきた。
しばらく仰向けになって天井を眺めていたクシの耳に、鳥のさえずりとともに、微かに切れの良い掛け声が響いてきた。ひとりではなく大勢の若く元気な声。
その声を耳にした途端、自分もその中で声を上げていたひとりであったことが、ついこの間のことのように思えてきた。
クシは飛び起き、簡単に身支度を整えると部屋を飛び出した。
中庭の手前までやってきて回廊をぐるりと回り、自分の運命を決めたリュウゼツランが植えられている囲いの前にやってきた。
高い木の杭を遥かにしのぐ太い茎が空まで伸び、そこから四方に枝を拡げた立派なリュウゼツランは、下方の枝から枯れてきてはいるが、天に聳える梢には鮮やかな黄色い花が一斉に花開いている。
クシはその美しさに思わず溜め息を漏らした。この花に喚び戻されたのだと思うと神聖な宿命を感じずにはいられない。
振り返って囲いに背を預け、そこに腰を下ろすと、賑やかな声に包まれている中庭を眺めた。
活気のある声は中庭中に響き渡っている。クシが見ていることには誰も気付かず、みな稽古に夢中だ。そこでしばらくの間、黙ってその様子を眺めることにした。
以前よりもかなり人数が増えている。教わる少年の数も、指導している者の数も以前の倍近くになっている。
クシがいた頃に習っていた少年たちは、もう成人して今度は教える側になっているのだ。その指導者たちも、さらに自分の技を磨くため、あちこちで合わせ稽古に励んでいた。
皆体は逞しく鍛えられていて、真剣な表情で稽古に取り組んでいる。
「この国の危機に立ち向かえる者が増えたのだな」
姿の見えない脅威にさらされている西の地の異変がクスコにもやってこないとはいえない。そんな漠然とした不安を抱いていたクシは、頼もしい彼らの姿に救われた気がした。
「もしかして、クシ皇子では?」
ひとりの若い指導者が、中庭の隅にしゃがんでいるクシに気付いて走り寄ってきた。クシが彼の方に顔を向けると、彼は興奮して叫んだ。
「やっぱり、クシ皇子ですね! あまりにも変わられたので最初は分かりませんでしたが。
よくぞご無事でお戻りになりました」
以前、クシが稽古をつけたことのある少年だ。
クスコを出たときにはクシもまだ華奢な少年だった。しかし西の過酷な自然の中で暮らした三年間が、彼の体躯を大きく変えていた。
もちろん成長期であったため、背は見違えるように伸び、それに伴って四肢も伸びていた。加えて大自然の中で生き延びるために彼の身体はさらに逞しい骨格を作り、しなやかな筋肉を全てに無駄なく付けたのだ。高原の強い日差しが彼の皮膚を艶やかな暗褐色に染め、常に危険を察知するための習慣で、瞳は鋭く輝いていた。
少年クシの姿しか知らない者が、一目見ただけでは分からないのも無理はない。
驚いたように叫ぶ声を聞いて、中庭の者が一斉に手を止めてこちらを見た。
悪さを咎められた子どものように、クシはバツの悪い顔で遠慮がちに立ち上がった。
その途端、中庭から歓声が上がる。生徒たちも指導者も、わらわらとクシの周りに集ってくると、口々に「よくお戻りになりました」「ご無事でなにより」と、クシの帰還を喜ぶ言葉をかけた。
まだ年少の者はクシを見上げてぽかんと口を開けている。幼い彼らは教室が開かれた当初のクシの人気など知らない。しかし、その頃よりも逞しく威厳を増したクシにはどの指導者にもない迫力が備わっていて、初対面の彼らにもそれが伝わっていた。もの珍しげにクシの腕や脚にまとわりついてくる。
大勢に囲まれて身動きがとれず、さすがに弱ったクシは、見覚えのある顔の青年を見つけて声をかけた。
「キヌアはどこに?」
「今お知らせしてきます」
彼が押し寄せる人の群れの中に消えていくらもしないうちに、人だかりの向こうから懐かしい声が響いた。
「クシ!」
よく通るその声を聞いて、群がっていた生徒たちがさっと道を開けた。
彼らの向こうには、相変わらずぴったりと身体に貼り付くような服を身につけて、髪をきつく束ね上げた女戦士の姿があった
キヌアはクシに近づきながら、いささか目を潤ませて言った。
「おかえりなさい。クシ」
クシが西の果てに出発する日、柱の陰から涙をこらえて見送ってくれたキヌア。今の彼女の様子から、この三年間、自分のことを心配し続けていてくれたのだろう。
クシは自然とキヌアに向かって片膝を立てて跪き、深く頭を垂れた。キヌアは何も言わずにクシの背中に優しく手を置いた。
敬意を示す姿勢からクシがゆっくりと立ち上がると、自分の目線の少し上にあったはずのキヌアの顔が、今は見下ろす位置にあることに気付き戸惑った。
クスコを離れる前は背も技術も見上げる存在だったキヌアが、弱々しくなってしまったように感じて、クシは少し寂しさを覚えた。
「クシさま、久しぶりにキヌアさまとのお手合わせを見せていただけませんか?」
キヌアを呼びに行った青年が提案すると、周りの者が大歓声を上げた。
「クシさま!」
誰かが叫んでクシに斧を投げてよこした。
クシがそれを受け取ると、群がっていた者たちはキヌアとクシを残して素早く中庭の周囲に退いた。
クシが返事をする間もなく、キヌアとの対戦会場が出来上がってしまった。
キヌアはクシに微笑んで頷き、中庭の中央までゆっくりと歩いて行って振り返ると、斧を構えた。クシもキヌアに向き合う位置まで行くと、静かに斧を構えた。
以前は構えるとすぐに飛び出していったクシだが、今はキヌアの動きにじっと目を凝らしていた。
ふと、相手の様子を探りもせずにやみくもに突進していた幼い自分を思い出し、なんと無知で愚かだったのだろうと、笑い出したくなった。
しばらく見合ってお互いの様子を探っていたふたりだが、動き出したのはキヌアの方だった。
気合の声を発すると、キヌアはまっすぐに向かってきてクシの正面に斧を打ち込む。クシが斧でそれを止めると、キヌアは素早く持ち手を返してわき腹を攻撃した。
前のクシならこの時点で防御が間に合わずに倒されていた。しかし今は、クシの動きもキヌアと同じくらい、いやそれ以上に素早くなっている。
キヌアの斧は目にも留まらぬ速さでクシの体のあちこちを攻撃してくるが、クシはそれを余裕でかわしていった。
キヌアの攻撃とクシの防御がひたすら続く。
観客たちは手に汗を握ってふたりの動きを追っていた。
なかなか攻撃の決まらないキヌアが、体勢を立て直そうといったん後ろへ退いた。今度はそれを追ってクシから攻撃を仕掛ける。
クシも素早く斧を返してあらゆる方向からキヌアを攻撃した。
キヌアも巧みにそれをかわす。しかしクシの打ち込む斧の威力が勝っているように見える。勝負が進むごとにキヌアの動きに隙ができることが多くなり、僅かにクシに押され気味になった。
しかしその差も些細なもので、ほとんど互角の戦いである。
やがてクシにも疲れが見えはじめ、また身体を離して体勢を立て直す。
そしてふたたびキヌアが攻撃を仕掛ける側になり、それが長く続くとクシの攻撃に移るといった繰り返しだ。
長い長い戦いになった。
体力も筋力も格段に成長したクシは、戦いが進むとともに身体が慣れ、ますます勢いづいた。
反対にキヌアの方は段々と弱っていくのが誰の目にも分かった。
そのうち肩で息をしながら必死に斧を振るようになった。クシの斧を受け止めるたびに腕が震え、体がぐらついている。
「うっ……」
とうとうキヌアはクシの斧を押し返す力がなくなり、斧を受けた姿勢のまま仰向けに転んでしまった。
クシはふいに倒れこんだキヌアから身体を引くことが間に合わず、斧を押し当てたままキヌアに覆いかぶさるように前へ倒れた。
クシは咄嗟に片手を付いて自分の身体を支え、キヌアの身体を押しつぶすことは回避したが、斧は振り下ろしたままの勢いで彼女の斧を押し払い、彼女の顔すれすれに地面に打ち込まれた。
キヌアが素早く顔をそむけたので斧は彼女の頭の後ろを掠めるだけで済んだが、髪を束ねていた麻ひもと、ひと房の髪の毛がパラパラと散った。
上から見下ろすクシのほうにそろそろと向き直ったキヌアの顔は、健康的な色が褪せ、彼女らしからぬ怯え切った眼をしていた。
乱れた呼吸を整えようと口を大きく開けるたび、ひゅうひゅうと苦しそうな音ばかりがして、うまくいかないようだ。荒い呼吸が彼女の胸を激しく上下させていた。
固唾を呑んで戦いを見守っていた人々は、勝敗がついてもしばらく声も出せなかった。
クシ自身も自分が勝ったことに気付くまで時間がかかったほどだ。
ようやく状況を理解して起き上がると、倒れているキヌアに手を差し伸べた。キヌアがその手を取ると、ぐっと彼女を引き起こした。
しかしキヌアは起き上がってもまともに背を伸ばすことができず、膝に手を付いて体を屈め、荒い息をついていた。
観客が一斉に歓喜の声を上げた。宮殿中が震えるような大歓声だった。
久しぶりにクスコに戻ってきた英雄は、人々が想像していたよりもずっと強く逞しくなっていた。
「クシ、随分と腕を上げたのね。西の地で稽古を続けていたの?」
やっとのことで息を整えて顔を上げたキヌアが言った。
「いいえ。ただ生きるために必死に日々を暮らしていただけです」
「そう。それがあなたを成長させたのね。私があなたに教えられることはもう無くなったわ……」
キヌアがクシの手を握って微笑む。
しかし広がって顔にかかる髪のせいなのか、未だに顔色が悪く、やつれ、どこか儚げに見えた。
その夜、リョケの宮殿で三兄弟が久しぶりに顔を揃えた。
クシの帰還を待ち望んでいたアマルは、感激してクシを抱き締めた。
「お前が戻ってくるのをどんなに待ち望んでいたか。
リョケから国の状況は聞いておろう。ハナンの者たちもクシの帰還を首を長くして待っていたのだ。無事で何よりだ」
兄弟は再会を祝って杯を傾け、その後はたわいもない会話を愉しんだ。
「しかし、兄上たちが家庭を持ち自分の宮殿を構えているとは。三年の月日というのは大きいものですね」
ふたりは宮殿を構えると同時に妻を迎えた。アマルはもう数名の側室もあり、子どももいる。
「お前ももう十九だな。ちょうど良い年頃ではないか。せっかく三年で戻ってこられたのだ。この際、早く妻を娶って宮殿を構えろ。
私はアナワルキなど似合いではないかと思うのだ。妹は十六になった。お前の知るお転婆娘ではないぞ。今では宮殿でも評判の貴婦人になった」
アマルがほろ酔いの顔でクシを覗き込んだ。
皇族たちは血縁者のなかで婚姻を結ぶことが多い。とくに正妃となると、ほとんどがその姉妹の中から選ばれるのだ。
アマルの言うアナワルキ姫も兄弟にとっては腹違いの妹に当たり、クシにいちばん近い年であった。しかしクシにはまだ幼い印象のその妹を妻に迎えるなど想像できるものではない。
「なんと性急な。まだ帰ってきたばかりではないですか。しばらくはクスコの生活を取り戻すことで精一杯ですよ」
クシが笑うと、リョケがクシの肩を抱いて言った。
「暢気なことを言っている場合ではないぞ。うかうかしていると、誰からも相手にされずにあっという間に年を取ってしまうぞ」
「ひどいな、リョケ兄さまは。これでも西の村で求婚されたことがあるんですよ」
早速リョケが興味津々に訊いてくる。
「ほう、それで何故その申し出を受けなかった? こんな面倒なところに戻ってくるより、あちらでのんびりと暮らす方が良かったのではないのか」
リョケはすっかり酔って、ニヤニヤしながらからかった。
「莫迦なことを言わないでください。私の帰還を喜んでくださったのは嘘だったのですか? 私はクスコに帰る日を切実に待ち望んでいたんですよ」
そうは言ってみたものの、冗談ではなく向こうで暮らすのも悪くないと考えたことを思い出した。
同時に求婚を断った本当の理由も……。
それに伴って、クシはふと気掛かりに感じたことを思い出し、今までの話の脈略を無視して独り言を呟くように話し出した。
「……今朝、『キヌアの教室』に顔を出しました」
クシが突然話題を変えても気にも留めず、すっかり酔いが回っているリョケは上機嫌で答える。
「おお、皆さぞかし喜んだことだろう!」
「ええ。皆歓迎してくれました。そこで久しぶりにキヌアと手合わせをし、私が勝ったんです」
「それはすごいじゃないか。キヌアに勝つことがクシの目標だったのだからな」
「そうですね。まずはキヌアを負かすことを目標に稽古に励んでいたのですから。
しかし、キヌアの様子が気になりました。覇気がなく、沈んでいるような……。あれは彼女の実力ではない。今朝の彼女は私の知る勇猛な戦士ではなかったんです」
クシが言うと、アマルが溜め息をついた。
「いつまでその様なことを言っているのだ、クシ。彼女は皇帝の側室であって、クスコに来た時点からもう戦士ではないのだぞ。ようやく陛下のご寵愛を受けるようになって、彼女も側室としてつつましく暮らすことに重きを置いているのであろう」
「陛下のご寵愛?」
クシがアマルとリョケを交互に見た。
「クシ、お前が西に行ってから、皇帝陛下がキヌアの部屋に足しげく通われるようになったのだ。
あの狩りの日、何故かキヌアが母上の服を着ていたよな」
そう言いながらリョケがクシを睨む。クシははぐらかすように空を向いた。
「まあ、今はそれを問い詰める気はないが……。
あのとき父上は、キヌアに亡き母上の姿を重ねたのではないか? その後しばらくしてあれほど避けていたキヌアの部屋へしばしば通われるようになったのだ。
まあ、きっかけはどうあれ、陛下にキヌアの存在が認められたのだ。これでキヌアが皇帝の子を授かれば、キリスカチェとの同盟も確かなものになり、キヌアの地位も安泰になる。彼女にとってもクスコにとっても大変喜ばしいことだ」
リョケは淡々と話すが、クシは聞いているうちにざわざわと強い風が心の中に吹き込んでくるのを感じた。
「キヌア自身は、何と?」
「何も言わないが、側室にとってはこれ以上望ましいことはないではないか。
お前はキヌアを負かしたのだ。もうこれ以上彼女に無敵の戦士の姿など期待するではない。彼女を混乱させ、苦しめるだけだ」
アマルが諭す。
クシは深い溜め息を吐かずにはいられなかった。
兄たちはその溜め息の意味を、クシが戦士キヌアに対する憧れを捨てきれないのだと捉えた。
しかし当のクシは、キヌアが本当にそれを望んでいるのか疑うとともに、皇帝に対して理不尽な嫉妬が膨らんでくるのを感じていた。湧き上がってくるそれらの思いを抑えようと必死だったのだ。