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9、 シトゥア祭 (その2)



 リョケとワイナはその丘に向かって跪き、頭を地面に擦り付けるようにして平伏(ひれふ)した。しばらくして立ち上がり空を仰いだあと、また跪いて平伏す。

 その動作を何度行ったか忘れてしまうほど念入りに繰り返して、ふたりはようやく立ち上がり、丘に上がっていった。


「まさか此処だとはな……」


「天罰が下るかもしれませんね」 


 シトゥアが二日後に迫った。

 リョケとワイナは、足踏み鍬を持ってキヌアに教えてもらった場所に行った。『聖なる岩』と呼ばれる大岩の陰にリュウゼツランが群生していた。数本のリュウゼツランの大株が天高く花茎を伸ばし、そこから枝を伸ばしてたわわに蕾をつけている。

 そこはクスコの人々にとっては聖域であり、誰もが敢えてその場所に踏み入ろうなどとはしない。足を踏み入れたからといって刑罰があるわけではないのだが、そんなものが無くても神の祟りをもっとも畏れるこの国の人々が、わざわざ危険を犯してまで入ろうとするはずがなかった。

 異国人のキヌアとティッカだからこそ、畏れもなくこの場所に足を踏み入れることができたのだ。


「そのときはふたりで仲良く神の裁きを受けようじゃないか」


 苦笑いしているワイナの横で、リョケはどこか楽しげだ。

 ふたりは、花芽を伸ばしている株の横の、なかなか立派な株に目をつけた。尖った葉の中心にほんの僅かだが、花茎が出ているのが見えた。

 リュウゼツランの葉の先には固く鋭い棘があり、不用意に近づけば傷だらけになってしまう。まずは鋭い棘が体に刺さらないように、丈夫な布を幾重にも巻きつけた。

 株をしっかりと包み込んで棘を封じたあと、その根元を両側からふたりで掘り進んでいく。しかし根は相当に深く、なかなか容易には掘り起こせない。

 だいぶ長い間黙々と地面を掘り進み、ふたりの手が痺れてきた頃、ようやく株が抜けた。土がこぼれ落ちないように根も布で幾重にも包む。巨大な株は巻かれた布の重さも加わり、かなりの重さだった。

 キヌアの部屋の裏手にある抜け穴の外まで運んだときにはふたりとも大汗をかいていた。


「これは大変な重労働だな。キヌアたちは大丈夫だろうか……」


 リョケが汗を拭いながら大岩の固まりのような株を見下ろして言った。




 異民族たちが順々にクスコの郊外へと移動していく。キヌアも、ティッカと数人の侍女に従われて宮殿を後にした。

 前もってティッカに作戦を話すとティッカはキヌアと同じように胸を叩いて言った。


「それくらい、お安い御用ですよ!」


 しかし宮殿から離れて行くにつれ、逆にキヌアの中に不安な気持ちが湧いてきた。

 自分で提案しふたりの前では強がって見せたものの、果たして誰にも見つからずに宮殿に忍び込み、大掛かりな植え替えなどできるのだろうか。

 無口になって不安気な表情を浮かべているキヌアに気付き、横を歩くティッカが「大丈夫です」と慰めるようにキヌアの手を強く握り締めた。

 


 シトゥアの前日、宮殿では儀式に備えて宮殿に仕える者たちがせわしなく動き回っていた。宮殿中が上を下への大騒ぎだ。

 召使いも、他の部族から移住してきたり、クスコとの戦で捕らえられてきた者たちはすべて街から出されるため、この日は給仕をする者がいつもの半分以下になってしまうのだ。それに加えて儀式の準備や皇族、貴族の身に付けるものの支度など、やることは倍になる。


「ちょっと手伝っておくれ!」


 呼ばれて番兵たちも給仕の手伝いをさせられている。

 貴族たちは、断食を終えた後に着飾る衣装を選ぶことに夢中だ。

 宮殿では誰も彼もが忙しく、のんびりと中庭でくつろいでいる暇などない。しかも貴族たちが集う大広間や皇族の住まいとは離れている中庭にやってくる余裕のある者など、この日はいなかった。


「ワイナ……明日の支度は済んだか?」


 廊下ですれ違ったワイナにリョケが声を掛けると、ワイナは「あと少しです」と頭を下げた。

 これが二人の合図だった。シトゥアの前日の一番忙しい時間帯に、杭を抜いてしまおうと話し合ったのだ。

 合図を交わしたあと、ふたりはそれぞれ頃合いを見計らってリュウゼツランの囲いの前に行った。


 リョケが囲いに一番近い廊下の隅に立って見張り、その間にワイナが杭を一本ずつ揺らして固まった地面をほぐしていく。杭は深く突き刺さったまま数年を経ているので、はじめはビクともしなかった。

 リョケとワイナはときどき交替しながら、杭の根元の土を少しずつ緩めていく。何度かそれを繰り返していくとようやく杭が大きく揺れるようになってきた。土が緩めばあとは早い。ワイナが手応えを感じて杭の根元を掴んで引き上げると、あれほど固く地面に食い込んでいたものがいとも簡単にするりと持ち上がったのだ。


 一本目が抜けたちょうどそのとき、ひとりの若い召使いが、不慣れで迷ったのか、リュウゼツランの裏側の廊下を渡って行こうとした。


「おい! ちょっと来てくれ!」


 リョケが慌てて呼び止め、取るに足らないことを訊いた。召し使いはひどく恐縮してそれに莫迦丁寧に答えている。「ありがとう。大広間に行くにはこちらの方が近いぞ」と親切に教えてやると、召し使いは勢いよく頭を下げ、飛び上がるように踵を返して走り去った。


「危ないところでしたね。これからもここを通る者がいなければいいのですが」


 重い杭を持ち上げたためか、冷や汗か分からないが、額をぐっしょりと濡らしたワイナがリョケの傍に寄ってきて言った。


「いや、明日の準備はもうそろそろ終わり、それぞれ最後の食事を済ませたら大広間に向かう頃だ。もうここに用がある者はいない。それより杭を早く抜いてしまわないとわれわれがいないことが分かってしまうぞ」


 宮殿内が静かになり始めた頃、今度はふたりで一緒にあと二本の杭に手を掛けた。ひとりで奮戦していたときよりずっと早く杭は抜けた。

 三本の杭と足踏み鍬を囲いの中に隠し、ふたりの作業はおしまいだ。


「では、キヌアさまとティッカの無事を祈りましょう」


「ああ、あとはあのふたりに任せて、われわれは成功を祈るしかないな……」


 不安を抑えきれず、ふたりはクシのリュウゼツランを何度も振り返りながら中庭を後にした。




 翌日 ―― シトゥア当日 ―― の朝早く、ティッカは、郊外の別邸でキヌアの身の回りの世話をする侍女たちを集めて告げた。


「お方さまは慣れない環境でお疲れになったのか、お加減が悪いようなの。あまり大勢が出入りするとますますお疲れになると思うので、今日は私ひとりが付いてお世話をするわ。静かにお休みいただくために、他の者はお部屋に近づかないでほしいの。その代わり、今日はあなたたちもお世話を忘れて休息を取るといいわ」


 キリスカチェの者がこれを聞いたらキヌアに限ってそんなことはあり得ないと疑うだろう。しかしケチュアの各地方から寄せ集められた侍女たちは、不審に思うどころか、思わぬ休暇をもらえて喜んだ。


 日が落ちるころにキヌアとティッカはそっと別邸を抜け出した。

 クスコは周囲を緩やかな山や丘に囲まれた盆地である。従って郊外といえばどこもクスコの街を見下ろす高台の上かそれを越えたところになる。

 キヌアの仮住まいのある丘からもクスコの街が一望できた。しかもちょうど宮殿の真裏に当たるその丘からは宮殿内の様子がよく見えた。

 いつもは回廊をせわしなく行き来している召使いの姿も、中庭の隅で歓談している貴婦人の姿も見えない。

 夕暮れが迫り、普段ならあちらこちらにたいまつの灯りが灯されて仄明るく浮かび上がる宮殿は、中央の大広間の窓から僅かに明かりが漏れているだけで、ほとんどが闇の中に沈んでしまった。

 宮殿だけでなく、クスコの街全体も闇の中で静まり返っている。


 キヌアとティッカは手を取り合って、月明かりを頼りに裏手の抜け穴へと下りて行った。

 抜け穴の脇に大きな麻布に包んだリュウゼツランの株が置いてある。暗がりの中でそれを探り当てると、ふたりで両端を抱えて持ち上げた。

 布で包まれて縛ってあるものの、丈夫な葉が大きく広がっているので持ちにくく、ずっしりと重かった。ふたりは慎重に株を抱えて中庭まで運んで行った。


 中庭に立つと、月の青白い光に照らされて周囲を囲む宮殿の廊下や建物が鮮やかに浮かび上がって見えた。しかし宮殿の中は不気味な静けさが支配していた。いつも人が出入りしているところに誰もいないということが、こんなにも人を不安にさせるのだろうか。

 キヌアは以前『天の女王』に従って遠征した地で目にした滅びた都の跡を思い起こしていた。


 クシのリュウゼツランの囲いまで来ると、裏側の三本の杭が抜かれて囲いの中に隠されていた。その横には足踏み鍬が二本置いてある。普段囲いに阻まれて目にすることがなかったクシのリュウゼツランは、立派に生長して手狭な囲いを押し退けようとするかのように大きく葉を広げていた。


「随分と時が経ったのね……」


 キヌアが呟いた。

 ふたりは持ってきた株を傍らに置くと、クシのリュウゼツランに棘よけの布を何重にもかけて覆い、その根元を足踏み鍬で掘り始めた。リョケたちが手こずったのと同じく、キヌアとティッカも深い深い根の先にたどり着くには時間がかかった。

 鍬を踏みながらキヌアが言った。


「クシは無事でいるかしら」


「大丈夫ですよ。クシさまのことですから、どんな環境でも生き抜いていらっしゃいますよ」


「きっと、そうね。これがうまくいってリュウゼツランに花が咲けば、クシを探すことができるんですものね」


 キヌアは鍬を踏む足に力を込めた。

 かなり深く掘り進んで、リュウゼツランの株が揺れ始めた。


 そのとき突然、街の方が騒がしくなった。

 悪霊払いをする呪術師たちが、クスコの街を駆け回りながら宮殿に近づいてきたのだ。 その声は断末魔の叫びのようだ。叫び声が近くなってくると同時に、強烈な香の香りが漂ってきた。

 その声や香りが、キヌアの深い記憶の底に眠る恐ろしい光景を蘇らせた。キヌアはひどく不快になり、思わず耳と鼻を塞いでうずくまっていた。


「キヌアさま、どうしたのですか? しっかりして。早くしないと中庭にも悪霊払いがやってきます」


 キヌアは落ち着くためにゆっくりと息を吐き出すと、まだ早鐘を打っている胸を押さえながら立ち上がった。

 株の根元を両側から引っ張ると、リュウゼツランはするりと抜けた。土がこぼれないように根元にも布を巻いて縛る。

 次に代わりの新しいリュウゼツランの根の覆いを解いて慎重に穴に差し込み、周りから土をかけ、踏み固めてしっかり固定する。

 最後に棘避けの覆いを解くと、花芽を持ったリュウゼツランの葉は大きく広がり、以前からそこに根を生やしていたかのように囲いの中を占領した。

 作業を終え、足踏み鍬を元のように隠して、ふたりはクシのリュウゼツランが入った大きな包みを持ち上げた。


 叫び声が宮殿に入ってきて中を駆け回り始めた。

 本当は今すぐにでも走って逃げ出したいほどだが、リュウゼツランは重いうえに、包みがほどけて土が落ちれば、リュウゼツランに手を加えたことが分かってしまうだろう。ふたりは、はやる気持ちを抑えて慎重にリュウゼツランを運んだ。

 やっとのことでキヌアの部屋の裏の抜け穴まで辿り着いた。

 振り返ると中庭の辺りがぼんやりと明るくなっているのが分かった。悪霊払いたちが松明を掲げて中庭を走り回っているのだ。香の香りと松明の焦げた匂いが宮殿中に立ち込め、キヌアたちのところまで漂ってくる。


「悪霊払いたち、杭が抜けていることに気付くかしら……」


 ティッカが不安になって呟いた。


「大丈夫よ。あの者たちは駆け回ってすぐに次の場所に移るから、囲いの裏側までは行かないわ」


 そう言ってティッカの手を握りしめるキヌアのその手のほうが、じっとりと汗をかいて冷たくなっていた。




 シトゥアの祭りもいよいよ最後の日を迎えた。

 宮殿の大広間で三日間何も口にせずに祈り続けていた貴族たちがぞろぞろと外に出てきて、ようやく水を一口飲んで喉を潤し、太陽神殿の前まで参拝に行く。宮殿から神殿まで長い列ができた。

 リョケとワイナは移動する人々の列から抜け出した。

 三日振りに浴びた太陽の光と空腹で足元がふらつく。ふたりはまるで酔っ払ったような足取りでようやく中庭にやってきた。

 杭を抜いた場所から囲いの中を覗くと、リュウゼツランの周りに掘り返した新しい土が見えた。傍らの足踏み鍬には乾いた土がこびりついている。そして植えられたリュウゼツランの中心には小さな花茎が覗いているのが分かった。


「キヌアは無事に植え替えを済ませてくれたようだな」


 それを確かめた途端、二人に力が湧いてきた。

 残り少ない力を振り絞って杭を持ち上げ、地面に突き刺し、周囲を踏み固める。三本の杭を元通りに立て終えると、掘り返した土が目立たないように草を掛け、使った足踏み鍬を片付けておしまいだ。


「無事に済んだな。あとはリュウゼツランの花が咲くのを待つだけだ」


「では、クシ皇子の無事を祈願に行きましょう」


 リョケとワイナは肩を叩き合ってお互いの健闘を称え、太陽神殿へと向かった。







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