2、 婚礼
2、婚礼
成人の儀の翌日、昨日の疲れでぐっすりと眠っていたクシを兄のリョケが揺り起こした。
「クシ、もうすぐ顔合わせの儀が始まるぞ。早く起きろ!」
クシは半開きの目でリョケを睨みつけた。
「はあ? 顔合わせとは?」
リョケは寝ぼけたことを言う弟の顔を軽くはたくと怒鳴った。
「しっかり目を覚ませ!
今日は皇帝陛下に新しい側室がやってくる日だ。神殿で花嫁の洗礼が行われたあと、宮殿の大広間ですべての皇族との顔合わせがあるのだぞ」
リョケの言葉でようやく大切な行事を思い出したクシは飛び起きた。
「兄上! 今、太陽はどのあたりだ?」
「もう中空だ。早く仕度しろ!他の者はすでに大広間に揃って花嫁が来るのを待っているのだぞ!」
クシは寝台の周りに散らかった装飾品を鷲掴みにして、マントを肩に引っ掛けて部屋を飛び出した。リョケが慌てて後を追い、走りながらクシのマントや装飾を直してやった。
台形型に開いた細長い入り口をくぐると、高い天井の重厚な石造りの大広間が現れる。高窓から差し込む幾筋もの光と、高い位置に掲げられているたいまつの灯りが暗い色の石の壁を美しく照らし出していた。壁に貼られた金箔のラインがそれらをよく反射してさらに広間を輝かせていた。
中央通路の左右には大勢の皇族たちが居並んでいる。皇帝の玉座はまだ空席で、儀式が始まるまでにはまだ時間があるようだった。集まった皇族たちが各々勝手に雑談をしているため大広間全体がざわざわと騒がしい。
その中にクシとリョケが走りこんでくると、何人かが彼らに気づき大声を上げた。
「おお、遅かったではないか!」
「英雄のおでましを今か今かと待っていたぞ!」
「昨日の英雄も、今日は寝坊か」
一斉に笑い声が上がる。
クシは顔を真っ赤にして、そそくさと末席に身をうずめた。しかし皇族たちは隠れるクシに容赦なく声をかけて話題の中心に持ち上げようとする。
「しかし、昨日の成人の儀は実に素晴らしかった。あのように無傷で合格した若者をわしは見たことがないぞ」
「いや。クシ皇子ならやると思っておった」
「宮殿の若者の中では武芸で右に出るものはないからな」
「これからの活躍、おおいに期待しておるぞ」
皇帝の兄弟や従兄弟にあたる年配の皇族たちが口々に褒め称える。クシはリョケの蔭で肩を竦めて、過剰にも思えるその褒め言葉にちょんちょんと頭を下げていた。
「無傷で成人した者なら、ここにもおりますが……」
上座の方から声が響いた。皇帝の玉座の隣に座るウルコだ。クシの腹違いの兄であるが皇帝によって皇太子に指名されているので、皇帝の隣に座ることを許されているのだ。
ウルコは皇帝の側室の息子だ。ウルコの母は貴族ではなく、皇帝の愛妾から側室に成り上がったのだ。
正妃の息子はアマル、リョケ、クシの三人だった。正妃が亡くなり、皇帝は溺愛するウルコの母を正妃のように扱い、三人の嫡子を差し置いてウルコを皇太子に指名してしまった。
皇帝の地位は世襲制ではあるが、実は後継者選びには嫡子か庶子かはさほど問題ではない。その方法は皇帝が自ら指名するか、あるいは目ざましい功績を上げて貴族の誰もが王に相応しいと認めるか、そのどちらかなのだ。
しかしウルコは頭が鈍く、武芸の才能もなかった。
そのウルコをなんとか成人させようと、数年前、皇帝はウルコひとりのために成人の儀を行った。その儀式というのがまったく異例で、普通の式で使われる険しい山とは比較にならないほど低い丘の頂上から、攻撃する兵士たちもいない中をただ駆け下りるだけのものだったのだ。
人々は心のうちでは呆れていたが、皇帝の意向に逆らうことは許されないため、ウルコを褒め称えた。そしてウルコの合格を祝って盛大な祭りが何日も催されたのだった。
「ああ、これはこれは。そうでありましたな」
「これは大変失礼を」
何人かが取り繕ったように返事をしたが、ほとんどの者は後ろを向いて苦笑していた。
「クシ。お前も無事一人前の皇族になったのだから、今後は皇帝陛下と私のためによく働くのだぞ」
ウルコはクシの方を見遣って、しゃくれた顎を突き出した。
「はい。皇太子殿下」
クシはそう答えたあと、思わず奥歯をきりっと鳴らした。
「いつもの調子だ。軽く受け流せ」
リョケはクシを軽くひじで小突いて小声で声をかけた。
「兄上。屈辱ではないですか。後継者に相応しいのは、まずアマル兄さま、次に兄上だ。彼を皇太子と認める者は少ない。父上のお考えが全く理解できない」
リョケがクシに近づいて小声で叱った。
「しっ。声が高いぞ。この場で他の者にそのような話を聞かれてはまずい」
そしてさらにクシの耳に口を近づけると、それを手で隠してひそひそと耳打ちした。
「クシ。今日の花嫁は十七だそうだ」
「十七? 父上とはまるで娘か孫ではないですか。私とそれほど変わらず、兄上たちよりも年下だ。なんで今さらそのように若い側室を迎えるのですか」
「隣の部族キリスカチェの(天の女王)の娘だそうだ。キリスカチェとケチュアが和睦を結ぶために陛下に嫁いでくる。
キリスカチェは少数部族だが勇猛なことで知られている。向こうは小さな部族が生き残るために大部族と手を結ぼうと考えた。わがケチュアは有能な戦士が揃うキリスカチェの戦力が欲しいのだ。ここでケチュアとキリスカチェが手を結ばなければ、ほかの強大な敵につけいる隙を与えてしまうからな。
ただ、そのように若い娘ならふつう皇太子に嫁がせるものを、わざわざ父上が引き取ったのにはわけがある。
貴族の中には、ウルコを皇太子としての資質がないと批判する者が多くいる。
ウルコが即位する前に、そんな者たちが反乱を起こす危険がないとは言えないのだ。そんな危うい立場の皇太子に、大事な人質の姫を嫁がせて、万が一ウルコとともに失脚させることになったとしたら、キリスカチェは黙っていないだろう。
ウルコを皇太子にと望みながら、父上もウルコの評価を無視することができない証拠だ。現皇帝の妃であれば、たとえ父上が亡くなったとしても地位が落ちることはないからな。
キリスカチェは誇り高い部族ゆえ、たとえ自分たちが滅ぼうとも屈辱を受けたことに対して報復するであろう。最後にはケチュア族が不利な立場に立たされてしまうわけだ。
だから父上自ら、同盟の証である花嫁を引き取るしかなかった」
「しかし……この婚礼にはあまりにも無理が。花嫁が哀れだ」
「そんなことはどうでも良い。つまり父上……皇帝陛下でさえ、ウルコを後継者とすることに不安を感じているということだ」
ふたりがひそひそとやっているとき、貴族たちが前の列から順々に跪いて頭を垂れていった。
皇帝が広間に入ってきたのだ。
前の列がすべて跪くと、クシとリョケも慌ててその場にしゃがんで頭を下げた。
皇帝がゆっくりと玉座に身をうずめると、深く頭を垂れていた貴族たちが顔を上げてご機嫌伺いを始めた。
「この度はまことにめでたいことでございます。若い花嫁をお迎えになって、陛下におかれましてもいつまでも若々しくご闊達であられますこと、お喜び申し上げます」
「ほんに……。いつまでもお達者でうらやましい限りですな」
まるで仙人のような皇帝よりもずっと年上の皇族が、ところどころ歯の抜けた口を大きく開けて笑う。
しかし、皇帝の方はお世辞を並べる皇族たちを憂鬱な表情で見つめ、何度も大きな溜め息をついていた。
「クシ。お前の言うとおりだな。花嫁に同情するよ……」
リョケが頭を下げたままクシを振り返って言った。その言葉にクシはクックと肩を震わせて笑った。
「クシ!」
突然宮殿に低い声が響いた。クシが驚いてはっと顔を上げると、皇帝がじっとこちらを見つめている。さては今のやりとりが皇帝に聞こえたのか。クシは慌ててまた視線を下に落とした。
「昨日の成人の儀は大変立派であった。余はそなたを誇りに思うぞ」
クシは驚いて再び顔を上げた。
「ありがたきお言葉にございます」
末席に隠れていたクシは一歩前に進み出ると皇帝に深々と敬礼をした。クシが父に褒められたのは初めての事だった。
宮殿では有名なクシの奔放な性格を、父が嫌っていることは薄々感じ取っていた。クシはおそらく若い頃のビラコチャに似過ぎているのだろう。似た者同士はその粗までもが見通せる。クシの姿を見るとビラコチャの中に若い頃の挫折や苦悩が蘇ってくるのかもしれない。
理由は何であれ、父が自分を避けようとしていることにクシは前々から気付いていたのだ。その父がいま、大勢の前で自分を褒め称えてくれた。それはクシにとって何よりも嬉しいことだった。
周囲の者たちがまた騒ぎ始めた。みな一様にクシに賞賛を送ったが、ウルコだけは横を向いて拗ねていた。
「キヌアさまのお着きでございます!」
台形型の入り口に神官が顔を出し、告げた。その言葉で皇族たちはいっせいに壁側に身を寄せて中央通路を広く開けた。
すると間もなく大神官が現れ、そのあとにふたりの侍女が花弁を通路にまきながら入ってきた。
やがて入り口に姿を現した娘の姿を目にして皇族たちはみな息を呑んだ。大きく溜め息をつく音も聞こえてくる。しかしそれは決して感動から出たものではなかった。
皇帝の新しい后はケチュアの民が理想とする女性像とは程遠かった。
棒のように長く細い肢体は見事な赤褐色に染まっている。細い体といっても肩幅は広く二の腕や太腿には見事に鍛えられた筋肉がせり上がっている。細かく編み込んで後ろにきつく束ね上げた髪につられて目尻がこめかみまで吊り上がり、その目つきが刺すように鋭く見える。
ケチュアの一族となるためにいまさっき太陽神殿で誓いを立ててきたばかりだというのに、動物の毛皮をまとった異民族のいでたちはそのままだ。
なめした毛皮を体にぴったりと貼り付けるように纏い、そこから長くしなやかな四肢が伸びていた。
貴婦人たちは口に手を当て眉間に皺を寄せて、おぞましいものでも見るような眼で新婦を睨みつけた。そしてひそひそと囁き合った。
その違和感は花嫁も感じ取っているはずだが、彼女はまるで動じず、背筋を伸ばして正面を見据え、堂々と花弁の散らばる通路を歩み出した。
はばかることなく顕わになっている長い四肢は優雅に彼女を運んでいく。その姿が野原を駆ける鹿を思い起こさせる。
彼女が進んでいくに連れて、大広間にすーっと異国の風が吹き込んでくるような感じがし、その風に当てられた広間の者たちは今までの騒ぎを止めて彼女の姿に見入った。
クシはこの花嫁の姿にひと目で惹きつけられ、その姿から目が離せなくなった。
しとやかな物腰を躾けられた貴族の女性ならいくらでも目にするが、このように野性的な女性には会ったことがない。
クシが思わずその姿をじっと目で追っていると、その視線を感じたのか花嫁の方もクシを振り返って見つめた。
花嫁と目が合った瞬間、クシの心臓がドクンと大きく鳴った。その視線は確かに昨日の成人の儀のあとに自分を見つめていたあの視線に違いない。クシの鋭い感覚がそのことを確信した。
(彼女はどうして私を見ていたのだろう……)
クシが驚いた表情になったのを見て、花嫁は一瞬クスッと口元に笑みを浮かべた。しかしすぐさま無表情に戻って正面を向き直り、何事もなかったかのようにそのまま通り過ぎて行ってしまった。
クシはそのとき何ともいえない屈辱感を感じ、思わず唇を噛み締めて俯いた。
皇帝の御前に来ると、一見礼儀など心得ていそうにないこの花嫁が、すっと背筋を伸ばして跪き、ゆっくりと頭を垂れていった。
今まで野卑な異民族と思って軽蔑の目で見ていた貴族たちは意外な顔をした。それは、彼女のいでたちからは想像できない優雅な振る舞いだったのだ。
頭を垂れたまま花嫁は、横に従えていた侍女に何やら話しかけた。侍女がその言葉を訳して皇帝と広間の者たちに聞こえるように伝えた。
「キヌア様はこうおっしゃっています。
このたびは偉大なケチュアの皇帝陛下の元に嫁ぐことができたこと、大変嬉しく思います。ケチュア族の仲間入りをした今日この日より、末永く陛下にお仕えすることを誓います」
「うむ」
皇帝は短く答えて頷いたが、それ以上は何も声をかけなかった。明らかにこの若い花嫁に戸惑っている様子だった。
「野生のピューマのようなあの女を飼いならすことなど、父上には到底できないだろうな」
リョケがまたクシを振り返って囁いた。クシは今度は何も返事を返さず、ただ花嫁の後姿をじっと見つめていた。