8、 月夜の宴
8、月夜の宴
「【くしゃみ】、是非に頼みたいことがあるんだ」
倉庫の作物を点検していたクシのところに、チャキが顔を出しておずおずと言ったのは、高原から谷へと移る準備を始めた乾季の終わりだった。
いつもは一緒に作業をしているカチカリャがその日はほかの用で忙しかったので、クシはひとりで倉庫の中身を調べて、種として使う分と来年まで保管する分に分けなくてはいけなかった。
そんな忙しい時に声をかけられても気が回らない。クシは作業の手を休めずに適当に返事をした。
「なんだ? 私にできることなら別にいいが……」
「じゃあ、今夜月が昇ったら、ぼくの代わりに長老の家の前の広場に行っておくれよ。それだけでいいんだ」
クシは訳が分からなかったが、理由を聞いている暇はない。
「ああ、分かったよ」
そう安請け合いしてしまったのが運のつきだった。
月が昇るころ、村中がざわざわと騒がしくなった。そういえばオルマが明日は何かがあると言って昨晩からそわそわとしていたのだが、倉庫のことで頭がいっぱいで肝心な内容を聞きそびれていたのだ。
チャキに言われたとおり長老の家の前の広場にやってくると、そこにはたくさんの人が集まっていた。ロハたちがほとんどそこに集まっていると言ってもいいくらいだ。
人だかりを掻き分けて長老を探し、「チャキの代わりに来ました」と告げると、長老はしかめ面をして溜め息をついた。
「チャキのやつは、やっぱり逃げおったか……」
「逃げる?」
クシは何かまずいことに首を突っ込んでしまったのだろうかと、急に不安になった。
「うむ。しかし、クシが参加すれば宴も盛り上がるだろう」
そう言うと、長老はクシの手を引いて広場の中央に連れて行った。
広場の中央に大きな焚き火が焚かれていて、それを囲むように若者たちが立っていた。
若い男たちがぐるりと大きな外円を描くように立っており、クシはその円の一部に入れられた。
男たちの円に囲まれる形で、若い女たちが内円を作って男たちと見合うように立っていた。その若者たちの円を遠巻きに囲んで、ロハの皆が大騒ぎをして盛り上がっていた。
「それでは、今年はようやく年頃の男女の数が揃ったので、三年振りの『求婚の宴』を始めることとしよう」
長老が声を張り上げると、円を見つめる野次馬たちの歓声が一気に高まった。
「『求婚の宴』とはなんだ?」
隣に立つ小太りの男にクシは訊いた。
「なんだ、【くしゃみ】は知らないで参加したのかい?」
「チャキの代理なんだよ」
「あはは、チャキに嵌められたんだな。あいつはこの宴が嫌いだからな。
これは男女が結婚相手を決める祭りなんだ。歌に合わせて踊りながら男と女の輪が逆方向になるように回っていく。女は自分の意中の相手のところに来たらその場で踊り続けるのさ。男の方にも気があれば相手の手を取り、そこで婚約が決まるのさ」
「そんな! 私は結婚するつもりなんてない。下りるよ!」
円から外れようとするクシの腕を、隣の男はきつく掴んだ。
「だめだよ、【くしゃみ】。男女の数が揃わなければ宴は中止だ。こんなに盛り上がっているのに、皆をがっかりさせるつもりか?」
小太りの男はこの祭りに賭けているのか、殺気立った様子でクシを諭した。
「なに、別に求婚に応じなければいいのさ。求婚者が来るかどうかも分からないしな」
反対隣りの男が笑って言った。クシはもう逃げ出すことが出来なかった。
ほどなく円の周りの観客から、リャマの皮を張った太鼓を打ち鳴らす音に合わせて大合唱が始まった。手拍子や掛け声も入って大変な盛り上がりだ。
その歌に合わせて円になっている男女が愉しげに踊り出す。隣の小太りの男も陶酔したように夢中で踊っている。
もうこうなったら愉しむしかないと、クシも一緒になって踊り出した。
ふと目の前の女がクシの前で立ち止まって踊り続けているのに気付いた。ほどなく彼女を押し退けるように別の女もやってきて、クシのすぐ目の前で踊り始めた。
やがてぞくぞくと集まってきた女たちは、クシの周りで団子になって踊り続けた。観客からどっと笑いが起こる。
今やほかの男たちは皆ひとりで虚しく踊り続け、クシの周りに集まった女たちはもみくちゃになりながら、かわるがわるクシに愛想を振りまくのだった。
「【くしゃみ】ー! さっさと相手を決めろ! ほかの男に迷惑だぞ!」
「いいぞ、いいぞ。【くしゃみ】を取り合って踊れ踊れー」
円の男たちからは罵声が、観客からは野次が飛び、笑いが起こる。
クシはほとほと困り果てた。とにかくこの場から逃げ出さなくてはいけない。どうしたものかと考えながら辺りを見回していると、女たちの集団の後ろ側に見慣れた顔を見つけた。オルマだ。
ひしめいている女たちを掻き分けて必死にオルマの手を掴むと、そのまま広場を抜けて平原の暗闇の中に走り去った。
クシとオルマの背中をロハたちの大きな歓声が追いかけてきた。
「最初の一組が決まったぞ!」
「幸せになれよー」
「オルマを大切にするんだぞー」
野次を聞いて、また笑いがどっと起こる。
残された女たちは拗ねた顔でしばらく立ちすくんでいたが、再び円を作ると、最初のように踊りながら再び回り始めた。
広場を外れて誰もいない平原にやってきたクシは、ようやくオルマの手を離した。全力で走るクシに引っ張られてきたのでオルマは息も絶え絶えだ。肩で息をして話をすることもできない。
オルマが倒れこむように草地に座り込んだので、クシもオルマの横に腰を下ろすと、彼女の背中を優しくさすった。
ほとんど満ちた月は明るく、ふたりの姿をくっきりと照らし出していた。
「すまない、オルマ。あの場から逃げ出すにはこうするしかなくて……」
「なんだ……そういう……ことか……」
オルマは胸に手を当てて、必死で息を整えようとしていた。しばらく経ってようやく呼吸が整うと、オルマは再び口を開いた。
「チャキが【くしゃみ】に代わりをさせたんだな。故郷に帰りたいと言っていた【くしゃみ】が、ロハで結婚するはずはないから、おかしいとは思っていたんだが」
「オルマにもあの場で求婚したい相手がいたんだろうに。私が連れ出してしまったから、せっかくのチャンスが無駄になってしまったな。申し訳ない」
「最初からそんな相手などいやしないさ。困っていたところに【くしゃみ】の姿を見つけたから、まさかとは思いつつあんたの前に行ったのさ。
【くしゃみ】の気が変わってロハで結婚してもいいと思っているなら、あたしを選んでほしくて……」
オルマが真顔になって、クシの瞳をまっすぐ覗き込んだ。
「ねえ、【くしゃみ】。あんたを捨てた故郷にどうして帰りたいのさ。あんたはここで楽しく暮らしているじゃないか。ロハの生活は嫌いか?」
「そんなことはない。私はロハの民もここの生活も気に入っている」
「だったら、あたしと結婚してずっとここにいてくれないか?」
思わぬオルマからの求婚だった。答えを待ってオルマはじっとクシの顔を見つめた。
月明かりに照らされて、健康的な艶のある褐色の肌が蒼ざめて見える。いつもは強気なその瞳は、今は不安気に揺れていた。胸の前に合わせた手を強く握り締め、クシの瞳を真摯に見つめるその健気な姿に、クシの心は揺れた。
故郷は自分を陥れ、無理矢理罪を着せて追い出した。未だになんの音沙汰もないうえ、あと何年こうして放っておかれるのか分からない。クシが生きていようがいまいが、故郷の人間には何も関係のないことなのだ。
そんな故郷に何故帰りたいと思うのだろうか。
オルマのことは妹のように思っていたが、気の置けない仲であることには変わりない。二人でいるときはいつも心から笑える。この先夫婦になったとしても何も変わらないだろう。いやむしろ、いつまでも仲良く幸せに暮らせるのではないだろうか。
「そうだな。それがいいのかもしれない……」
しかしオルマに返事をしようとすると、何故かクシの中のもうひとりの自分が、オルマとの結婚を止めようとした。クシの心は激しく葛藤した。
瞬きもせずに見つめるオルマの視線から逃れようと、思わず顔を逸らしてきつく目を閉じる。すると瞼の中にぼんやりと人影が浮かんできた。その人影はゆっくりと近づいてくる。少しずつその姿がはっきりとしてきた……。
「キヌア……」
言われて、クシははっと目を開けた。怪訝な顔をオルマに向けると、彼女の表情にわずかに翳が差したのが分かった。
「やっぱりそうなんだ。【くしゃみ】には想う人がいるんだね」
「何故、その名を知っている?」
「なんだ。あたしも女の端くれだったんだな。なかなか鋭いじゃないか」
オルマは答えをじらすように、独り言を言った。
「キヌアという名はどこで?」
クシは焦ってもう一度聞く。オルマは溜め息をひとつつくと、月を見上げた。
「【くしゃみ】がピューマにやられて生死の境をさまよっているときに、何度もうわ言で呼んでいたんだよ。そのときピンと来たんだ。きっとそれは故郷にいる恋人の名じゃないかって。生きるか死ぬかというときに呼ぶくらいだから、よほど想っている相手なんだろうなって」
「そうか。私はそんなことを……。でも恋人なんかじゃないよ。彼女は恋してはいけない相手だから」
オルマは心配そうにまたクシを見た。
「どういうこと?」
「詳しくは話せないが、決して結ばれる相手ではないんだ。彼女は私の武術の師だ。尊敬こそすれ、恋することなど……」
「でもクシは生死の境を彷徨いながら、彼女を呼び続けていた。もしあれが最期だったとしたら、いちばん会いたい相手だったんだろう。ただ尊敬しているだけの相手ならあんな風に呼び続けたりしないさ」
「……私が彼女のことを想っているなどと、オルマに言われるまで気付かなかった」
「気付かなかったんじゃなくて、気付いちゃいけないと無理に気持ちを押さえ込んでいたんじゃないのか?
あたしが、いつかは帰ってしまう【くしゃみ】に恋しちゃいけないと思っていたのと同じように」
「オルマ……」
「嫌だな。そんなところまで気が合うのか」
オルマは下を向いて自嘲するようにふふっと短く笑うと、さっと顔を上げて明るい口調で言った。
「ねえ、【くしゃみ】。約束しよっ!
あんたは故郷に帰って、ちゃんと彼女に想いを伝えるんだ。それで振られてすっきりしたら、ロハに帰って来る。あたしはそれまで待っているから」
「私が戻って来なかったら?」
「あたしもそんな間抜けじゃないよ。【くしゃみ】は帰ってこないと思ったら、さっさと結婚するさ」
オルマはいつもの調子を取り戻して、クシの肩を思い切りはたいた。
「分かった。約束するよ」
クシはオルマに頷き、微笑んだ。
『リュウゼツランが咲く前に、クスコも忘れ、キヌアも忘れ、ロハの民となって暮らすことになるかもしれないな』
オルマとふたり寄り添うように並んで、月明かりにぼんやりと青く輝く草原を眺めながら、クシは思っていた。
広場に戻ってきたときには、もうすでに焚き火の周りに円はなく、お祭り騒ぎもおさまっていた。
数組の男女がその焚き火の周りで座り込んで談笑する姿や、解散した観客たちがぽつぽつと寄り集まり井戸端会議に花を咲かせている姿が見えた。
クシとオルマの姿に気付いた男が素早く寄ってきて冷やかした。
「愛の語らいは楽しかったかい?」
「なんで今更、あたしが家族同様の【くしゃみ】と結婚するんだい。勘違いもいいところだ!」
オルマがからかった男を怒鳴りつけた。
「騒がせてすまなかった。『求婚の宴』もよく知らずに参加してしまったものだから、オルマに頼って逃げ出すしかなかったんだ」
「まあ、あの状況じゃ仕方ないよなー。俺も分かるが、色男は大変なんだよなぁ」
クシの肩を抱いてそう言った男に皆が大笑いして、とりあえず騒動はおさまった。クシとオルマは顔を見合わせて苦笑した。
※むかし、アンデス地方の暮らしを紹介するドキュメンタリーでこの『求婚の宴』のような行事を観た覚えがありました。
その後、アンデス地方を舞台にした小説(作者は日本人)にもこんな宴の様子が描かれていました。
残念ながら、何の番組か、どういう題名の小説か忘れてしまい、本当に今もあるのか、どの地方の風習なのかも忘れてしまったのですが、ところ変わればいろいろな習慣があるものだなと、印象に残ったものです。
アンデス流の婚活ですが、単純明快で陽気なところがさすがラテン流!