6、 悲しみを越えて (その1)
6、 悲しみを越えて
クシの体はだいぶ回復し、最も深い傷を負った片腕をリャマの皮でしっかりと固定していれば、大体のことはできるようになった。チャキの方は、体中に痛々しい傷跡は残るものの、もう痛みを感じることはなく、普通に生活できるようになっていた。
一家は、あの悪夢が嘘だったかのように、また穏やかな生活を送るようになっていた。
その日はリャマたちを早めに塒に帰し、ポコの一家は家の前で雑談をしながら毛糸を紡いでいた。
クシがまだ本調子ではないから放牧のときに自分の苦労が絶えないとオルマがぼやき始め、ほかの三人は日が傾き出したことを好機に、そろそろ家に入ろうと片付けを始めたときだった。
そのとき夕焼けを背にした黒い影が音もなく近づいてきて一家の傍に立った。オルマがギョッとして振り返ったが、その姿を確かめて安心したように呟いた。
「なんだ。カチカリャじゃないか。驚かさないでくれ」
しかしカチカリャはその大きな体を無理やり縮めるかのように小さく背中を丸め、ぐったりとうなだれていた。しばらく一家の前で地面を見つめて立ちすくんでいたカチカリャが、聞こえるか聞こえないかというくらいか細い声で告げた。
「ティトーの子どもが死んだ……」
オルマが聞き違いかと思って、カチカリャに大声で訊き返した。
「何だって? カチカリャ」
「……ティトーの末の子どもがさっき、死んだんだ」
その衝撃的な内容をカチカリャは繰り返した。聞き間違いではない。
「何でだ?」
ポコが震える低い声でカチカリャに問う。
「飢え死にだ」
「だって! うちからとうもろこしを奪っていったじゃないか!」
オルマは怒りを向ける先がなく、カチカリャの襟首を掴んで怒鳴った。
「ティトーがポコのとうもろこしを盗んだときはもう手遅れだったんだ。おそらく平原に戻ってきたときにはすでに腹が弱っていたに違いない。弱った腹では干し肉などは受け付けないからな。気付いて盛んに穀物をやろうとしたが遅かったのだろう。それからあっという間だったらしい……」
「ティトーは何で早くにそれを言わなかったんだ! そうと知っていればもう少し分けてやることもできたのに」
「あいつは自分で何とかできると思っていたのだ。昨年ポコに何も援助しなかった負い目もあったからな。
高原に来てから末の子どもを見かけないので、どうした?と訊いたことがあったが、ピューマを怖がって外に出ようとしないのだと誤魔化した。そうしてまで隠そうとしていたんだ」
「でも、そうやって意地を張ったために、チャキも【くしゃみ】も死ぬような怪我を負い、最後には自分の子どもを亡くしてしまったんじゃないか! なんて莫迦なんだ!」
オルマはカチカリャの胸を叩いて泣き叫んだ。激しい後悔と怒りを持っていく場が見つからない。
「【くしゃみ】……いや、クシ……」
カチカリャが弱々しくクシに呼びかけた。
「お前が言ったとおりだ。今までのロハのやり方では、悲劇は繰り返される……」
カチカリャを追ってあとから長老もやってきた。そしてクシの前に立ち、手を取って真剣な眼差しでクシの瞳を覗き込みながら言った。
「クシよ。そなたにはロハを変えていける策があると言ったな。
ロハは、大昔は数家族が寄り合って生活するだけの小さな集団だった。そういう時代なら、各々が自由に土地を手に入れ、ごく僅かな収穫が得られれば十分に生活は潤った。しかし今は多くの家族が共に生活する大集団だ。畑の割り当ても限られてくる。もはや『自分の糧は自分で』という考えは通用しないのかもしれん。大勢の人間が集まれば争いも起きるが、協力すればそれ以上に大きな力となる。
クシの考えを皆に聞かせてもらえないか? 皆が納得すれば喜んでお前に従おう。この通りだ」
長老が跪いて深々と頭を下げると、カチカリャもそれに従った。
「長老、分かりました。もう悲劇を繰り返さないために知恵を絞りましょう」
クシは長老の前に跪き、その手をしっかりと握って約束した。
幼くして亡くなった命を天に返すためには、高い山に葬らねばならない。ロハたちはそう信じていた。
集落に、女、子どもと数人の留守番を残して、男たちはティトーの子どもを弔うために高い山の頂を目指した。雨季の大移動のときと同じく数日を掛けて山地に向かう。
その隊にはティトーの妻とオルマの姿もあった。子どもが入れられた小さな籠に縋りついて歩くティトーの妻を必死で支えて歩くオルマ。
ティトーが罪悪感を感じて援助を申し入れられなかったのと同じように、今度はオルマがティトーたちに罪悪感を抱いている。本当はオルマもティトーの家族を心配していたのだろう。しかし意地や誤解がティトーもオルマも追い詰めてしまったのだ。
鎮痛な面持ちで黙々と歩き続けるロハの民ひとりひとりを見て、クシは本気でこの民を救う方法を考えねばならないと、決意を新たにした。
弔いの儀式を終え、山を下りたロハの男たちが小休止を取っているとき、長老が皆の前に立って呼びかけた。
「われわれは大きな過ちを犯していた。しかし長年の習慣に慣れきってその過ちに気付かなかったのだ。その過ちに気付く知恵と変えようとする努力があれば、小さな命を失うことはなかったのかもしれぬ。
ここにいる異民族の青年がそれを教えてくれた。そしてわれわれが救われる道を示そうとしてくれておる。今までの伝統から抜け出すのは勇気がいるが、まずはこの青年の話を聞いてやってほしい」
そうして傍らにクシを立たせた。クシは、自分を見上げるロハの男たちをひととおり見回した。向こう側で膝を抱えて背中を向けているのはティトーだ。彼はしばらく何にも耳を貸さないだろう。しかし、ティトーの妻は寄り添うオルマとともに真剣な顔でクシを見上げていた。
クシは深く息を吸い込むと、ゆっくりと語り始めた。
「私を救ってくれたロハの民に、まずは感謝を述べたい。荒地で死にかけていた私は、あなたたちのお蔭でこうして生き延びることができたのだ。
しかし、あなたたちが災難を受けても何もできなかったことが悔しい。そしてとうとう、幼い命が消えてしまった。
ロハの民は支えあって生きている。しかしそれは個人の好意の範囲でだ。それではどこかで誤解や嫉妬が生まれる。そして今回のような悲劇になることもあるのだ。
私は、ロハの民がすべてひとつの家族となって、労働も収穫も等しく分け合ってはどうかと思う。天から与えられた土地を皆で協力して耕す。天災を受けた土地があれば、ほかの土地で補うのだ。そして出来た作物はすべてロハの皆の物だ。だからロハの民なら誰にでも、老人も病人も子どもにも、等しく与えられる権利があるのだ。
すべての民に等しく収穫を分けるためにはどうすれば良いのか私は考えた。まずはすべての収穫が収まる大きな倉庫を作り、作物を納める。そこから長が皆に平等に分けるのだ。倉庫には作物が腐らないような工夫を凝らし、余った作物は次の年にも使えるようにするのだ。
天災は人の力ではどうすることもできない。しかし、皆が協力してしのいでいけば、被害を少なくすることもできるのではないだろうか。
私のことを信用してくれる者は一緒に倉庫を建て、いま持っている作物を預けてほしい」
クシの話を聞いて、ロハたちはざわついた。
それがどんな内容であっても、古くからの慣習を切り捨てるには勇気がいる。ロハたちの反応は冷ややかで、クシの案を喜んで受け入れる者はいなかった。
そのときカチカリャが声を上げ、立ち上がった。
「クシは命をかけて村をピューマの脅威から救ってくれた人だ。私はクシを信用する。喜んで作物を預けよう」
カチカリャはロハの中で一番の働き者であり、大家族を抱えている。持っている作物の量も他の者より多いのだ。そのカチカリャがクシに賛成したことで、ぽつぽつと立ち上がって賛成する者が出てきた。
ティトーの妻も、後ろのほうに座るティトーの背中にちらちらと目を遣りながら、それでもオルマとともに立ち上がった。
協力を申し出たのはその場にいた者の三分の二程度だったが、倉庫を建てる人員には十分な数だ。
「ありがとう。では帰ったら早速倉庫を建てる準備をしよう。大事な作物は預けてくれた人すべてに役立てる。二度と悲しい争いが起きないように」
クシは協力を申し出てくれたロハたちの肩を順に抱いて感謝を述べた。