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5、 斜陽の都



5, 斜陽の都


 クスコの街には淀んだ空気が漂っていた。


 その頃、皇帝ビラコチャは公の席に出るのを拒むようになり、滅多に人前に顔を出さなくなった。

 皇帝の不在にその代理を任されるのは当然、皇太子―ウルコである。しかし怠惰な彼はすべての(まつりごと)に無関心で、国の重要な会議で居眠りをしていることも珍しくなく、最高位の者が下すべき決議はいつも重臣に任せっきりであった。

 上に立つ者が無能であった場合、単に下の者がその責務を負って苦労するといった単純な図式で済むのならまだ良い。国の最高権力者たる者がそうであったときには、必ずやこれを好機とばかりに今まで表舞台に立つことを赦されなかった者たちの台頭が始まる。


 クスコも例に漏れず、野心をもつ重臣たちが己に都合の良い方向へと政治を動かし始めていた。彼らに有利となるものなら民が苦しもうとも強引に推し進め、関心の及ばない下々の訴えはすべて切り捨てていった。

 さらに目先の甘い汁を吸う方法を覚えた重臣たちにとって、対外的な問題や国の将来などを考えることはまったくもって面倒な話で、そういった案件に対してはほとんど目を逸らしていたのである。

 それに加え、事実上最高位であるウルコには誰も意見できない。彼が皇帝の代理としてその位に就いてから、彼の愚行はひどくなるばかりだった。

 いつも酔っ払って側に女をはべらせ、気に入らなければ侍従を殴る。酔って乱れた風体を晒し、街を徘徊していることも度々あった。

 いまや宮殿内だけではなく、クスコの街全体に不満と憤りの声が高まっていたのだ。





「兄上、ウルコの噂をお聞きになりましたか?」


 リョケが、兄のアマルを朝稽古に誘い、手合わせをしながら訊いた。

 二人の周囲には、武術の指導を受ける少年たちの威勢の良い掛け声が満ち満ちていて、彼らの声がほかに聞かれる心配はない。

 アマルはリョケの斧に自分の斧を押し付けながら言った。


「ああ、知っている。毎晩、陛下の側室たちの部屋を順に渡り歩いているとか……」


「後宮での権威をもつウルコの母が見て見ぬ振りをしているのですから、ウルコは勝手し放題です。

 街なかに出て、酔って醜態を晒していることもあるそうで、市民の間にもウルコの悪評は広まっています」


「父上は毎夜キヌアの部屋に入り浸りで、気付いていらっしゃらないのだな……」


 賑やかだった少年たちの掛け声がぴたりと止み、彼らは吸い寄せられるように中庭の中心に集まり、中心から放射線を描くように美しく整列して一斉に腰を下ろした。

 少年たちの中央にすっと立つ長身の女性。たくさんの羨望の眼差しを受けながら、彼女は武器の構えの模範を示して見せている。 


「あの女はクスコに災いをもたらす存在かもしれん……」


 中央の女性に気を取られているアマルの斧を思い切りはじいて、リョケが言った。


「兄上、キヌアは関係ないではないですか。むしろ憐れなのはキヌアです。クスコに嫁いでからしばらくは皇帝に相手にされず、ようやく皇帝に認められたかと思えば、皇帝を惑わす存在ではないかと噂され……」


「リョケ、何をムキになっている?」


「別にムキになっているのではありません。キヌアのせいにする前に、我々が何とかしなくてはいけないのではないですか?」


 辺りがしんと鎮まってしまったため、アマルはリョケの襟首を掴んで引き寄せると、耳元に顔をぐっと近づけて耳打ちした。


「分かっているが、これはそんな簡単なことではない。

 今や表立って政治を執り仕切ることのできなかったウリンの貴族たちが、ウルコを傀儡として裏で堂々と政権を握っている。これ以上ウリンの貴族が好き勝手をするのを阻止するには、もはや普通の手段では無理なのだ……」





 ケチュア族が生きる大地では、太古よりどの部族も普遍的な自然信仰のもとに暮らしていた。自然は常に相対するふたつの概念の間で均衡を保っていると考えられている。天に対しては地、北に対しては南、昼に対しては夜……。

 この自然の摂理に倣い、ほとんどの部族にはふたり、ないし偶数の長が存在したのである。


 しかし、急速に勢力を伸ばし、多くの民と異民族を抱えたケチュア族は、太古のしきたりを保っていることが難しくなった。この大部族をひとつにまとめるためには絶対的な求心力が必要であり、やがて権力を握るのは唯一無二の皇帝となったのだ。

 建前では皇帝と同じ地位をもつとされる皇族も存在していたのだが、常に戦いと隣り合わせにあったため、やがて、ふたりの中で、武力に長け、多くの功績を為した方が皇帝と認められ、他方の存在は軽んじられることとなった。

 しかしかつてふたりの長が存在した名残は未だに存在し、それは貴族の派閥となって受け継がれていた。


 ふたつの派閥とは、ハナン(天)とウリン(地)である。


 貴族たちはこの大きな二大派閥の中に、それぞれの家系を持っていたのである。

 ウリン派はクスコを建国した祖から五代目までの皇帝を輩出し、六代目から現皇帝ビラコチャまではハナン派の出自である。皇帝の地位は特別であるが、その下の皇族、貴族たちになると、どちらの権威も同等である。同等であるがために、権力を巡る争いは熾烈であった。

 ビラコチャの子どもたちはそれぞれの母系によってハナンとウリンに分かれていた。

 ウルコは、ビラコチャからその母とともにハナン派の新しい家系を与えられていた。アマルたちの兄弟は母がハナン出身の皇后であるためにハナン派である。

 皇位継承を有力視されている皇子たちが全てハナン派である限り、ウリン派から次期皇帝を立てることは叶わない。しかしそのウリン派の者たちにとって、無能なハナンの皇太子が権力を握っていることは好都合であった。

 皇太子を蔭でうまく操り、実質上の権威を握ることが可能だからである。同じ家系の者を次々と重臣に取り立てることも、身内の懐が潤うような財政策も、もっともらしく仕立てて申請すれば、皇太子は特に詮索せずに許可を下してくれる。

 ウリンの貴族たちは巧みに計画を進行していった。ハナン派の者たちが気付いた頃には、ウリンが宮殿内の決定権をほぼ掌握していたのだ。

 もちろん、ハナン派の中にも自分の一族の利になるように、同じような画策をしている者もいた。

 私利私欲を貪ろうとする者たちは進んでウルコを指示し、かえってウルコの権力が増大していくという矛盾も生まれていた。




 アマルの言葉を聞いて、リョケが呟いた。


「普通の手段ではないとすれば……革命……」


 瞬時にアマルははじかれた斧を拾うと、リョケの喉元に突きつけた。


「滅多なことを口にするな、リョケ。お前は口が軽すぎる」


 アマルは斧を引いてリョケに鋭く一瞥を与えると、マントを翻して足早に中庭を出ていった。


『兄上はいったい何を考えている?』


 リョケは去っていくアマルの後ろ姿を見つめて、急に心がざわついた。




 指導を終えて部屋に戻ってきたキヌアは、異様な光景を目にして立ちすくんだ。

 部屋の前には枯れ草や枯れ枝が山のように積まれていて、入り口を塞いでいた。


「なんですか! これは!」


 ティッカが叫んで枯れ草の山に飛びつくと、狂ったようにそれらを払い退け始めた。


「まあ、御覧なさい。異民族の娘は鳥の巣のようなねぐらに住んでいるんだわ」


「おお、汚らしい。あの娘がいる限り、そのうち宮殿中が鳥の巣のようになってしまうわよ!」


 回廊の向こう側から着飾った側室がふたり、こちらを眺めてわざと聞こえるように話していた。


「なんという嫌がらせをするのですか!」


 ティッカが彼女たちに向かっていくと、側室たちは抱き合って怯えるような素振りをした。


「まあ、まるで野獣だわ! 恐ろしい。

 私たちにそんな汚らしい物が運べると思うの? 知らないわよ!」


「自分たちで集めておいて、見つかったら私たちがやったというつもり? ひどいわ!」


「さっさと片付けなさいよ。ひどい匂いがして堪らないわよ」


 ふたりの側室は、甲高い声で笑いながら回廊を走り去った。


 ティッカは悔し涙を流しながら戻ってきて再びゴミの山に飛びつくと、その悔しさをぶつけるように太い枝を引っ張り出しては傍らに力いっぱい放った。目の前の悪意の固まりと、嘲笑う側室たちの姿を目の当たりにして、キヌアは深い溜め息を吐き、自らも枯れ草を拾い始めた。


「何故こんな目に遭わなくてはいけないんでしょう!

 キヌアさまといえば、キリスカチェでは偉大な天の女王の娘にして指折りの戦士。誰もが跪く存在でした。友好のために将来有望とされた戦士の座を降りてまで嫁いできたというのに、この国の者たちは異民族というだけで私たちをまるで虫けらのように見て!」


 キヌアは何も答えずに黙々と片付けをしている。ティッカは大きめの枝を思い切り放りながら、大声で話し続ける。


「でも、キヌアさま。皇帝陛下だけはキヌアさまの味方ですよ。あのように下劣な者など放っておけばいいのです。何と言われようと、陛下のご寵愛を受けているのはキヌアさまだけなのですから。こんな嫌がらせをするのも、ひとえにキヌアさまが羨ましいんですよ!」


「心配しないでティッカ。このくらい何てことないわ」


 キヌアはティッカに笑顔を作ってみせたが、『何でもない』とはとても思えないような悲しげな笑顔だった。




(解説)

///ハナンとウリンについて///


インカ皇族の派閥について、実は私自身もうまく理解できていません。

単なる皇族の系統だけでなく、この地域独特の世界観であり、

このふたつの派閥はクスコ市を二分して上の領域、下の領域に居を構えていました。すべての空間を二分し、それをさらに二分し、その間を三分割するという空間の理念で、それぞれのポジションに人も時間も分類されるという考え方のようです。(セケ・システム)

この派閥が一定の秩序のもとで皇位を継承していたのか、それとも常に争いがあったのかも定かではありませんが、名前の知られている歴代皇帝以外に数十人が存在していたという説や、同時期に二人が同じように権力を握っていたという説、無能な皇帝は伝承から名前とその存在を抹消されたため今記録にあるのは一部の皇帝だという説、さまざまな説が混在し、王位継承の方法について定かな説はまだありません。

最近、Wikipediaの解説を読んだら、皇帝は同時期に三人存在したと書かれていました。

ますます理解に苦しむ内容になってしまったので、物語の中で述べた解説はこの物語の進行上、私が勝手に解釈し、創作を加えたものと理解してください。

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