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4、 ピューマ (その2)



「クシ、クシ……」


 誰かが呼んでいる。懐かしいその声にクシは目を開いた。

 ゆっくりと上半身を起こすと、目の前にはキヌアがいた。いつもの稽古の格好で、真っ白な朝もやを背にして立っていた。


「キヌア……。私はクスコに戻ることができたのか? 罪を赦されたのか?」


 問いかけると、キヌアは何も言わずに微笑んで頷いた。


「そうか。しかし……。

 私は、ビクーニャを殺した罪よりも、もっと重い罪を犯してしまった。

 ピューマを殺したのだ。ビクーニャが神の遣いならばピューマは獣の王、神そのものだ。あのように強健な獣に挑むなど無謀なことだと分かっていながら捨て身で挑んだのだ。そして私はその不可能なことをやってしまった。ただ夢中だった。恩人を助けたかったのだ。

 後悔はしていない。この上は天の裁きに従うのみだ」


 クシはそう言ってうな垂れた。

 キヌアはクシの前に跪くと両手を差し出した。その手でクシの手を取り優しく包み込む。 クシが再び顔を上げると、キヌアは微笑んだままゆっくりと首を振った。キヌアの笑顔を見つめていると、負い目を背負った彼の心が少しずつほぐれてくる。


「でもキヌア……。私は獣の動きを察することができたのだ。あのときキヌアの教えを思い出した。


―― 全神経を研ぎ澄まして自分の周りの空気を読み取る ――


 今まで分かっていてもなかなかできなかったことが、命がけの闘いでようやく掴み取ることができたのだ。皮肉なものだ。私にはもう先はないというのに」


 クシは淋しく笑った。キヌアがクシの顔を覗き込んで静かに口を開いた。


「その感覚は稽古では得られないわ。自分の命が懸かってはじめて得られるものだわ。あなたはそれを体得したのよ。

 神の裁きがあるとすれば、それはあなたがその技を民のために使っていくという使命だと思うわ」


「キヌアは優しいのだな。そんな慰めを言ってくれるな。私に待っているのは死罪だ」


「いいえ。慰めなんかではない。その使命は死罪よりも辛く苦しいことかもしれない。それでもあなたは生きてその使命を果たしていくのよ」


 クシがキヌアを見つめていると、キヌアはまた微笑んで深く頷いた。

 そしてクシの手を離すと立ち上がり、くるっと背を向けて濃い朝霧の中に消えていってしまった。


「どこに行くんだ。待ってくれ、キヌア!」


 クシは立ち上がって追いかけようとするが、体は鉛のように重く動かない。

 やがて周囲の霧が晴れてきて、目の前に壁が見えてきた。それはクスコの石壁ではなく、ロハの泥レンガの壁だったのだ。


「私は戻ってなどいなかった。キヌアは幻だったのか……」


 しかし、何故か手にはキヌアの手のぬくもりが残っていた。

 また霧が流れてきて、今度は自分の体さえも見えないくらいに何もかも真っ白に覆い尽くしてしまった。




 天井に開いた穴に吸い込まれるように、煙がゆらゆらと立ち昇っていく。ぼやけた視界の中でその白い筋の動きだけがやけにはっきりとしていた。

 気付くとクシは横になって天井に立ちのぼっていく煙を見つめていた。体を起こそうとしたが、地面に縛り付けられているかのように、ぴくりとも動かない。無理に力を入れようとすると、全身を多数の槍で一斉に突付かれたような激痛が走った。

 まったく動くことができず、ただ煙の動きを目で追っていると、その視線の先に誰かがひょいと顔を出した。しかし目が霞んでよく見えない。


「キヌア?」


 じっと目を凝らしていると、ぼんやりとした人影が次第にはっきり見えてきた。


「【くしゃみ】目を覚ましたんだね」


 目にいっぱいの涙を溜めて、オルマが見つめていた。

 オルマはクシの手をきつく握り締めている。さっき夢の中でキヌアのぬくもりだと感じたのは、オルマの手だったのだ。


「おお、奇跡だよ。【くしゃみ】が生き還った!」


 ポコが叫んでクシを覗き込んだ。オルマがクシの体をそっと抱えて、水の袋をあてがい、それを飲ませた。クシの喉に冷たいものが走り意識がしっかりとしてきた。


「よかった。もう二日も目を覚まさなかったからダメかと思った。本当に良かった……」


「二日?」


 クシは不思議な顔をした。

 ピューマを倒して気が緩んだ途端、意識がなくなり、キヌアの夢を見ていた。しかしそれはほんの一時のことではなかったか?


「【くしゃみ】がピューマを探しに行ったあと、オルマは心配のあまりお前を追いかけたのだ。ようやくお前を見つけたときには、ピューマの遺骸の上に覆いかぶさるように倒れていたそうだ。

 オルマはひとりではお前を連れ帰ることができず、村に助けを呼びに来た。【くしゃみ】が死んじゃう!と半狂乱だったよ。

 わしらが駆けつけたときには、お前は大量の血を流したせいで冷たくなっていた。それから二日間、まったく目を覚まさなかったのだ。わしらはもう諦めろと言ったのだが、オルマは必死でお前の体を温め続けた。そうしたら青かったお前の顔に段々と血の色が戻ってきて、目を覚ましたではないか。オルマがお前を生き還らせたんだ」


 ポコが説明すると、オルマは顔を赤らめた。


「【くしゃみ】に生きる力があったからだ。あたしは手伝っただけさ。でも、本当に良かった」


 オルマがぽろぽろと涙を流した。この二日間よほど心配して、必死に看病してくれたのだろう。


「ありがとう、オルマ」


 オルマは泣きながら首を横に振った。


「お礼を言うのはこっちだよ」


 向こうから声がして、体中に布を巻いたチャキがよろよろと近づいてきた。


「チャキ! 気付いたのか?」


「うん。まだ傷は痛むけど、もう大丈夫。

 でも【くしゃみ】がピューマを倒してくれなかったら、やっと良くなっても、またあいつに襲われて命を落としていたところだよ。ありがとう【くしゃみ】」


「そうか、良かった。本当に……」


 言いながらクシは、全身に痛みが走るのを覚え、顔を歪めた。


「さあ【くしゃみ】、もう少し寝ていたほうがいいよ」


 オルマは母親が子どもを寝かしつけるように、クシの胸に手を当てて優しくとんとんと叩いた。その響きに誘われるように、クシは深い眠りに落ちていった。






「……を、ロハから追放しよう」


「そうだ。あいつのやったことは決して赦されないことだ」


 数人がぼそぼそと話し合う声を聞いて、クシは再び目を開けた。話し声のするほうに顔を向けると、ポコと二人の男たちが膝を突き合わせて話し合っていた。壁に積まれたとうもろこしの袋の上にオルマとチャキが座り、彼らの様子を上から神妙な面持ちで覗き込んでいる。


「あいつのせいでチャキは襲われたのだ。チャキは命を落としていたかもしれない。殺人と同じだ」


「昨年のポコの災害のときには一粒のとうもろこしも出さなかったくせに!」


「そうだ。ああいう奴がいる限り、ロハの団結が崩れるではないか」


 クシは、ただ事ではないと感じて無理に体を起こした。だいぶ眠ったせいか、体はだいぶ軽くなっていたが、やはり体中に鋭い痛みが走った。


「どういうことだ? チャキがピューマに襲われたのは誰かのせいなのか?」


 クシが後ろから声をかけると、五人が一斉にクシを振り返った。


「いや、大したことじゃない。心配いらないよ。お前はまだ寝ていた方がいい」


 ポコが慌てた様子で言った。


「穏やかには聞こえなかったが。

 お蔭で私はもう大丈夫だ。詳しく聞かせてもらえないか?」


 クシが真剣な顔で言うので、ポコは少しの間考えてから言った。


「そうだな。【くしゃみ】にも話しておいたほうがいいな」


 ポコがほかのふたりに同意を求めると、彼らは顔を見合わせ、お互いに頷いた。


「あの日、わしらの留守の間に、うちにティトーがやって来たそうだ。ティトーはチャキに足踏み鍬の先を向けてとうもろこしを出せと言った。オルマや村の者が少しずつ分けてやったとうもろこしでは足りず、うちのとうもろこしを無理やり奪おうと考えたのだ。

 チャキが断ると、ティトーは鍬の柄でチャキの頭を殴った。チャキが意識を失っている間に、やつはとうもろこしの袋をいくつか奪っていったのだ。

 チャキは日暮れになっても目を覚まさなかったので火を焚くことができなかった。さらに殴られた頭の傷から漂う血の匂いに誘われて、ピューマが忍び込んで来たのだ。

 チャキはそのとき意識を取り戻したが遅かった。ピューマはチャキに襲い掛かってきた。暗闇の中で竈の横にクシの斧があることを思い出し、手探りで斧を取り出すと、覆いかぶさるピューマを切り付けた。ピューマがひるんだ隙に逃げ出そうとして、とうもろこしの袋の山に当たり、落ちてきたとうもろこしの下敷きになってしまったのだ」


 チャキはポコが話すのを頭を抱えて聞いていた。チャキにとっては二度と思い出したくない出来事だ。


「だから、すべての原因はティトーにあるのだ!」


 ポコが力強く言い切った。


「…………本当にそうだろうか?」


 クシは、ポコと、ほかの二人の男をゆっくりと見た。ひとりは背中の曲がった老人、ロハの長老。もうひとりは大柄の男カチカリャ、ロハの実質的な族長だ。


「本当にティトーを追い出せば済む問題と思っているのか?」


 クシはもう一度、三人に向かって聞き返し、さらに奥にいるオルマとチャキにも問いかけるように二人に目を向けた。


「悪いのはティトーだ」


 オルマが声を上げた。


「一族の秩序を乱す者を、ここに置いておくわけにはいかない」


 長老は毅然として言った。


「私は気さくで親切なロハが大好きだ。でも、ひとつ気になることがあった。収穫をめぐって小さな争いがよく起こるということだ。私のような異邦人を親切に受け入れてくれるのに、なぜ同じ部族の者同士で争うのか。不思議でならない」


「畑の収穫は、家族の命を守る大切な糧だ。不運に見舞われた者がいたとしても、助けてやれる余裕などない。それに毎年誰かが天の災いを受ける。それは誰にでも起こりうることなのだ。それに耐え抜けばまた豊作の年もあるのだ。すべては天と大地の神の思し召しだ。」


 族長のカチカリャが説明した。


「そうだろうか。天災を受けた者だけが不運と割り切らずに、一族でその被害を請け負えば、ひとりが大きな被害を背負って苦しむことはなくなるではないか」


 言葉に力を込めたため、クシはまためまいを覚えてふらついた。オルマが慌てて袋の山から飛び降りて駆け寄り、クシを支えた。


「【くしゃみ】、あたしらはこうやって何十年も暮らしてきたんだ。それに従えない奴はロハとして暮らす資格はないんだよ」


「今のままでは、またティトーのような者が出てくる。その前にロハのやり方を変えていった方がいい。

 私に考えがある」


 クシはポコと長老とカチカリャの三人の顔を見て言った。


「なんだ?話してみろ」


 カチカリャが訝し気な顔で聞く。若造が生意気な口を聞くなと言わんばかりだ。


「ロハたちは、自然から与えられた土地を活かせないのは自分の責任だと言うが、それは違う。

 ロハに与えられたすべての作物が自然から与えられたものなのだ。一部の土地が災害に見舞われてもほかのすべての作物を合わせて分ければ苦しむ者が生まれない。全体が不作になったとしても、収穫を分け合って協力してしのいでいけば乗り越えられる。少なくとも一家族だけが苦しんで恨みを持つこともなくなるではないか。争いも生まれない」


「しかし、すべての収穫を等しく分けるなんて無理だ。それに自分の土地が豊作だった者は、それを不作だった者に分けてしまうのは嫌がるだろう」


「土地を分け与えてしまうからだ。畑はすべてロハの一族のものだ。そして人々はそこを協力して耕し、一族の倉庫に蓄える。そこから長が等しく分けていくのだ。倉庫は、数年間の蓄えができるような造りにしておく。その年に余った食料は次の年が不作だったときのために取っておくのだ。

 最初は抵抗があるかもしれない。しかしこの生活がうまく回っていくようになれば、何年も飢饉が続かない限り、飢えも争いもなくなる……」


 一度に話したため、クシは額にじっとりと脂汗をかき、言葉を切ってからがっくりとうなだれた。


「分かったよ。分かった。少し休め、【くしゃみ】」


 オルマは自分の袖でクシの汗を拭き取ると、クシの身体を抱えて横たえた。クシはしばらく苦痛に小さく呻いていたが、やがて眠ってしまった。

 まだ苦しそうなクシの寝顔を見ながら、オルマが呟いた。


「【くしゃみ】は本気でロハのことを心配してくれているんだ。何とかできないか? カチカリャ」


 カチカリャはクシの考えにはまだ半信半疑だった。しかしクシの必死の訴えを聞いたあとでは、それを無碍にすることもできずにいた。


「【くしゃみ】の怪我が良くなったら、本当にそれが出来るのか見せてもらおう。【くしゃみ】の責任でロハをまとめていってもらおうじゃないか。どうだろう、長老」


 長老は頷いた。


「少なくとも、この若者はロハのことを思って言ってくれているのだからな。うまくいかなければ、元の生活に戻るまでだ。

 チャキ、それまでティトーを追い出すことはできん。それでもいいか?」


「ぼくは【くしゃみ】を信じるよ!」


 チャキはいつにない強い眼差しを向けた。


「【くしゃみ】、責任は重いぞ。早く良くなってロハを助けてくれるのを待っているからな」


 荒い息をしながら寝ているクシの髪を撫でながら、オルマは言った。



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