4、 ピューマ (その1)
4、ピューマ
ロハたちは平原に戻り、また放牧の生活を始めた。
ポコは、平原の暮らしは厳しいと言うが、クシはのんびりとリャマを追って一日を終えるこの暮らしが気に入っていた。リャマを追いながら広い大地を走り回るオルマも、谷間の暮らしよりずっと活き活きと輝いているように見える。
豊作のお蔭で食べ物に不自由しないことが、この何もない土地の暮らしも穏やかに楽しく感じさせてくれるのかもしれない。数粒のとうもろこしを挽いて作るパンを分け合ったり、一頭のリャマの肉を保存して少しずつ何日かに分けて食べるという質素な食事だが、ロハにとっては十分恵まれたものだった。
乾季も深くなり、草平野には刺すように冷たい風が吹きつけるようになった。空の蒼はさらに深みを増して吸い込まれそうな色をしている。雨の降らないその季節の日差しは今までよりもずっと鋭い。気温は低いが、一日中外で働くロハたちは誰も、黒リャマにも負けないほど色濃く焼けていた。
昨季はまだロハに来たばかりで何もできなかったクシも、ようやくリャマを追うコツが掴めてきたところだ。相変わらず厳しいオルマの指導を受けながら、放牧民としての仕事をなんとかこなせるようになってきていた。
ときどきリャマに水を飲ませるために、クシが最初にオルマと出会った湖までリャマたちを移動させる。たくさんのリャマを追いながら移動するのは大変な作業で、行って戻ってくるにはまるまる一日かかった。
その日も、クシとポコとオルマの三人は湖までリャマを率いて行った。留守はチャキが守っていた。
湖から戻る途中、数頭の仔リャマが群からはぐれてしまい、クシが探しに行くことになった。幸い仔リャマたちは反対側の岸辺でまとまって草をはんでいた。
クシは慣れない手つきで仔リャマたち一匹ずつに縄をかけると、必死にそれを引っ張って丘の向こうに連れて行こうとする。そうすると悪戯ざかりの小悪魔たちはクシをからかうように違う方向へと駆け出した。
いくら力のある者でも一度に別方向へ引っ張られては、その場に抑えておくのが精一杯だ。大汗をかきながら縄を離すまいと全身で踏ん張り、仔リャマたちとクシはその場で長い間縄を引き合っていた。やがて仔リャマたちが虚しい抵抗に飽きて自らおとなしく従うまで、クシの悪戦苦闘は続いたのだった。
「思っていたより時間がかかってしまった……」
寒い季節にもかかわらず汗だくになっているクシが意地になって平静を装おうとしているのを見て、オルマは指を指して大笑いした。
「まだ放牧に慣れないのは仕方ない。段々とコツを覚えていけばいいのさ」
そう言ってポコは優しく慰めてくれたが、オルマは容赦ない言葉を浴びせる。
「いつも冷静な【くしゃみ】が、仔リャマごときに必死になっているなんて、おかしいったらありゃしない!」
クシはオルマを睨みつけたが、オルマはお腹を抱えて涙まで流しながら笑い続けていた。
ロハの集落に着いたのは、もう日が暮れた後だった。
帰り着く前に暗くなってしまったので、三人は途中で火を熾してたいまつに灯りをともした。やっとのことでリャマたちを彼らの塒の草原に帰すと、三人はたいまつの灯りを頼りに家の方に向かった。
チャキが家に灯りをともしているはずだが、どこまで行っても家の灯りは見えてこない。昇りはじめた月の明かりに助けられて目を凝らすと、暗闇に沈んだ泥レンガの建物が見えた。空気抜きの穴からも入り口からも、まったく灯りは漏れていない。
ポコが顔色を変えて走り出した。オルマとクシも続く。
家に飛び込んだポコは、たいまつの灯りで慎重に家の中を照らしていった。ポコの目にまず飛び込んできたのは真っ赤に染まった床だった。震える手でたいまつを握り、その先を照らしていく。
人の足先が見え、腿が見え、その先の上半身はとうもろこしの山に埋もれていた。
「チャキ!」
ポコの後から家に入ってきたオルマは金切り声を上げてポコを押し退け、倒れている体に駆け寄った。上半身にかぶさるとうもろこしの山を狂ったように払いのける。
クシもオルマを手伝って、必死にとうもろこしを払い除け、腿を抱えてチャキの体を引っ張り出した。チャキの腹も胸も血だらけで、顔は蒼白だ。もう生きてはいないかもしれない。オルマは泣き叫んでチャキの体を抱きかかえた。
「一体、何が?」
クシが呟くと、ポコが頭を抱えて答えた。
「ピューマだ。ピューマがチャキを襲ったんだ。しかしチャキは日が暮れたら必ず火を焚くはずだ。それなのに何故ピューマが入ってきたのか……」
ポコは頭を振りながら、何故だ何故だ……と繰り返した。彼の妻もピューマに襲われ、悪夢がまた繰り返されたのだ。ポコのショックは計り知れない。
クシは、オルマが抱きかかえるチャキの無残な姿を悲痛な面持ちで見ていた。しかし、ふと何かに気付き、チャキの頭の横にしゃがみ込んだ。
チャキの耳に顔を近づけ、彼の名を呼ぶ。
「チャキ、チャキ……」
何度か呼ぶうち、チャキの指先がそれに反応してぴくんと動いた。
「生きているぞ!」
クシが叫ぶと、ポコとオルマが驚きの声を上げた。三人で手を持ったり体をさすったりして何度も呼びかける。チャキの体はときどきそれに応えてピクピクと動いた。傷だらけだが、よく見るとどの傷も急所を外れているようだ。
「良かった! チャキ!」
オルマの涙が嬉し涙に変わった。手早く自分の服の裾を裂いてチャキの傷の手当てをする。
「ピューマが暴れたときに積み上げてあったとうもろこしの袋から中身が落ちてきたんだ。ピューマはとうもろこしに埋もれてしまったチャキをそれ以上襲うことができず、諦めて逃げていったんだろう」
ポコがホッとした顔で言った。
「しかし……チャキの血の匂いを覚えたピューマはまたやってくるかもしれない。ピューマを退治しなければ危険だ」
クシが入り口の外に広がる闇の平原を睨んだ。
「ピューマを退治するなんて、そんなこと無理だよ」
チャキを介抱しながら、オルマが溜め息をついた。
「ピューマはチャキの血を付けて逃げていった。夜が明ければ血の跡を辿ってピューマの塒を探し当てることができるかもしれない」
「塒を探し当てたって、どうやってピューマを倒すんだい!」
オルマが顔を上げ、クシを睨んで聞き返した。
「私が行く。私はこれでも故郷で戦士としての訓練を積んできた。今ならチャキが与えた傷でピューマは弱っているはずだ。勝てるかもしれない」
そう言うと、チャキが埋もれていたとうもろこしの山の下から、血だらけの石斧を見つけて引っぱり出した。それはクシがクスコから唯一持ってきた物だが、ロハの村では使う機会がなかったため、普段は竈の横に置いてあったのだ。
チャキは咄嗟にその斧を掴んでピューマに抵抗したのだろう。斧の刃には血がこびりついていた。
「ダメだ、【くしゃみ】! 人間がピューマに敵うはずはない。しかも奴は傷を負っているのだ。気が立ってさらに凶暴になっている。【くしゃみ】がいくら訓練を積んでいたとしても勝てるわけがない」
ポコが必死で止める。
「随分と見くびってくれるな、ポコ。私は武術の腕には自信がある」
クシは笑って見せた。しかしその後で真顔になって続けた。
「それに…………。
実は、私は故郷で死罪に等しい罪を犯したのだ。しかし運良く故郷を追われるだけで済んだ。かろうじて死罪を免れたこの身なのだ。万一ピューマに敵わなかったとしても、その命を、助けてくれたロハの為に捧げられるなら本望だ」
「莫迦なことを言うんじゃないよ、【くしゃみ】!
あんたは大事な家族なんだよ。ピューマが襲ってきたら、皆で一緒に戦えばいいじゃないか!」
オルマがクシを怒鳴りつけた。
「オルマ、万一の話だよ。私は命を粗末に考えているわけではない。勝てる自信があるのだ。オルマまで私を見くびるのか?」
「だって【くしゃみ】。相手は獣の中の王なんだ。相手にしようなんて気が狂っているとしか思えない」
「獣の王でも獣は獣だ。人間には知恵がある」
クシはこめかみに人差し指を立てて得意気な顔をして見せた。
本当はクシに自信などなかった。逆に恐ろしくて息が詰まりそうだった。戦で敵を倒したこともない自分に凶暴な獣など倒せるのだろうか。
しかし、いったんその味を覚えたチャキの血を求めて、獣はまたやってくるに違いない。そうなればチャキだけでなく、オルマもポコも、自分も襲われるだろう。
命の恩人を救うために投げ出す命なら惜しくはない。クシは無理に自信満々の様子を装っていたのだ。
どんなに止めても聞く様子のないクシに、オルマ親子はそれ以上何も言うことはできなかった。
「ポコ、頼みがある。これくらいの石と縄をできるだけ多く集めてくれ」
クシは入り口に転がっていた握り拳ほどの大きさの丸い石を拾ってポコに見せた。
「それと、リャマの皮を厚く巻いて腕当てを作ってほしい」
「そんなことはお安い御用だが……」
(本当に行くつもりなのか)という言葉の代わりに、ポコは訴えるような目をクシに向けた。
「父さん、【くしゃみ】を信じよう。あたしらに協力できることがあるなら、できる限りやってやろうよ」
溜め息をつきながらオルマが呟くように言った。
ポコが集めてきた石と縄で、夜が明けるまで三人はボーラを作った。
「これをどうするんだい?」
クシに言われるままに作ったはいいが、その用途に見当がつかず、オルマはそれを顔の前に持ち上げて、垂れ下がった石がぶつかり合う音を聞いている。
「回して勢いをつけて投げ、動物の首や脚に絡ませて倒す」
言いながらクシは軽くそれを回し、部屋の隅に立て掛けられた鍬の柄めがけて投げた。ほんの少し回転させただけだが、ボーラは勢いよく飛んでいき、柄に固く巻きついた。オルマがそれをほどこうとしたが、びくともしない。
「へえ、【くしゃみ】は頭がいいな。これなら勝てる自信があるはずだ!」
オルマはボーラの威力に感心して、これならクシがなんとかしてくれるだろうと信用した。
『キヌア、獣に勝つにはどうしたらいい……』
縄に石を括りつけながら、クシは心の中の師に問いかけた。
―― 全神経を研ぎ澄ませて自分の周りの空気を読み取ることが大切なのです ――
突然脳裏に、鮮やかにキヌアの声が蘇ってきた。
『キヌア、どうか私とともに戦ってくれ』
今、クシが頼れるのは、記憶の中のキヌアの教えだけだった。
夜が白々と明けるころ、クシは泥レンガの家を出た。
かち合って音がしないようにボーラを束ねて腰に結わえ付け、たすき掛けにした縄の背中側に斧を挿し、両腕にはリャマの皮を幾重にも重ねた丈夫な腕当てを巻いた。
「【くしゃみ】、必ず無事に帰ってくるんだぞ! 敵わないと思ったらすぐに諦めて逃げてくるんだぞ!」
オルマは心配のあまり、クシの姿が小さくなるまで大声でいろいろと呼びかけていたが、声が届かないくらいに離れてしまうと、いつまでも勢いよく手を振って見送っていた。
土の上には既に乾いて黒ずんだ血の跡が点々と付いている。ピューマの足跡も微かに残っている。
その日は風が穏やかだったのが幸いだ。黒い染みは風に運ばれた土に覆い隠されることなく、はるか遠くまでピューマが辿った道を示してくれていた。
血の跡が小さく薄くなってきたとき、小高い丘に突き当たった。
丘を上り切り、その先を見下ろすと干上がった川の跡が見えた。水はないが、湿った土が蛇行する流れを描いており、それに沿って背の低い木がぽつぽつと生えている。
丘の上に身を潜めて慎重にその周辺に視線を走らせる。すると大きめの繁みの陰から動物の脚らしき物が覗いているのが見えた。
「あいつだ」
クシはそれがチャキを襲ったピューマであることを察した。黒い染みは微かではあるが、丘を越えてその繁みの手前まで続いていた。
視線をそこに向けたまま、ゆっくりと腰に手をやり、ボーラを留めている縄をほどく。そしてそのひとつを取り出して軽く放ると、ボーラは半円を描いて繁みの前にすとんと落ちた。
落ちてきたボーラに誘われるように、繁みの中から琥珀色の丸い頭が覗いた。突然目の前に降ってきた謎の敵の正体を確かめようと盛んに鼻を鳴らしながら近寄っていく。続いて現れた頭に似つかわしくないどっしりと大きな体には、ところどころ肉が裂けた跡があり、乾いた血がこびり付いていた。
チャキが必死に負わせた傷だ。しかしその傷がピューマの頑丈な体を弱らせている様子は見られない。
クシは二つ目のボーラを取り出し、今度はそれを勢いよく回して力いっぱい放った。ボーラは高速で回りながら空を切り、ピューマの後ろ足を捉え、絡みついた。
猛獣は敵の奇襲を察して、素早くボーラが放たれた方へ向き直り、突進してきた。その脚を捕らえていた筈のボーラは、強靭な後ろ足を完全に締め上げることはできておらず、虚しくほどけてしまった。
クシは向かってくるピューマの眉間を狙って再びボーラを投げつけ、すぐさま斧を構える。
ボーラを眉間に浴びたピューマは一瞬たじろいだが、さらに獰猛さを増して一気にクシに飛び掛ってきた。
クシはリャマの皮が厚く巻かれた左腕を突き出し、ピューマの牙を食い止めた。ピューマはクシの腕に喰らいついたまま、頭を左右に激しく揺すった。クシの腕をちぎり取ろうとしているのだ。クシは喰いつかれた腕と両脚に力を入れてピューマの動きに抵抗する。そしてもう片方の腕で、ピューマの首に向かって斧を何度も振り下ろした。
首の苦痛に耐えかねたピューマはクシの腕から口を離して後ろに飛び退いたが、再びクシに飛び掛ろうと身を屈めた。
クシはピューマの動きを慎重に観察しながら、斧を握る反対側の手を腰のボーラにかけ、石の部分を持って引き抜いた。
ピューマは低く唸ると前脚で地面を引っ掻いた。
ピューマが牙をむき出して飛び上がった瞬間、クシはピューマの口の中めがけてボーラの石をまっすぐに投げ入れた。石がピューマの喉にすっぽりと納まった。そして飛び上がったピューマの腹の下に素早く転がり込み、そこに一撃を加える。
ピューマはクシの身体を飛び越えてその向こうに仰向けに転がったが、すぐさま身を翻して起き上がった。
しかしすぐに襲い掛かってくる気配がない。むせながら、しきりに頭を振っている。クシの投げ入れた石が喉を塞いでいるのだ。
その隙をクシは見逃さなかった。真正面から向かっていくと、ピューマの脳天に斧を振り下ろした。
気付いて獣はクシに飛び掛ろうと前後の脚をぐっと伸ばしたが、クシの斧が獣の額を打ち砕くのが僅かに速く、脚を突っ張ったままドッと横に倒れた。
クシは気を失った獣の身体に跨り、その喉をかき切ってとどめを刺した。ピューマが再び起き上がることはなかった。
戦いが終わり、クシはしばらく呆然と獣の遺骸を見つめていた。
―― 獣の王に勝った ――
ふと我に返って自分の体を見回すと、流れ出る自分の血と獣の血で全身が赤い斑模様になっている。
うまくかわしたと思っていたピューマの爪は、クシの体をあちこち傷つけていた。
腕に喰いついたピューマの牙は厚いリャマの皮を貫いて腕の肉にまで達していた。ボロボロになった腕当ての下から血が後から後から滲み出てきて、地面にぼたぼたと滴り落ちた。
それをぼんやりと見つめているうちに、クシの意識は薄れていった。