3、 流浪の民 (その2)
(ご注意)
自然災害の描写があります。敏感な方は閲覧をご遠慮ください。
その年の雨季はほどよく雨が降り、ほどよく日が差して、作物の育ちが良かった。
とうもろこしはオルマの背もクシの背も越えて伸びていき、見事な林を作った。
「やっぱり【くしゃみ】は神の遣いだ。今までこんなに立派に育ったことなんかないよ。今年は空腹で生きるか死ぬかの心配をしなくて済みそうだ」
オルマはとうもろこしの梢を見上げてクシの腕を握り締めた。
ちょうどオルマの顔の辺りに大きなとうもろこしが頭を覗かせていた。クシがそれを取って皮を剥くと、中から艶やかな黄色い実が出てきた。
「うわぁお」
オルマが嬉しそうに声を上げた。
収穫は枝が枯れて実が乾いてからになる。しかしここまで立派に育てばもう豊作に間違いはなかった。
「楽しみだな」
オルマがとうもろこし林の間を無邪気に走り回って声を上げた。
事件は突然に起きた。
穏やかな雨季が終わろうとしていた頃、スコールが度々やってきたのだ。雨は集中的に激しく降り続き、地盤をもろくしていった。
もしも土砂が流れたら谷の中腹に暮らすロハたちは一瞬で流される危険がある。しかし彼らには、それぞれの小屋に篭って震えながらひたすら祈り続けることしか方法がなかった。
激しい雨音が不安を余計煽り立てる。
グゴゴゴ…………
雨音に混じって微かにくぐもった唸り声のようなものが聞こえてきた。
「土なだれだ!」
ポコが叫んでチャキ、オルマ、クシを急いで小屋の外に押し出すと、自分も飛び出した。
ポコは三人の背を押しやりながらぬかるんだ谷の斜面を登っていった。小屋から少し離れた高台の林に飛び込み、斜め下方に自分たちの小屋と畑を見下ろす。
ポコたちが避難した林の中には後から次々とほかの家族が飛び込んで来た。最後にティトーの家族が走り込んできた。
ティトーたちが林に走りこんだと同時に、彼らのすぐ背後に轟音が響いた。巨大な茶色の濁流が恐ろしい勢いで斜面を流れていく。ロハたちはみな叫ぶことも泣くことも忘れて呆然とその光景を眺めていた。
雨が上がり、林の中に身を屈めて体を寄せ合っていたロハたちがぽつぽつと立ち上がり、自分たちの住まいと畑の方を見た。
遥か向こうに見える小屋や畑はそのままの形で残っていた。しかし、彼らの目の前には幅広いのっぺりとした土の斜面が横たわっていた。
土石流が渓谷に古くから根付いていた木々とともにすぐ手前にあった畑と小屋をも押し流してしまったのだ。緑深い谷の斜面は、その場所だけ耕したばかりの畑のようなまっさらな空間に変わっていた。
そこにはティトー一家の所有地があった。しかし今は跡形も無くなっていた。ティトーの畑のすぐ横にあるポコの畑も一部が流されていた。
ティトーは呆然と立ち尽くし、彼の妻はうずくまって悲鳴のような泣き声を上げた。ティトーの小さな子どもたちも、意味は分からないが母親の泣き声に怯え、母親の体にすがりついて震えていた。
天候が落ち着くと、男たちが木の皮や蔓で丈夫な縄を作り、その先端に括りつけた棒を土の斜面の向こう側に残っている木に投げ渡した。族長のカチカリャが張られた縄を最初に渡って安全を確かめると、その後に続いてロハたちはひとりひとり土の斜面を渡っていった。
自分たちの家に戻った人々はようやく安心した。しかしティトー一家には帰る家がない
ポコは敷地の一部を分けてやった。ティトーの家族はそこに小屋を建てて身を寄せることになった。
ポコとクシは小屋を建てるのを手伝ったが、オルマはよほど昨年のティトーの仕打ちが忘れられないらしく、一度も顔を出さなかった。
土なだれですべてを失ったティトーはすっかりやる気を無くしてしまった。小屋が出来上がってしまうと、新しい作物を育てようともせずに毎日ポコから分けてもらった酒を飲んで寝ていた。
とうもろこしの茎や葉が黄土色になって乾き、いよいよ収穫ができるようになった。ロハたちは喜びの歌を歌いながら一斉に刈り入れを行う。どの畑もいつにない豊作だ。ポコの畑も、一部は流されたものの、残された畑で失った部分の収穫を十分補えるほどの実りを得ることができた。
収穫に忙しい人々の様子を酔っ払ったティトーは恨めしそうに眺めている。彼がポコから分けてもらったとうもろこしの酒はもうすぐ底をついてしまうだろう。そしてその後の一家の生活をどうするつもりなのか。ティトーには全くそれを憂える気配はなかった。
収穫が終わればそれらを袋に詰めて、ふたたび草原へ戻る準備をする。持ち運べる量に分けて袋に詰める筈なのだが、オルマはひとつの麻袋に収穫したとうもろこしをめいっぱい詰め込んでいた。
「そんなに詰めたら麻袋が破れるよ。もう少し少なくしないと……」
クシが言うと、
「これはティトーの家にもっていくんだ」
袋の隙間を探しては器用にとうもろこしをねじ込みながら、オルマが答えた。
ティトーに恨みを持っていたオルマだったが、彼の妻と子どもたちのことは不憫に思えたのだろう。収穫した作物を分けてやることにしたのだ。クシがぱんぱんに詰まった麻袋を持ってやり、オルマの後を付いてティトーの小屋を訪ねた。
「あたしらもこれで半年食っていかなくちゃならない。少しで悪いんだけど……」
ティトーの妻は何度も何度も頭を下げていた。
「余計なことをするな。畑が流されたのは当然の報いだと他の者たちもみんな思っているんだろ」
奥のほうからティトーの呻くような声が聞こえてきた。
「これはタラサにやるんだ。あんたには関係ない」
オルマはティトーの妻の顔を見ながら答えた。
「流された畑だけがわしら家族に与えられた分なのだ。それを急に神サマは取り上げなすった。何の気まぐれなのか、わしら家族を気に入らなくなったんだろうよ」
呂律の回らない口調でぼやいてティトーは軽く鼻を鳴らした。そんなティトーの姿をちらりと見たあと、彼の妻は大きく溜め息を吐いて申し訳なさそうに胸の前で手を組み俯いた。
「ロハは収穫を皆で分け合わないのか? 困った人がいたら助け合うことをしないのか?」
ティトーの小屋を出たあと、クシはオルマに問いかけた。
「土地は一族皆で占ってその割り当てを決める。それは各々に豊穣の神が分け与えてくださったものだ。それを活かすのは各々の努力次第。神から分けてもらった土地を活かせないのは自分のせいだ。それが昔からのロハのしきたりなんだ。
前の年、ティトーは同じことを言ってあたしらを助けてくれなかった……」
「しかし、オルマたちが見舞われた虫の被害やティトーが受けた土なだれの被害は自分のせいではないだろう」
「そうだ。それは神に嫌われたのだから仕方ない。皆、毎年誰かが何かしらの被害を受け、収穫の量には必ず差が出る。どの家族も楽をして収穫を得るわけではないし、豊作といっても人に分けても余るほどの実りにはならない。苦労してほかより収穫を得た者が、いちいち不幸に見舞われた者の面倒を見ていたら損をするのは苦労した者じゃないか。働き者はいつも損をすることになる。あたしらは昨年我慢した分、今年は神から恵みを与えられた。それだけのことだ」
『……それではまた新たな恨みが生まれるではないか』
クシは、ロハたちの考え方に納得がいかなかった。
雨季は最後の嵐とともに終わりを告げ、風が少し涼しく感じられるようになった。
ロハたちは、収穫したとうもろこしで作った酒の甕だけを残し、谷を後にした。谷にやってきた時の荷物に加え、収穫した作物を抱えてまた平原に戻っていく。彼らの荷のひとつひとつが、これからのひと季節、ロハたちの命を支えることになるのだ。
谷間を上がり、小高い山を越え、リャマの群れが待つ平原まで、ロハたちの長い旅がまた始まった。